神に起源を持つ言葉
しつこくも稲垣先生ネタである。今度は『問題としての神』からの引用であるが、この本はすでに確保ずみである(笑)
われわれが使う言葉、われわれの考えの中に、やはり神様に起源を持っている言葉があるとしか言えないのです。そういう言葉や考えがある。それを認めないかぎり、神について語ることはみんな無意味ですよ。神様について知らないと言う人に対して、神様について語ることは無意味です。私が根本的に、神を問題にすることが大事だと思うのは、みんなが神様のことを知っている、という前提に立ってのことです。そんな無茶な、と思う方があるかもしれませんが、でも私は正直言って、私のささやかな哲学的思索のひとつの実りとして、そういうことを申し上げたいのです。p.47(強調は引用者)
これはおよそ神学的思考というものが成立するぎりぎりのところをとらえた言葉だと思う。
「人間のぼろい頭で神について考えたことなどすべて無意味である」と考えてしまったら、それでおしまいである。
「人間の精神は、宇宙の深い部分から、高貴なるイデーを受け取ることができる」――これを認めない限り、神学はないのである。また、精神文化もないのだ、とあえて言おう。
神学が可能なのは、人間は神的知性を分有しているからである。つまり、神の像、Imago Dei である。
もちろん、この「受け取ったもの」は、音楽や美術を通しても表現されることができるだろう。言葉もまた、人間がもつ表現手段である以上、そういう可能性から排除される必要はないということである。
Imago Dei がなければ、霊性にかかわる知的行為そのものがまったくあり得ない。それほど Imago Dei は根本的なイデーであることを、改めて確認したい。