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近代の後に来る思想とは

真の意味で、「近代の後に来る思想」とは、宇宙が神的根源に発し、宇宙と人間が存在することは神的な目的に向けて方向づけられており、それは最終的には「神化」、すなわち、ヨハネ福音書にあるような、万物が「すべてにおいて一つ」となる栄光へと向けられている、というイデーに基づくべきである。

そのことを表現してきたことにおいて、キリスト教思想の偉大さを率直に認めるべきである。ただ、キリスト教には、魂の先在、そして神の摂理の一環として輪廻転生があるということが、受け入れられていなかった。この点を補うべきであると考える。これは、オリゲネスにおいては認知されていたことは、このブログで再三述べたとおりである。

従って、現代の霊的思想は、その基本的な骨格は、新プラトン主義を内在させたところのキリスト教思想においてできあがっており、それに輪廻転生という重要なイデーを追加した形になっているわけである(キリスト教思想と輪廻イデーとの結合は、100年前にシュタイナーが予言したところであることは、ここでもすでに述べたが、実際にそのように動いているのである)。

ここへ来て、いわゆる「ポストモダン思想」といわれていたものが、本当の意味で近代を乗り越える思想ではなかったことが、はっきりしてきてしまった。

ドゥルーズとか、デリダとかは、根本的にはニーチェの思想を超えていないように思う。つまり、何ら中心がないという意味でのニヒリズムから転じて生の絶対的肯定へ至ろうという思想であるが、結局のところ、宇宙的な目的を見失い、無制約的な自由をもてあましている近代人の枠組みを超えるものではなかった。その象徴がドゥルーズの自殺である、と私は思っているのである。自殺に終わる哲学は絶対に善いものではない。作品と生活を混同するな、なんて陳腐な批判は受けつけない。それは、生の肯定に失敗した哲学だと自ら宣言したところになるのであり、哲学者というものは絶対に自殺してはいけない。自分を生み出したところの宇宙に対する深い感謝の念を持って終わることができない哲学に、何の意味があろうか。

ポストモダン思想とは、つまるところモダン思想の中のバリエーションにすぎなかったのである。近代というものの自明の前提となっていることがらをさらに問い直していく必要がある。

ポストモダン思想を、ベルグソンなどと関連づけて、「生命の思想」として位置づけようとする人もいるが、そもそも、宇宙根源や宇宙的目的というイデーを喪失したまま、無目的な「生命」を持ち出したところで、それが解決となるのであろうか。そこでさらに西田幾多郎を持ち上げたところで同じことである。根本的に、存在はどこから発出し、どこへ向かうのかという目的論的構成を見失ったままで、「生命」だけが一人歩きしてもしかたがない。「生きること」は自己目的ではないのである。それはより高次の宇宙的目的に属するものとして初めて成り立つのである。まだまだ、神と向き合うことを回避した思想が多いということである。

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