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人格の尊厳とペルソナ

依然として、稲垣先生三昧である。きょうはCiNiiからタダでPDFを入手して、人格(ペルソナ)についての論文を読む。

近代では、人格の尊厳とか言うが、なぜ人格は尊厳なのであるか、その根拠は、近代の人間中心主義では基礎づけられない。この点において、カントの人格概念は重大な欠点をもっていると指摘する。

結局、なぜ人間の人格が尊厳なのかは、それが「神の像(イマーゴ・デイ)」であること以外に、基礎づけられない。この点で、近代のヒューマニズムは、無根拠の思想ではないか、と言っている。

私が解説すると、そもそも、私が私として存在しているということは、私は「人格(ペルソナ)」としてある、ということである。そのペルソナとして存在するということは、究極的には、神のもつペルソナ性の分有として成立しているのである。

稲垣先生を読んでいて気がつくのは、「人間は神化へと向け歩んでいるものである」というのは、東方神学だけではなく、トマスも明確にそういうヴィジョンを持っているということだ。

人格がなぜ尊厳であるかといえば、それはそれぞれが神性を分有しているからであり、それぞれはみな、神性との一致へ向け歩んでいるからである。

よく、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いが出される。
そういう問いが出てくるということ自体、現代人が、倫理というものの「根拠」について、確信を持っていないことの現れであろう。だが、神学的思想によれば、この答えは明確である。つまり、「人間は、神性の一致へと歩むという目的を持って創造されているので、その歩みからそれる行為を行うことは、人間が存在することの神的目的に合致しないからである」ということである。『神との対話』に出てきたような比喩でいえば、人間は東京から発して大阪へ行こうとする目的を持っているのであるから、北の方向へ向かうことは、ただその目的の成就を遅らせるだけであるということになる。

すべては、神性との一致へと向かう。宇宙では、それ以外のゲームは行われていないのである。そのゲームから「おりる」ということはできない。すべては、神性から発出して神性へ帰還する旅をおこなっているのであり、帰り着くまで終わることはないのである。

ふつうというか、凡庸な哲学者は、「倫理というものには根拠があるのか」という問いを発して、「それは無根拠ではないのか」という方向へ持っていこうとすることがある。それで、「常識を疑った」つもりでいるらしい。

すべてのものの無根拠を明らかにして、それで根本的に疑ったつもりの哲学は、全く古い、古すぎる。

形而上学のことなど何も知らないくせに、ポストモダンのフランス現代思想の「形而上学批判」をオウム返しに口にしていた日本の自称前衛知識人など、なんという軽薄さであったろうか。

人間が存在する目的を、その内なる神性から解き明かしていくのが、真の哲学である

そして、「近代的自我」という概念そのものが、かなり虚妄のものだったかもしれない、ということも考える必要がある。

ここでまたやり玉に挙げて申し訳ないが、ケン・ウィルバーなどに見られる、かなり常識的な思考パターンをここで批判しておきたい。

それは、東洋思想の「無我」思想に、西洋の「近代的自我」を対置するという思考パターンで、ウィルバーなどは、要約してみれば、「東洋の無我は深いものだが、西洋近代の自我も大切にしなければいけませんよ」というようなことを言っているわけである。

しかしここですぐにわかることは、この思考には「伝統西洋」というものが抜け落ちているということだ。西洋思想は、伝統的に、「私が私である」ということの深みを徹底して追求しており、それが、「神性の分有としてのペルソナ」として成立しているという事態を見出しているのだ(ここではあまりシュタイナーのことを述べないことにしているが、彼の言う「自我」概念がそういうキリスト教思想に由来していることは明白である)。近代的自我とは、そこから神性の部分を切り落として、無制約的な自由を持つと錯覚するに至った自我にすぎない。

このような、東洋的無我・対・近代的自我という対立軸で思考することが、すでに凡庸だと言いたい。もしくは、伝統西洋についての勉強不足である。その対立軸には、「私が私であることの途方もない深み」への思索が全く入っていない。これが私がウィルバーを批判するポイントの一つである。ウィルバーをいいと言っている人は、結局ウィルバー以外の霊的思想というものをほとんど知らないで言っているのではなかろうかと思う(通俗的ウィルバー解説書を書いたある著者は、はっきりと、ウィルバー以外読んだことがないと私に語った)。たまにはボナヴェントゥラでも読んでみてはいかがであろうか。

つまり、近代的自我ははっきりと「ノー」である。「ペルソナとして存在する私」を深くとらえるということは「イエス」である。そういうことである。そのような「私が私であること」に深く向き合うことを回避して、安易に「東洋的な無」を持ち出すことは、思考の深化にはつながらないと思われる。

また、言うまでもないが、人間が神的目的へと方向づけられて存在しているということは、これまた「疑おうと思えば疑うこともできる」ものである。疑うということは、この世界というものは本当はないかもしれないという疑いさえ持つことができる。こういう徹底した疑いを持つことが「よいこと」であるという価値観を持つ哲学者は現代では多いと思うが、私は彼らを凡庸と呼びたい。疑うということはそこまで絶対的なことなのかということを疑っていないからである。人間が神性へと方向づけられているということは、「魂的な感覚」により直覚されることであり、それを昔の哲学では「信仰」という名で呼んでいたのである。そのような「魂において、宇宙から受け取ったイデー」に基づいて、存在の神秘を可能な限り言語化していくという行為が神学なのであり、それは人間にとって最も根本的な学というべきなのである。

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