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再び、問題としての神

ここで注目しなければならないのは、オッカムの新しい認識理論はそれに先立つ古典的な形而上学的認識理論の批判的克服というよりは、むしろそれを無視することによって成立したものであった、という点である。したがって、オッカムにまで遡る近代認識理論(基礎づけ主義)が崩壊したこんにち、われわれはオッカムが視野の外に置いた形而上学的認識理論を一つの有力な選択肢(alternative)として考慮に入れることができる。いうまでもなく、古典的な認識の形而上学をそのまま現代に復権させることは不可能であるにしても、そこにふくまれている洞察にもとづいて、理性と信仰、ないし知ることと信じることとの関係、合理性の概念、そして「学」としての神学の問題に関して探求を進めることは可能であるといえるのではないか。
稲垣良典『神学的言語の研究』p.16 (強調引用者)

・・これですよ、これ。

形而上学的な「学」をすべての学知から排除したことの「根拠」は、すでに崩壊しているのである。

これは、稲垣先生も『問題としての神』で言っているとおり、ハイデガーの言う「存在忘却」の問題でもある。

現在の学知は、ある「根本的な場」があることを忘却し、それを学知の領域から排除しようとしてきたのである。

それというのも、近代は、「絶対的な確実性のある知識の探求」を、「人間にとって根源的な場(存在)に接近しようとする」ことよりも優先すべきであるとし、後者は、確実性に乏しいものなので探求に値しない行為である、との価値観を採用したからである。

そうした問題を学知から排除したことは、そのこと自体に絶対の根拠があることではなく、究極的な問題は「考えなくてもよい」という、「価値観の変化」であったのである。その正しさは一度も「証明」されたことはないのだ、ということを理解すべきである。

まさに「問題としての神」という本のタイトルが表しているとおり、「本当に考えるに値することとは、神である」ということなのである。

現実には、「なぜ神学をやってはいけないのか」との答えは、「それでは食えないから」というのがいちばん真実に近いのかもしれない(笑)

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