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伝統主義思想とそれにつけ加えるもの

またもナスル先生。最新刊の『真理の庭園』は、スーフィズムの教えをもとに霊的世界観を要約して示したもの。これはスーフィズム「研究者」としてではなしに、自ら「スーフィー」として、実践家として書いたもの。

0060797223 The Garden of Truth: The Vision and Promise of Sufism, Islam's Mystical Tradition
Seyyed Hossein Nasr
HarperOne 2007-09

知るべきことがコンパクトにまとまっているな~ と感心しきり。

これと、思想哲学部門をまとめている Islamic Philosophy from its Origin to the Present をそろえれば、イスラム思想・霊性はほとんど概観できる。

ナスル先生はシュオンの流れをくむ伝統主義哲学者でもあるが、シュオン自身の本よりも、この本の方がずっとわかりやすい。特にスーフィズムという限定を付すことなく、「霊的世界観入門」としてもいいものではなかろうか。

私のいうスピリチュアル哲学というのも、コアの部分では伝統主義哲学なのである。

ただ、少しだけ、ナスル先生のヴィジョンにつけ加えたいものがある。それは第一には、転生論である。これは仏教的霊的風土に育った人間が、伝統主義思想に対してつけ加えるべき要素だと思っている。

もう一つは、キリスト教思想に内在していた、地球神化論である。ナスル先生は、地球が神化の道を歩むというヴィジョンを肯定していない。それは歴史のレベルと霊的レベルを混同することだと反対している。要するに、「この地上に神の国は実現するのか」ということだ。このヴィジョンはキリスト教にはあるがイスラムには決して存在しないものであるらしい。しかし、地球神化というイデーをどう受け止めるかということはもう一度考えてみる価値がある。

第三は、エネルギー論的視点である。つまり神の創造の息吹、「スピリトゥス」が、全存在に行き渡っており、この霊的エネルギーの活用が、霊的発達においても重要な意味を持つ、という視点である。これは修行論につながるが、これもまた、東アジアの「気」の伝統にある人間から言うべきことであるように思われる。

第四には、「世界霊魂」anima mundi の問題をもう少し前面に出して、地球領域の性質について考察することである。

世界の多次元構造、身体の多元性(微細身体の存在)、天使的存在とその恩恵――などの要素はすでにナスル先生のヴィジョンに入っているので、つけ加えることもない。ただ微細身体論は霊的エネルギー論との関連でとらえていくことができる(エネルギーと意識との関係という問題も入る)。

これはむしろ、「ピュアな伝統主義思想」を提示するものである。しかしまた同時に、現在の多くの日本人のように、特定の宗教に深くコミットしない状況で、つまり観音もミカエルも受け入れるような精神状況において、霊的な道とはどのような形であり得るのか、という問いを基本にもっているのである。

なお、私がウィルバーに批判的なことをいうのは、ウィルバーは、伝統主義思想にいろいろなものをつけ加えて(それが西洋心理学とのドッキングということだが)、違うものにしているからである。彼の、世界の多次元階層についての理解も、伝統的な理解(新プラトン主義など)からは相当にずれている。こういうものを「いい」と言う前に、まずピュアな伝統主義思想を知ってもらいたい、というのが私の希望なのである。

『スピリチュアル哲学入門』執筆開始

『スピリチュアル哲学入門』の原稿を書き始める。

夏休みに完成させる予定だったが、少し前倒ししようかと思う。なんとなく、「あまり時間がない」という感覚がある。最近のエネルギー的展開が急速であることもあるだろう。この時期にできるだけ世の意識転換を促さないといけない。それはいろいろなところで進行しているが、この本が出るのもささやかながらその一翼を担うということである。できれば2009年までにもう一冊は出したい。もう一冊は何を書くのか今は見当がつかないが、たぶん、今の本で書き残すことがたくさん出てくるので、やや視点を変えつつスピリチュアル哲学を述べることになるだろう。

昔は、あまり「売れる」ことに抵抗がある部分もあり、「知る人ぞ知る」の方が快適だという意識もあったが、そういうのも最近は手放した。ともあれ、意識転換を進めるには、多くの人に読んでもらわねば話にならないからだ。そこで、今度はなんとかたくさん売れてもらいたいわけだ(借りて読んでもいいが)。

またもデュプレ

あいかわらず、実践モードのことはまったく封印したブログポリシーである。最近アクセス解析を見ていないが、さぞ減ったのであろうな(笑) 実はどこかに「裏ブログ」があるのかもしれないが・・(^_^;

また注文した本がど~んと来ていた。その本の山の中から、とりあえずデュプレ先生のに手をのばす。

0268025940 Religion and the Rise of Modern Culture (Erasmus Institute Bo)
Louis Dupre
Univ of Notre Dame Pr 2008-03

『宗教と近代世界の興隆』である。しかし100ページちょっとしかないのに2700円とはいかにもぼったくり価格である。それでもこれを注文してしまったのは、大学での連続講義なので、デュプレの論点がわかりやすく提示されているであろうという期待が高かったからである。デュプレは古代ギリシア哲学のことも中世哲学も本当によくわかっている。なぜ近代は「聖なるもの」の次元を失ったのか、知が世俗化したのか、その思想史的な理由を知りたいという読者にとって、デュプレほど明晰なる答えを与えてくれる人はほかにそうはいないのである。デュプレには、近代初期とルネサンスを扱った本と、啓蒙思想を扱った二冊があるが、この本はその二冊の要約となるであろうという見込みであった――が、少し読み進んだことでいえば、どうやら期待は満たしてくれそうな感じである。ま、啓蒙主義の本も注文中ですがね。

近代の世俗化を批判するような本は、これまでに、バーマンだの、ウィリアム・アーウィン・トンプソンだの、いろいろと読んでいるが、これまで読んだ本はギリシア哲学や中世哲学についての造詣が深いとはいえず、もっぱらデカルトをターゲットにして終わっているようなところがあった。しかし、ギリシアやキリスト教哲学の霊性を的確にとらえ、唯名論や唯物論が勢力を増す中で、そうした古代的な知がロマン主義の中に復興してきたという時代の流れまできっちりとおさえてくれないと、話に深みが出てこないのである。霊性哲学の復興は、これまでの哲学史・思想史の全面的な書きかえが伴っていることが望ましい。そういうことを少しずつ勉強しているが、「自我は近代になって発達したものであり、それこそが近代西洋文化の成果である」などというような妄説の思想史的な粗雑さにふれると頭に血が上りそうになるのである(笑)

しかし最近はとりあげる本も洋書ばっかりだし、ますます初心者お断りの世界に突入していますな・・ ここでとりあげているのは私自身の記録というところが多くなっている。必ずしも読者におすすめするものではない。最初から勉強するとなると、読んでいく順序というものがあるので・・。

とはいえ、上にあげた『宗教と近代文化の興隆』は、もし訳されれば、「少し高度な入門書」として使えるかもしれない。

伝統主義に立つ哲学入門

『スピリチュアル哲学入門』の構想を考えているが、基本的には、「伝統主義の立場からする哲学入門」というコンセプトを予定している。

伝統主義とは、ゲノン、シュオンに始まり、現在ではヒューストン・スミスとセイイッド・ホセイン・ナスルに代表される思想的立場であり、現代の唯物的世界観をきっぱりと否定し、伝統哲学で言われていた霊的な世界観こそが真理に近いと主張する立場である。

トランスパーソナル心理学とは、この伝統主義の哲学を基盤としつつ、そこに現代の心理学をミックスさせることをめざすものである。さらにケン・ウィルバーは、そこに独自の進化論的哲学を発達させ、昔のテイヤール・ド・シャルダンにも似た思想をつくりあげ、一定の影響力を示している。が、私としては、トランスパーソナル的な立場は少し「特殊すぎる」と思っている。心理学などをミックスさせる必要はない。思想という立場では、伝統主義だけで十分である。べつに、伝統思想をフロイトやユングなどと「統合」する必要はないのである。

日本にもトランスパーソナル心理学系の学会もあるが、心理療法にいかにして霊性を取り入れるか、という問題などが論じられている。それは心理学者にとっては意義あることであろうが、思想の立場からするとちょっと畑違いである。この学会で思想的なことがらも扱おうとするのは少し無理がある。本当は「霊性思想学会」のようなものができるのが理想であるといえよう。トランスパーソナル心理学も、少しまちがえば、「トランスパーソナル・セラピスト」なるものが霊的な指導者にとってかわろうとするような事態にもなりかねない危険がある。霊的な発達については、宗教や霊的伝統が中心となるべきで、心理学はあくまでサポート役にすぎない。心理学が宗教にとってかわろうということなどあってはならない。

日本の思想界で、トランスパーソナルの紹介が先行したことは、はたして幸福なことであったか? まず、伝統主義哲学というものが、日本の伝統をふまえた形で根を下ろし、そうした大きな流れの中で、心理学に関わる特殊バージョンとしてトランスパーソナル心理学がある、という形が理想だったのではないだろうか。伝統主義哲学がこれほど理解されていない状況のなかでは、トランスパーソナルも「いかがわしく」思われてしまう危険も高いのである。そもそも、トランスパーソナルの紹介は、アメリカ60年代のカウンターカルチャーの流れと共に入ってきたことは否定できず、その紹介の先頭に立っていたY氏なども、かなりヒッピー的人物であったので、そういうニュアンスはどうしてもつきまとってしまうのである。

そういうわけで、この本では特にトランスパーソナルについては詳しく触れるつもりはない。私はいま、トランスパーソナルを積極的に日本において広めようという立場には立っていない。トランスパーソナルという規定はある文化的傾向を超えにくいものなので、もっと広い立場に発展解消した方がよいという考えである。「霊性心理学会」とでもすればよいと思う。

というわけで、伝統主義についてもっと世に知らせることが必要である。そこで、伝統主義に立つ哲学入門書の存在は、意義のあることだと考えている。

この哲学の概略は、ナスル先生によって見事に整理されているのだが、それをもっと初学者にわかりやすくし、東西の伝統哲学への簡単な概観が得られるような構成を取ろうと思う。テキストにも使えるような形で。

したがって、前著のような文学的表現よりも、もう少し「ふつう」な書き方になるのかもしれない。

こちら、いま読んでます↓。ナスル先生入門にいかがですか?

翻訳なんか、当分出ないですよ・・ 『スピリチュアル哲学入門』が売れに売れたら、出せる日も来るかもしれないが・・

1933316381 The Essential Seyyed Hossein Nasr (Perennial Philosophy)
William Chittick
World Wisdom Books 2007-09

イマジナル・ボディ

ワーク系の方では、いろいろな流れが加速しているが、こちらのブログではもっぱら、『スピリチュアル哲学入門』へ向けた流れを記述していく。

ロバーツ・エイヴンズの幻の名著?『イマジナル・ボディ』(Roberts Avens, Imaginal Body : Para-Jungian Reflections on Soul, Imagination and Death)を、古本市場でゲットし、読了した。

いや~何年も探していた本だった。相互貸借でも国内にはないので、読めないと思っていたが、古本では相当な高値だった。

エイヴンズのもう一冊の著、Imagination Is Reality は簡単に手にはいるし、翻訳も『想像力の深淵へ』が出ている。

さてイマジナル・ボディとは・・もちろん、いわゆるアストラル・ボディのことを指すのである。イマジナルとは、アンリ・コルバンがイスラム神秘主義研究から学界に持ち込んだ概念で、「中間的世界」を指すものである。イマジナルについての論については、日本語文献ではたぶん、井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』を見るのがよいと思う。

簡単にいえば、アストラル・ボディというのはありますよ、ということを言っている本だと思えばよい。そのパラダイム的には、「パラ・ユンギアン」とあるように、ユングの心的現実論と、その展開としてのジェームズ・ヒルマンの心理学、アンリ・コルバンのイマジナル論を中心としてプラトン-新プラトン主義の宇宙観を再興させる、といったものである。

これにはもろ手を挙げて賛成と言いたいところである・・が・・これはほとんど、数年前に私が考えていたパラダイムそのものだった。だが、今これを読むと、論が十分にシャープでないところが若干気になる。

それは、やはりヒルマンの欠点をそのまま引き継いでいるところがある。つまり、イマジナル世界の存在論的先行性を論じるのはよいのであるが、それより上位の世界を論じ得ないというパラダイム的欠点が目につく。ヒルマンは、魂の現実性を強く主張するが、魂を超えた「霊(スピリット)」の領域を頑強に否定する。これはいったいどういうわけだろうか? ヒルマンは霊とは父権的であり、抽象的であるなどと言うが、それは彼が、上位次元から来るエネルギーを体験したことがないから言っていることであり、単に、ヒルマンがスピリットについて抱いている「イメージ」を述べたものにすぎない。

もう一つは、アニマ・ムンディのことが出てくるが、新プラトン主義で言うような、アニマ・ムンディ(世界霊)と、個霊との区別はどういうものかという論点が入っていないようである。それと同時に、「私」の根源はどこから来るのかという論点も曖昧で、単に、「私とは複数的である」と言われているのみで、「私が私である」という西洋的霊性の根源的問題について考察が及んでいなかった。

また、主客分離的なデカルト主義の根源をアリストテレスに見出し、それとプラトン主義を対比させるという思想史的把握は単純すぎる。それは、魂のイメージ的認識を強調するのみで、一方でアリストテレスも主張した「能動知性」の問題から、中世哲学における「知性」の霊的な位置づけという思想的な流れを十分に整理していないところから来るのではないか。そこで「知性」というものが、あたかも現代的な頭脳的な意味であるかのように解し、それとイメージ認識を対比させているようなところがあるが、これは中世以前における「知性」の霊的な把握を考慮していないようである。つまり、中世哲学についての知識が不足している論のように思える。

このように、パラダイム的には、いろいろと不満は残る。

しかしながら、この、ユング-ヒルマン-エイヴンズの流れは、「人間とは魂であり、魂として、不死である」ということを学問的にはっきり言ってしまっているというのは、なんといっても貴重なことである。

魂と肉体を二項対立させるのではなく、魂にもまたそれなりの「微細な身体性」があるということがはっきり打ち出されてきたのは、エイヴンズの功績であるといってよかろう。つまり、物質-精神というのは二つに分かれているものではなくて、「グラデーションのもの」なのである。このような「精神と物質を両極とするグラデーション」として宇宙を把握するのは、新プラトン主義の世界観そのものなので、その中で微細な身体性というテーマはすでに出てきていた。プロティノスにはあまり出てこないが、それ以降のイアンブリコス、シネジウスなどの新プラトン主義者には、微細な身体性問題はあたりまえのものと受け取られていたので、これは何も、最近になって神智学やシュタイナーによって発明された概念ではない。「アストラル体」という概念自体が、新プラトン主義起源のものである(ただ、このブログで以前に述べたとおり、伝統的な「アストラル体」概念は、現在の意味とはかなり違っている)。

つまり、そうした新プラトン主義的グラデーション宇宙観の復権をめざしているという点では、正しい方向にあるものといえるだろう。(ただ私は、新プラトン主義だけで十分だとも思わない。新プラトン主義の「一者」を「神」と読み替え、それとのパーソナルな対話をめざしたキリスト教思想の意義も検討すべきだと思う)

残念ながら、『イマジナル・ボディ』を入手できる見込みはもうほとんどないと思いますが(笑) 『想像力の深淵へ』の方を推薦しておきたい。

478850717X 想像力の深淵へ―西欧思想におけるニルヴァーナ
ロバーツ エイヴンス Roberts Avens 森 茂起
新曜社 2000-06

こちらもついでに。
これは基礎科目ですから・・

4004201195 イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119)
井筒 俊彦
岩波書店 1980-05

★追記: Avens の別の論文を見たが、能動的知性の霊的な意味について、もちろん知らないわけではないようである。『イマジナル・ボディ』では能動的知性の問題と mundus imaginalis の問題がうまく統合されていなかったということであろうか。

天使のいるコスモロジーをめざして

1882670248 World Turned Inside Out: Henry Corbin And Islamic Mysticism
Tom Cheetham
Spring Journal 2003-06

やっと一週間もかかって読み終えた。ペースが落ちている・・

これはアンリ・コルバンを論じて、伝統的コスモロジーの復権を訴えた書である。

伝統的コスモロジーというのは、宇宙は根源である超精神から発している階層的な次元に分かれており、その中間には天使たちがいる・・ということである。つまり「天使はいますよ」と言っているということになる。

コルバンはハイデッガーから出発した。

ハイデッガーの哲学は、感覚の世界の根底に「存在」の次元があることを見出したものである。実はそれは近代哲学の枠を超えているのであって、中世哲学とつながっていた(ハイデッガーの学位論文はドゥンス・スコトゥスなのである。細川亮一の研究は、ハイデッガー哲学がプラトン的問題と接続していることを示している)。

この、現象の根底に「存在」があるということは、現代哲学でもそれ以来かなり理解されるようになっていて、かなり乱暴に言うならば、西田哲学だってそういうパラダイムに立つものと言えなくもない。

ただ、これだけでは足りないのである。「存在」があるというだけでは足りない。

宇宙の「根源」があり、そこから多次元の世界が創出されており、その中には天使があり、そうした高次存在との協働の中で人は自らを「神化」させる道を歩む・・と、ここまで言い切らなければいけないのである。

コルバンは、イスラム神秘哲学の研究をふまえて、そのことを言い切った。

そのことの意味をもう一度考えてみようというのが、トム・チーサムのこの本の目的なのであろう。

天使をまじめに信じようという「学問」が存在するということを聞くと、驚く読者がいるかもしれないが、そういうものなのである。世界というのは広いのである。

この著者は、ヒルマンら、元型心理学の系統にある人らしい。

考えてみれば、それは意外ではない。ロバーツ・エイヴンスなんかも、そうだからだ。ヒルマン自身、コルバンに多大な影響を受けている。それは簡単にいうと、「エラノスつながり」ということであろう。

いま私は、くたびれているので、エラノスとは何かということまでここで説明している気力がない。気になる人は調べていただきたい。

エネルギーの転換か?

しばらくのあいだ、マジメな研究モードだったが、このところから、もうなんだかわからないようないろいろありの世界に突入していて・・ そっちの方面では、おそろしいほど過激?な集中的なプログラムを組んでしまっており、魂レベルではやる気満々であるのだが、はたして大丈夫なのか? 今回は、もちろんレスキューレメディーなど準備を万端整えてのぞんでいるが・・ しかし、今日のワークではまた、神聖な世界への扉が開いており、かなりなエネルギーを受けてしまったので、体がだるくなって夕方から一時間くらい眠らざるを得なかった。こういう日が最近は週に数回あるからね・・

本の方も最近では洋書ばかり見ており、いくら時間があっても消化しきれないくらいあるのだが。しかしまあ『スピリチュアル哲学入門』の原稿は書かねばならないので、それも大丈夫か? という気もするのだが、こちらも精神的なエネルギーだけはかなりあり、問題は肉体面がそれについていけるかということになっている。ともあれこういう仕事はある面でいま求められているところでもある・・という意味は感じているわけなので、これがうまくいけば、その後にたとえば『スピリチュアル神話学入門』『天使学入門』『輪廻転生論入門』などの入門シリーズを連発するなんてことも長期構想として考えないわけではないのだけれども。

私はただ「頭」だけの哲学を否定する立場であるし、「学識」だけで一流になれるほどの勉強をしているわけでもないので、ある程度実体験的なものがあるということをアドバンテージとするほかない。だからワークとの並行は必須となってくるのだ。もっとも、そっち側を具体的にカミングアウトするのはまだかなり先になるだろうと思う。

これは何度も書いてはいるが、私の理想としては、聖地のような場所に、スピリチュアルな学びを総合的にできるようなコースができて、そこで定期的に教えつつ、ワークとヒーリングをつづけていく、なんて生活ができればなあ、と思っている。今はまだまだ、生活のためにそれ以外のことをやる時間もかなりあるのでね。いちおうどこかで宣言しておかないと実現もしないだろうからここで書いておくということである。可能性としてはキリスト教系・仏教系などのところが動いていくことは今後ありうると思う。前著のように「知る人ぞ知る」の世界に満足するのではなく、もう少し「流れを作る」ということも視野に入れていきたい。これも宣言という意味でここに書いているわけである。

敏感な人は、この文章を読んだだけで、私のエネルギーが少し転換したことを感じ取れたのではないかと思う(笑)

このところは

いちおう私としては、哲学というものを、その本来のあり方としての「叡知の伝統」という形に戻していくための仕事、というものが、「こちら」に来た理由の一つであろう、とは思っている。しかしまた私には別の面もあって、それはここではほとんど書いてはいないが、プラクティショナーというか、実践家としての面である(ここで書いているのは、だれがやっても危険がないような初心者向きの情報だけに限定しているので、私のことを初心者レベルだと思う人がいるようだが)。このところ、そっちの方面にかなりエネルギーを注がなければならない状況があって、あんまり、こちらのブログには熱心になれない事情がある。今日なんかも、部屋でホワイトセージを焚きすぎて、部屋に入るなり背骨あたりがびりびりするようなことになってしまったが(笑) どうなることか。

べつに、哲学などの領域で偉大な業績を残そう、などという発想はあまりないので、やることだけやって、次へ進もうという感じで生きているのである(^_^;

なんとなく、いろいろとエネルギーが浮上しているのであるが、最近は、シューマンの交響曲第2番第3楽章、そしてブルックナー交響曲第6番第2楽章という音楽に共鳴している。何かモヤモヤしたものがうまく表現されて昇華されていく感覚がある。

基本の基本に立ち帰る

「思想モード」からは一見、それるようだが、「そもそも基本の基本は何か」ということに、再三立ち返ることは大事であると思う。

そのことでいえば、「宇宙人としての自分と地球人としての自分を統合する」ということになるような気がする。

それは同時に「ここに、私や、また、「私と共にあるもの」が存在することの神秘へ立ち帰る」ということでもある。

その「私と共にあるもの」は、私へ愛を送っているということ。

そのことは「物質の中に埋もれている光を救出する」ということであるということ。

それは「素材の物質性との格闘」でもある。古代ギリシア哲学の、「形相性と質料性」という哲学概念の背景には、「ものとは本来、光として存在するものが、素材という重いものによって限定されているのが、この世のあり方なのだ」という洞察が含まれていることを知るのである。

その意味で、素材の重さと格闘しつつ高次のエネルギーを生み出す「芸術」という行為こそが、この世界に生きることの象徴でもあることもまた、理解されるのである。

「宇宙人としての自分」という意味は、自分とは本来、高次世界の住人であるということである。

そうした、地球的限定を超えた無限的存在であることが自覚されてくることはどうしても必要で、そのことを少しでも「思い出す」ことができたときに、初めてスタートできるのである。

聖なる学と脱亜入欧的価値観

さて~~ 連休モードでひさびさの更新だ。

そろそろまたお仕事再開・・『スピリチュアル哲学入門』に向けて基本コンセプトを明確にする作業を進めようと思う。

それにしてもナスル先生はやっぱりよいわ。本棚をけんめいに探して、『人間と自然――近代人の霊的危機』と、『聖なる学の必要性』という二冊を見つけ出した。ナスル先生の視点はヒューストン・スミスと共通するが、やはりこれが基本なので、この立場を主軸として打ち出すことに重点が置かれる。

学というのはいろいろありうるはずだということだ。何も、近代ヨーロッパ人のうち立てた学だけが正統なる学だというわけではない――という、非ヨーロッパ文明からの自己主張という面も、こうした「伝統主義」にはある。日本に当てはめていえば、明治以来の「脱亜入欧」、何でもヨーロッパの学問を至上としてきた価値観はそれでよいのかという問いかけがナスル先生などにはある。イスラム諸国でもナスル先生のような立場は少数派であり、大学は圧倒的に「脱亜入欧」的な学問で占められているのが現状であるらしい。ナスル先生の本などが欧米である程度読まれているのは、イスラム文化を持つマイノリティーの人が現にそこで生活しており、そういう人びとの文化的アイデンティティーの探求という面もある。どうしても日本社会では「オルターナティブ」の立場が弱いという、一枚岩的文化の弱点もあるのだ。

そういう、「脱亜入欧でよいのか」という問題意識は、むしろ哲学に端的に表れても良いはずだ――というのが伝統主義の主張するところである。

日本の伝統哲学としていえば、私としては、空海の密教哲学をメインとして考えてもよいと思っている。そこには、伝統哲学の持っている特質の大部分が含まれていると思われ、普遍性があるからだ。そのシステムの中には神道的な神々も全部包摂されうるし、キリストでもマスターでも受け入れられるだけの包容力があるのだ。

しかし・・ナスル先生などはたぶん、ニューエイジはお嫌いだろう。あくまで伝統イスラムに必要なものはすべてあるという立場だろう。まあ、ニューエイジといってもピンからキリまである。いろいろな宗教の要素がまじり、組織をとらない個人宗教のような形態になっているが、これは歴史的には、イアンブリコスのプラトン主義的密教とか、フィチーノのスピリチュアルロハス、パラケルススの錬金術的世界観なんかと近いものだと思う。そういう形態で霊性が勃興する時代というのは過去にもある。それが現代的なメディアにのって普及しているのが現代の「スピリチュアル」である。私はこれを必ずしも否定しない。あくまでその中で真実と偽物を見分けることが大事だというだけだ。そもそも日本は昔からそういった「何でもあり」的な宗教性は得意としているわけで、イスラムやキリスト教のようなきっちりした宗教ではない。それはそれでいいのだ、ということを、日本人から言っていくのもありだと思う。

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