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2008.04.02

天使は身体性を持つか

中公版『哲学の歴史3』ボナヴェントゥラの項より

ところで、この世界(被造物)に対する神の超越性が純粋現実態、純粋形相として表現されたということは、逆に言えば、被造界には可能態としての質料が存在論的構成要素としてすべての被造物に見出されるということを意味する。こうして、質料のない霊的被造物の存在を認めるトマスに対し、ボナヴェントゥラはすべての被造物の内に質料性を不可欠の要素として見る普遍的質料形相論の立場をとることになる。それは、直接にはイブン・ガビロル(アヴィセブロン。一〇一〇頃-五八頃)を創始者として当時の西欧世界にかなり広まっていた、質料を可感的世界に局限することなく、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものを措定する新プラトン主義的質料形相論の立場であった。
こうした質料形相論に立つことによって、被造物の神による創造と保持の説明もおのずからトマスとは異なるものとなる。 p.551-2

ん~ これですよ、やっぱり。
この文章は何を言っているのか? ふつうは、わからないでしょうね(笑)

ここでの問題を言い換えてみると、「天使もまた身体性をもつのか?」ということになる。

こういう問題についてまじめに知的な議論を交わす・・なんという素晴らしい世界であろうか。あの時代にもどして~ という感じであるが、このブログは確信犯的アナクロニズムを実践しているので、私はいま、この問題をまじめに論じてしまおうと思う。

トマスは、天使は身体性を持たない知性体なのだと言っている。これに対し、ボナヴェントゥラは、いや、天使にも身体性はあるのだ。なぜならば、神以外のものは、どんなに微細であれ、一種の物質性をもつことを免れないからだ、と論じているのである。

この議論については、私はどうしても、ボナヴェントゥラの肩を持ちたくなる。私としては、そう考える以外にないように思えるのだ。それは私が、新プラトン主義を基本的に受け入れているからであることはもちろんである。

「質料を可感的世界に局限することなく、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものを措定する」

質料ということばを説明するのはたいへんだが、ここではとりあえず「物質的な要素」とでも考えておこう。質料とは materia であり、もともと「物質」と同じ語なのである。

新プラトン主義の世界ヴィジョンは、要するに、「グラデーションの宇宙」ということだ。

神から、最下層の物質世界まで、何段階も階層をなしている。
そうすると、つまり、この最下層の世界(つまりいまわれわれがいる世界である)の物質性は、宇宙で最も濃密な物質性なのだが、宇宙には、この世ほどではないが、それでも物質性はあるという、いわば「微細物質性」が存在することになる。

天使とは、仏教で言えば菩薩に該当する存在論的ステータスを持つ高次元存在であるが、それらもまた、きわめて希薄ではあるが、一種の物質性をもつということだ。この「微細物質性」のことを「霊的質料」と呼んでいる。

天使は、人間のような肉体は持たない。しかし、きわめて微細ではあるが、身体性を持ってはいる。なぜならば、身体性を持つということは、個別的であるということである。ほかの身体性と分離できるということである。身体性とは「差異を挿入すること」だと言っていたのは、メルロ=ポンティであったかどうか(うろ覚え)。つまり、神(宇宙根源の『一』のポジションにある何ものか)以外の、「存在そのもの」ではない、「存在するもの」は、すべて何らかの身体性(質料、物質性)を持っているというのが宇宙の基本構造だということである。

物質性は、この世以外にもある。ただし、より微細な物質性である(なお、「より微細」というのは、特に「より良い」という意味であるとは限らない)。
物質性がある世界だということは、その世界における存在者は、みな一種の身体性をもつということでもある。

この「微細身体性」は、無限の階層に分かれている。つまり、宇宙根源への遠さ・近さによって分けられている。

かの聖ボナヴェントゥラも、そのように考えていたと知ると、何だかうれしくなってくるではないか(笑)

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