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インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ

あらためて『はじめてのインド哲学』を再読して思ったのだけど、私自身の立ち位置は、明らかに、仏教とは違う(あとで述べるように、ここでいう仏教は、密教を除いたインド伝統的なものを指す)。

仏教は、もともと、低次の自我を否定するための実践体系として考えられており、無我の思想もそういう目的のものだ。そのため、仏教の非実体説によっては、世界がどのように展開してきたのかという説明は、不可能になる。このことも立川武蔵ははっきり述べている。

ところが、仏教が密教(タントリズム)の段階になると、大日如来からすべてが展開しているということで、本来の仏教色が薄まり、ヒンドゥー教哲学に近い形になるのである。別の面からいえば、密教化した仏教は、ヒンドゥー教とあまり区別できなくなってきたからこそ、インドでの存在意義を失って、インドからはほぼ消失するということになったのだろう。つまり、ヒンドゥー的哲学が仏教をのみこんだ、という形になるだろう。(なお、儀礼的実践が優勢になってきたのも、ギリシア哲学においてプロティノス以降、「テウルギア」が重視されるようになったのと似ている)

ある意味では、禅こそが、仏教本来の行き方を維持している伝統なのかもしれない。

・・とはいうものの、私は基本的には、ヒンドゥー的な表現の方を好んでいることは、否定できない。だから、密教には完全にアット・ホームである。また、ヒンドゥー教哲学の中でも、シャンカラのような純粋な非二元論よりも、「世界はブラフマンの顕現である」ということを強調する、ラーマーヌジャとか、あるいはシヴァ派系統の哲学の方に親和性がある、と自己分析することができる。

つまり、基本としては空海・・というより、空海的なタイプの思想だということになる。実際、日本の伝統がもつ思想のレパートリーの中で、空海がもっとも総合的であり、現代的でもあると思う。これは、仏陀が説いた仏教とはまったく異なる。しかし、それでよいのである。はっきりいって私は、歴史的仏陀にはこだわらない。

西方の思想だと、私の勉強した限りでは、イスラム神秘主義に基礎を置くイブン・アラビーの思想は、密教的な世界観に近いように思われる。井筒さんも結局のところは、空海やイブンアラビーの思想にいちばん共鳴を示していたようにも読めるのだが・・?

立川武蔵は、「世界に<聖なるもの>としての価値を見出す」ことが、インド哲学の伝統だと結論している。

これは、いろいろな意味に使われている「スピリチュアル」ということばの一つの定義としても、使えるものだろう。

つまり、「スピリチュアルとは、世界(そして自己)の根源に<聖なるもの>を見出そうとし、その<聖なるもの>との関連において存在や生の意義を追求しようとすることである」という定義も、なかなかにいいのではなかろうか。

あるいは、日常性=俗とは対立する、「高い次元」の存在を認知し、それとの関係において生のあらゆる面を再構築・再構成しようとする試み――というふうにもいえる。

これは「宗教」という言い方もできるわけだが、ここでは「宗教」とは、上に定義した「スピリチュアル」にプラスして、「複数の人間が共同して構築した、<聖なるもの>探求を目的とする組織的活動」としての性格をもつもの、と考えておく。つまり、本来、宗教はすべてスピリチュアルであるが、スピリチュアルのすべてが宗教とはいえない、ということになる。

話を前の方にもどそう。私は、仏教では、この相対的な世界がどのように構成されているかという世界観が示せないので、仏教だけをもとに21世紀的霊的哲学を構築するのは無理があると思う。基本的に「絶対神からの宇宙の創生と、そこからまた絶対神への帰還」ということが宇宙の基本構造であることをまずおさえつつ、相対的世界の発生については、原型(イデア)論や、世界霊魂(アニマ・ムンディ)、普遍霊と個霊・・などの新プラトン主義哲学の概念を活用すべきであろうし、また、個我の根源とその転生については、サーンキヤ哲学も参考にできるだろう。

実際、いかにして「私」は宇宙の根源へ帰ることができるのか、という実践の問題として受け止めたときに、密教などが示唆しているのは、「霊的ヒエラルキアと魂の成長」というイデーであるように思われる。『はじめてのインド哲学』では、密教の霊的ヒエラルキアという面は、いまひとつ強調されていなかったが・・ 私がいうヒエラルキアとは、「経綸と恩寵」のシステムということである。「人類を導く神々の働き」を意味している。密教的ヴィジョンとは、宇宙とはマンダラであるということである。それはつまり、ヒエラルキアですよという意味だと思う。

現代のスピリチュアル哲学(聖なるものの探求を基礎に置く哲学という意味)としては、「天使のいる場所」を持つということが重要なテーマになっていると思う。絶対者と(地球的な)人間の両極を立てて、その二つの関係を説くような哲学はこれまでにたくさんあるのだが、それだけでは実践的に足りない部分が出てくるのである。間違っているわけではないが、もう少し豊かな内容をつけ加える必要がある。

「ねじまき鳥クロニクル」の穴のことなど

今度の本でメタフィジックの総まとめをして、それから神話やファンタジーの分野に広げていく、という計画をしているのだが(これは再来年から「文学」の講義を担当するのでその準備ということも兼ねているのだが)、総まとめが終わらないうちに、そちらの興味も平行してしまっている。つまり、どうしてもそちらにも手を出してしまう。現実逃避か?(笑)

『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という本を借りてくる。これは、その題名の通りなのだが・・ 対談ということもあるが、期待の割にはツッコミ不足かな。期待というのは、「物語るということのディープさ」についての洞察ということだが、それについてはほんのちょっとで終わった。

この対談は「ねじ巻き鳥クロニクル」が書かれている頃に行われたらしい。この本のストーリーはかなり忘れたが、「海辺のカフカ」と並んで私のもっとも愛好する作品である。なんといっても「古井戸の穴の底」に降りてそこで過ごす、というイメージは鮮烈であった。それがどうしてノモンハン事件とつながっていたのか、まったく思い出せないが、とにかく「穴の底」が強烈で、それはつまり、「これは私もぜひやってみたい」と思わずにはいられなかったということである。

これを読んだときは私も興奮して、周りの人に「井戸の底に入って何日も過ごすんだよ? やりたいと思わない?」などとさかんに言っていたが、その反応は「やりたければやれば?」という冷たいものだったので大いにがっかりした記憶がある。世の中には、そういうイメージにもほとんど何も感じない人もいるのか、と思ったわけで、そういう私との感性の相異がはっきりした人とはさっさと疎遠にするがよろしかろう、などと考えたりした(笑)

こういう文学的イメージは、人間の心が作ったものではあるが、決して単なる「構築物」なのではない。ある意味でこれは「自然」でもあるのだ。

なぜそこにそういうものがあるのか、それは簡単な説明を拒否しており、そういうものが存在すること自体が不可思議ではあるが、それではそれはなぜかそこに存在し、その存在と私とは、なぜかあるエネルギー的な共振をしているということ。そういう圧倒的な「事実」がそこに成立しているのが、ここで自然と呼ばれるものである。

そこに花があったり、雲が流れていたりするという事実があり、そのことだけからも、私はそこからエネルギーが流入してくるのを感じるのだ。そのように、自然からエネルギーが流れ込んでくる「回路」があるというのが大事なことだと思うのだが、世の中にはそういう回路を発達させていない人が少なからず存在する。「解釈された世界」に頼ろうとしすぎる。

本当の「イメージ」とは、なぜそこにそんなものが存在するのか、それは謎であり、それは花が存在し、雲が存在するのと同様の神秘を含んでいることになる。そういう「自然」としての性質をそなえたものこそ本物というものだ。

というわけで、その「穴」というイメージは強烈であったが、この対談本では、そういう「物語ることにより発生してくるディープさ」についての追求は物足りないものであった。

ただここで知ったことは、村上春樹は、書き始めるときにその結末を決めていないということだ。つまり、どのように終わるかわからないまま書いていくので、作者自身、どのように終わるのか先がわからないということである。

たしかに書き始めると、その書かれたものはそれ自身のエネルギーを持ち始め、あたかも独自の意志を持つかのように動き始めるというのは経験するところで、そのように作者の意図を超える世界へ突き進んでいかないと、傑作というものにはならない。

私も前著で、その終末に近くなったときに、始めるときには見えていなかった「ある精神空間」が出現してきたことを感知した。それが、あとがきで、ある空間に到達することがこの本の趣旨だ、と書いたことの意味である。

メタフィジックもまた、言語表現であり、見えない神秘の領域に関わっていくものである以上、そのような「魂レベルの感覚」において判断されてもよいのではなかろうか。メタフィジックをどこまでも論理的に構成しなければならない、というのは必然なことではなく、ある種の美学的立場にすぎないのではなかろうか。・・というと、いつも「霊性における反知性主義」を批判している私としては矛盾ともとられようが、やはり「東アジア人」たる血脈も争えないものがあるのかもしれない。

本棚サピエンス登場

週に一日くらいは頭を休めないとやっていられない。

さて、めずらしく部屋の片付けだが、最近本棚から本があふれており、そこらに本が積まれているのが気になっていた。

そこで、縦型に本を収納するといういっぷう変わった「サピエンス」なるイタリア製のブックシェルフを置くことにした。これが意外といける。山積みの本が全部収まってしまったのですっきりである。しかもそれほど不安定な感じもない。

ふつうの本棚を増やせばいいようなものだが、その置き場所というのも問題であるし、特にこれは、「とりあえず気になる本を手近に積んでおく」という習慣のある人がいることを察知して、その習慣を延長したままうまく収納でき、美観的にも満足を与える、ということで、なかなかいってるコンセプトのものではないかと思う。

意外といけてるインド哲学入門

立川武蔵の『はじめてのインド哲学』を読み直しはじめたけど、これかなりよいみたい。宮元啓一のにちょっと失望したあとだったので、あらためて見直したというか。「追求する姿勢」があるね。もっとも立川さんは別の本では、自己流で修行の実践をやって危ない世界を見た経験もちらっと書いていたので、それはちょっと引く要素ではあるが、このインド哲学論は一本筋が通っている感じ。それと、ラーマーヌジャやマドヴァなど、ヴェーダーンタの後代の展開も視野に入れていて、けっこう侮れないものがある。

少し見直したので、彼による、講談社メチエから出ている「ブッディスト・セオロジー」四部作なるものにもとりあえず目を通しておくべきかな、とも思う。いちおう、現代における形而上学の可能性というのをテーマとする立場からいえば、その方向における壮大な試行ではあろうと思うので、どういうものか知っておくのも礼儀か、とも思ったのである。

ともあれ、インド哲学入門に最適。「スピ本」ばかりじゃなくて、たまにはこういう伝統霊性についての本も読んでみてほしい。同じ著者による『ヨーガの哲学』もお勧め。

4061491237 はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
立川 武蔵
講談社 1992-11

昔懐かしい、杉浦康平によるヴィジュアルな表紙である。今もこれで売ってるのかしら?

夏なので

もう夏だというのに、デザインがいつまでも雪山では・・ということで、某サイトで見たデザインが気になったので、まねっこすることにした。

変更を反映するにも時間がかかる・・個別ページが756ページもあるんですねえ。それだけの記事を書いたということで、このブログも長くなった。最近はむずかしいことばかり書いているので、アクセスは落ちていると推測するが、アクセス解析をいっさい見ないことにしたので、まったく気にせず、である。無料だし、受けをねらわず、書きたいものを書く路線に徹底したい。

スピと脱近代

なんというか、締め切りがあるので、気分がゆっくりしませんな。

きのうは新プラトン主義の英語による概説書を読んだ。ここで、欠落していた部分をかなり理解することができた。考えてみれば、新プラトン主義についての日本語のよい概説書など一冊も出ていない。カントやヘーゲルの研究者など掃いて捨てるほどいるのに、新プラトン主義の研究者なんて日本じゅうさがしても20人もいないであろう。エリウゲナ、ボナヴェントゥラなど、新プラトン主義系キリスト教思想家でも、まあ数人というところだ。

哲学というものを、近代ヨーロッパの哲学こそがモデルだと考えること自体、「脱亜入欧」の明治的学問体制の名残だというのが私の考え方である。岡倉天心は西洋文明について、哲学はまったくたいしたことない、美術は東洋とまぁいい勝負、音楽だけは西洋が勝っている、という評価をしていたという。東洋文化の伝統を意識した人間としては、そのあたりが適正な評価ではないかと思うのである。

近代ヨーロッパをとりあえず脇にのけて、人類の哲学思想を大観してみると、このメタフィジック(形而上学=究極的なるものへの知)としては、「みんなてんでに違うことを言っている」ということではなく、表現や強調点の差はかなりあるにせよ、基本的にはかなり似た構造をしているのではなかろうか、という見方ができる。だから正しいという証明になるわけではないが、究極的なるものへ向かうときに人類が抱く思想(イデー)にはある一定の構造があり、人間とはそのように考えて生きるのが「ふつう」ではないだろうか、という感覚を抱く。つまり、人間とは形而上学を求めるものであり、その意味では、ホモ・メタフィジックスなのである。

そういう「共通構造」に興味を示したのが、井筒俊彦である。共通構造を取り出しつつ、その中のいろいろなパターンを示したのが『意識と本質』だろう。

いまの哲学教育だとやればやるほどなんだかわからなくなるだけである。まず、伝統文明における哲学は、似たような基本構造を持ち、いくつかのバリエーションとして展開してきた、という大枠をおさえることである。その上で、近代ヨーロッパの哲学はどのように「特殊」(独自といってもいいが)な方向へ進んだのか、という理解を持つことである。

つまり、現状ではあまりに、近代ヨーロッパ的な哲学のとらえ方が正しいことが、自明とされすぎており、その点が疑われていないことが問題なのである。

いわゆる「スピリチュアル」が、なぜ「オカルト」と同一視されてしまうのか?そのような、「スピ音痴」の風潮が蔓延した原因は、近代ヨーロッパ文明の特殊な性格にあり、それがあまりに無批判に受容されているためなので、スピの正統性を復権させるためには、近代文明批判という観点が欠かせないのである。

つまり、「スピ」は、本来、人類文化の本道なのである。それがなぜ、マージナルな位置に追いやられているのか、それは、ヨーロッパ近代文化の特殊性を、「普遍」と誤認して無批判に受容した、「脱亜入欧」的な価値観が、思想分野をなお支配しているためだということである。

もちろん、ほんとのオカルトというものがあり、それが霊性とどのように異なるのかというのは重要な問題だが、それも、伝統文明の哲学における基本線を理解していればおのずと解けてくることである。

人類哲学史を概観すると、そのもっとも大きな流れは、新プラトン主義とインド哲学である。新プラトン主義は、ギリシア哲学を集大成して、セム系一神教と結合し、キリスト教、イスラム、ユダヤの哲学に巨大な影響を与えている。一方インド哲学は、仏教を分派として生み出し、中国や日本の思想の主要部分を形成している(中国における、仏教以外の本格的な哲学は、宋学だけなのだが、それもまた、仏教に触発されたものだ)。つまり、伝統哲学の大部分は、新プラトン主義(と一神教)、インド哲学の流れの中に入ってしまうのである。つまり、まずその二つをおさえるということが大事なことである。

ということなので、もし人類の哲学的古典から選抜するならば、西ではプロティノスの「エネアデス」、東ではシャンカラの「ウパーデシャーサハスリー」あたりを選ぶことになるかもしれない。この両者を読むと、驚くほど似ていることに気がつくと思う。(より正確にいえば、プロティノスよりももう少し後代の新プラトン主義の方が、シャンカラ的幻影説に接近するのであるが)

新プラトン主義でも、イアンブリコスや、のちのアテネ学派などになると、「テウルギー」、つまり霊的実践(儀式とかヨーガ的な修練)が重んじられるようになり、その点でもインドと似ているなあ、と感じられる。

つまり、ここで言いたいことは、伝統文化における哲学には、一定の基本があったということであり、そこまで普遍的なものであったとすれば、あれこれ言う前にまずそれを学んでみてくれ、ということである。批判するにしてもまずそれをよく知ってからの話である。ほとんど何も知らないまま、オウムをみろ、だから神秘主義(スピリチュアル)は危ないんだ、などという粗雑な議論が多すぎるので、そういうくだらない本はもう読まないようにしていただきたいのである(編集者も勉強して、そういうレベルの本を出さないようにしていただきたい)。言わせてもらえば、オフサイドとはどういう意味なのかも知らない人がサッカーを評論したりするようなレベルのものがまかり通っている。

つまり、私はここで、これまでの常識的な「哲学史」とは全く違う視点を持って、人類の哲学的遺産を眺めているということである。それは意識的に、「脱西欧」的な視点を取るのである。近代ヨーロッパ文明と対決し、その或る部分を拒否するということである。

残念ながら、私も、多数の本を(洋書を含め)つなぎあわせて、ようやく人類哲学史の概観に達することができたので、一般の人が、これを読めばとりあえず全体が通観できる、というような本はまだない。井筒の『意識と本質』くらいしかないのだが、これは入門レベルではなく、また「共時的」つまり歴史的な書き方ではないので、ちょっとむずかしい。インド哲学とそこから派生した仏教の展開、それが儒教・道教・神道の思想に与えた影響をトータルに把握する思想史はまだないし、また、ギリシア哲学からプロティノスで頂点に達し、そこからセム的一神教とからんで、イスラム哲学、キリスト教哲学、ユダヤ哲学と展開していった西洋の思想史全体を概観できるような本もない(現状でいちばん近いものはアームストロングの『神の歴史』かな。訳されてないが、ナスルの Knowledge and the Sacred がかなりいい)。またそういう西洋伝統思想史の理解に立った上で、オッカム以降の近代ヨーロッパ思想に生じた変動の意味を理解できるような概説もない(デュプレの本はある程度それに近いのだが、翻訳は出ていない)。つまり「文明史」という位置づけにおいて把握するような試みははなはだ少ないのである。そういう理由で、いま世に出ている哲学史入門書のたぐいはまったくおすすめしない。それはほぼ100%、近代哲学の立場を自明とする視点から書かれているからである。

ということであるが、メタフィジックに関する研究・仕事は、いちおう今度の本で集大成し、自分にとっての総合に達しようと思っている。

それ以降は、私が最初に手がけていた「神話的思考」というテーマに回帰して、神話学の研究――それも、霊性と関連させた上での「スピリチュアル神話学」の構想へ向かおうと思っている。これは、ジョゼフ・キャンベルによって示されていた方向性なのだが、今の日本では、そういう神話学の方向性を受け継いでいる人がいないのである。

そんなわけで、神話や物語関係の本も、少しずつ集めている状況である。このテーマについては今後、ここでも少しずつ書いていきたい。

なお、上に書いた「くだらない本」の代表として、池田清彦の『科学とオカルト』をあげる。このアマゾンリンクで、最初の二つのレビューは、実は私が書いたものである。この本は何と、講談社学術文庫で再刊されてしまった。・・(以下、お聞き苦しい表現となるので削除します(^^;  )

井筒俊彦について

井筒俊彦は私にとって20代くらいから「スター」であり、天空にきらめく明星のごとき存在であった。まさにこれこそ、哲学のお手本であり、思想とはこういうものであるべきである。

幸いにも近所の図書館に著作集があり、体系的に読み直している。

あらためて気づいたのは「言語の深層」への関心が、たいへん強いことだ。その当時の構造主義的な世界理解の、ずっと先、深奥の領域に視線をそそいでいる。特に空海の言語哲学、あの「声字実相義」の世界に、かなり好感を抱いているように、思われる。またそれは、イブン・アラビーの「存在エネルギーの湧出」という世界観とも親和的である。その意味でやっぱり、『イスラーム哲学の原像』が、井筒思想への入門書であると同時に中核でもあるだろう。

井筒の言う「言語アラヤ識」とは、むしろ、「世界地平生成の作用」というものであることが明らかになってきた。言語というが、それは「原言語」なのであり、必ずしも、表層の言語のことを言っているのではない。空海の言うような、世界は仏のコトバであるというイデーを視野に入れているものだ。つまり、ロゴスに近いのである。

つまり言語アラヤ識は現象学の深層とでもいうべきことがらに関連しているように見える。例の、永井晋の『現象学の転回』は、もう少しでそこに到達するところまで来ていると思うが、まだそこには、井筒への言及はあまりない。

ただ、井筒の著作全体を見ても、体系的な著作というのは見られない。井筒形而上学とはどういうものであるのか、理論的な著作を残してほしかった。

存在のゼロ・ポイントである「無」を基底として、そこからの存在の湧出として、全世界を見る。全世界は、つまり、幻想ともいえ、また神の顕現ともいいうる。この世界観は、相当にうまく表現されている。

ただ、これはナスルなどの伝統主義哲学にもいえることなのだが、私からみて重要なコンセプトが、そこにはまだ入っていない。それは、「世界霊」の問題と、「輪廻とその主体」という問題である。

現在のスピ的世界観は、そこまで入れないと、完成しないと思っている。

それをやっているのは、私の知る限り、まだ世界にはいない。というわけで、いちおう私は、世界の最先端に立っていることになる?? ・・などと考えると、気分がよくなってくるので、「それは陶酔では?」というツッコミは無視して、ポジティブに考えることにしよう(笑)

4004201195 イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119)
井筒 俊彦
岩波書店 1980-05

4003318528 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店 1991-08

余談だが、「スピ」ということばがどう使われているのか、なんだかいろいろで、収拾がつかない。「スピリチュアル」ということばを私がどう定義しているかは、何日か前に書いたので参照いただきたい。しかし、「スピリチュアリティ」という用語は私は決して使わない。いよいよもってわからなくなってくるからだ。

さしあたり私は、現今のスピ・ブームとは一線を画している。もともと形而上学についての関心は20代ころからあったもので、そのことから井筒を読んでいたわけであり、最近のスピ本ブームで目覚めたわけではない。あくまで伝統形而上学の大きな伝統を受け入れて、新しいものは、それに照らして認めるべきものは認める、という形をとっている。

逆に、最近のスピ本だけを読んでいる人は、「本当にこれでいいのか」と不安に感じることもあるらしい(というお便りをもらったこともある)。その意味で「伝統を知る」ことは安心感を与えると思う。つまり、これは現代社会でこそマイノリティーであるが、本来、人類文化の本道だと、自信を持って言いうることを知ってもらいたいのである。

スピに親和的な政治とは

後期高齢者健康保険の問題が騒がれているが、うちも、これまで扶養家族として保険料がいらなかった母親の保険料がいきなり請求されることになった。このことで福田さんがバッシングされているのは気の毒なことだが、これはみな小泉政治の負の遺産である。

小泉さんはたしかに新国立劇場や新美術館を作ったかもしれないが、全体としては「日本の文化をぶっ壊す」政治であったことがいまや明らかである。つまり文化のすべての面にわたって、経済原理至上主義、要するに「金にならないものは切り捨てる」という風潮が蔓延してしまったのである。

「お金になることが偉いことである」という価値観の象徴が、あの、ライブドアのお兄さんとか、村上ファンドのギョロ目男である。そして、彼らの凋落によって、初めて、国民も幻想から覚めてきたのである。

小泉政治というのは、本質的に「金にならないものをリストラする」という政策であり、それを推し進めれば、弱者が切り捨てられ、金にならない文化が衰退するものだということが、小泉退陣後一年もしてようやく理解されてきたというのは、遅すぎた。国民というのは、政治家に対して、いいたい放題、すごく偉そうなものの言い方をする人が多いが、その実、どの政党の政策はどういうものか、など、ネットをちょい調べればわかるようなことも全然勉強しておらず、ほとんど頭で考えることなくイメージに踊らされているものである。小泉さんは、国民は投票するときに決して頭を使っておらず、イメージだけで決めているということを誰よりもよく知っており、それを最大限に利用するという点ではまったく最大級の天才政治家であったのだ。

政治家の責任ばかりにせず、日本がいまのようになったのは、郵政民営化などというスローガンに踊らされて与党を大勝させてしまった自分たちにある、という自分の責任を自覚しないといけない。しかし国民というのは、自分だけは悪くない、政治家のせいだと考えるものである。

いっさいの「無駄」を敵視する経済合理性の大波が、ここ数年で、急速に大学という世界をものみこんできている。

もう、理念も何もない。生き残るためには、なりふりかまわずだ。文化にとって、今何が必要か、ではなく、ぶっちゃけ言ってどうすれば学生が多く集まるか、しか考えていない。そういう経営をするところも多くなってきている。

いやな世の中になった。これならいっそ、世界をいったん終末にさせて、またリセットしてやり直した方がいいくらいなものだ(笑)

小泉政治は、日本をぶっ壊した。それを支持していた自分たちは、考えが足りなかった。このようなはっきりした反省に立っていかねばならない。

話を「スピ」に関連させるならば、スピ自体は政治でどういうできるものではない。ただ、スピに親和的な政策と、スピに逆行し、抵抗となる政策というものがある。スピに親和的な政策とは、「高福祉高負担」の、つまり北欧的な政策である。

残念ながら今は、民主党の政策も自民党とそれほど大きく違うものではなく、高福祉高負担の福祉社会をめざすような政党の勢力は、著しく弱い。

国民も覚悟を決めねばならない。高福祉を実現するには、消費税を15%くらいのヨーロッパなみに上げなければどうしようもない。小泉型政治がどういうものかを知って、軌道修正を望むなら、ある程度の負担を感受し、弱者にやさしい社会のために使うことを受け入れねばならない。それが「スピに親和的な政治」なのである。

夏至を前に?

いよいよ夏至ですよ・・大丈夫でしょうか?(何が? といわれてもこまりますが)

ところでここでも以前にふれた Divinerさんのブログ、最近のエントリー「草スピ」はおすすめです。読んでみてください。

激越なるパラトラパさん

きのう見つけたパラトラパさんのブログから、その前のバージョンへのリンクがついていたが、それ見ると、かなりすごいことが書いてある。

すでに私のあだ名は「魔王」で通っている。もはや知らない奴はいない。

2007年は爆裂態勢のスイッチが入っている。昨年途中までの「冬眠した熊」のような私ではない。完全に覚醒した。同時に極めて危険な人間になった。穏やかではない。猛り狂うようなスピリットにあふれている。

・・いや、いきなりコレですよ(^_^;

今の私は非常に毒性が強く、近寄ると危険でさえある。魔性の塊のようになっている。くれぐれも言っておくが、私は「四国の拝み屋宮司」でもある。こちらから先制攻撃を加えることは決してないが、相手の出方(無礼、非礼な言動)によっては激烈な闘争心が前面に出てくるため、十分に注意してほしい。 (2007.1.9)

ひえ~~

いや、たしかに彼には、こういう激しい面が秘められていることは知らないわけではない(知らない人も、これ読めばわかりますね)。

「稲荷行者」かぁ・・ これ以上のコメントは避けておきたい。

パラトラパさん、大学を去る

あるシンポジウムの案内を見ていて、例のパラトラパ(中村雅彦)さんの肩書きが「元愛媛大学」となっているのでびっくりした。大学をやめたのか? と思ってネットで調べると、本当にやめたらしい。学芸大学とかで教えているが、非常勤らしい。彼のブログというのもすぐに見つかるのでわかる。

かといって、別に、あまりにやばいからやめさせられた、というわけでもないらしい。

なんといっても、国立大学の心理学教授にして現役の拝み屋(祈祷師)としてカミングアウト、というのは衝撃だったが・・ いや、私も、「修業時代」の彼とは一時期コンタクトがあったが、濃密な「闇の霊性」の世界でいろいろな学びを深めているところであった。

今でも忘れないのは、もう十年近くも前になるが、私が彼と連絡して四国へ行ってみようと計画していたとき、私がそちらの地域に意識を向けると、どうしても何か黒々した恐ろしいものが感じられてしかたがなく、ついにキャンセルを申し出ると、パラトラパさんは「やっぱりそうですか」という。聞くと、ちょうと私が行こうとしていた日、某教団による集中的な呪詛攻撃が、彼に対して行われようとしたということである。彼はそういうシュラバを数々くぐりぬけてきているので、私のようにそういう世界に近づかないようにして「光」の世界に入ろうとしている者は、軽々しいとも思うかもしれない。まあそれは、彼はそういう道をたどる必要があったということであり、是非の問題ではない。私としては、彼の功績はちゃんと認めているのだが・・ ただ、そういう闇の世界であるから、そのことについて書いた本そのものにも、どうしてもそういう波動がある程度漂ってきてしまうことは仕方ないので、あまり近くに置きたいものではない。知らない人は一度は知らなければいけない世界ではあるのだが・・ 

ともあれ、サイキック・アタックとそれに対する防御という、シャーマニズムの時代から存在していた「宗教の闇の面」を白日のもとにさらしたという功績は多大なものがあるだろう。現在、WEBとかにも、いかにも光のイメージをちりばめたHPなどを持つヒーラーがたくさんいるが、そのうちの一部には、実は、サイキック・アタックを日常的に行い、来た人を自分の勢力圏に置こうとするような人も存在するのだ。ヒーラーとかいって、善意の人ばかりではないということは、「この世界」を知る者には常識なのだが、「スピ初心者」は想像もできないことなのかもしれない。こういう世界を知識として知っておくことは必要だ。そういう世界があるということは誰かが語らなければならない。そうでなければ、そういう恐いヒーラーにだまされる人はなくならないだろう。

読者の中には、大学にいてこういう世界をやってることをカミングアウトして大丈夫なのか? と心配する人も少なくないだろう。しかし実際をいえば、それは会社員とか公務員などよりずっと自由なのだといえる。職場にもよるが・・ むしろ、「実際の世界」を知っているということを評価する人も少なくはないのである。たとえば、80~90年代くらいにスピ系知識人として有名だった鎌田東二などは、その著書で修行による霊的体験を赤裸々につづっていたのだが、都内にある無名の女子短大から始めて、京都造形芸術大学、そして京都大学のなんとかセンターというところにまで「出世」を果たした(ただ、鎌田の書くところは、かなり神道シャーマニズム系で、ちょっとアストラル的色彩が強すぎたので、私はやや敬遠ぎみだったが)。

ともあれ、世の中は、実践的世界も多少わかる「スピ系知識人」というものをある程度必要としているのだ。もう少し説明すると、大学院を出て就職するまでは、そういうカミングアウトをしてしまうとかなり大変だ。ただいったん入ってしまえば、比較的自由なものなのである。

話は最初に戻るが、この年でやめて生活は大丈夫なんですかね? 私も、宝くじにでも当たればやめてもいいんだけど(大笑)

思い出したが、そのシンポジウム、私も出ないかといわれたのだが、いまだ返事をしていないのでありました(苦笑)

『スピリチュアル哲学入門』情報

執筆予定の『スピリチュアル哲学入門』(今秋発売予定)だが、今回も前作にひきつづいて、対話体でいこうというプランになりつつある。対話体はプラトン以来、多くの思想家が採用してきた表現法であって、私が直接参考にしたのは、シェリングの「クララとの対話」であったのだが、ノヴァーリス『青い花』の第二部もかなりそんな感じなので、そういう雰囲気を意識している。

言語表現に関する私の考え方だと、内容もさることながら、まず「基本的なエネルギーの質」を決定するのが重要なこととなる。トーンを設定するわけだ。

そして、「語り手」のキャラクターと名前をだいたい決めた。これは前作とは異なる。必然的にエネルギー的には少し違うものになってくる感じだ。なんというか、もう少し「宇宙ちっく」になってくるかも(笑)

そういえば

ヒーリングの分野でやっているワークについては、少しずついろいろな活動を始めているところである。それについてはこのブログの趣旨ではないので、くわしく書くつもりはないが、そのヒントはすでにここでもどこかしらに書かれているのではないかと思う(^^;

まあ、以前のことだが、石川勇一さんの「スピリチュアル・ヒーリングをやります」には、さすがの私もぶったまげたが・・(笑) 私ももう少し書いちゃってもいいのかもしれないんですがね(^^ゞ

基本に戻って――スピリチュアルとは何か、ついでに霊的進化論のこと

ともあれ、スピリチュアルといえばオカルトとどう違うのかわからない人が多数を占めている現状で、「霊的事象を知的に扱うことが可能である、それどころか、そういう『形而上学』という分野があり、それは本来、文明世界がもつ知的秩序の中心を占めるべきものである」というイデーを広めるということがいま私の目標となっている。

形而上学というのは、「特定の宗教に偏らない神学」ともいえ、その意味で「普遍神学」という言い方もしている。

スピリチュアルというのは本来、spiritの形容詞形である。spiritとはでは何かといえば、それは「宇宙根源にある非物質的な原理」である。キリスト教的にいえば神、中国的にいえばタオということである。そして、そのspiritは、私たち人間の中核でもあるというイデーがある。つまり、私たちはそれぞれ、宇宙根源のspiritをなしがしか分有しているのであり、それが私たちが「意識」を持っていることの起源なのである。

こうした根本的なイデーに立つのが、私のいう(というか、伝統主義思想でいう)「スピリチュアル」ということである。それについては何らゆらぎはない。確定していることがらなのである。

つまり、スピリチュアルということには次のようなイデーが入っている。

1.すべての存在、すべての生命はある「根源」に由来している。

2.その根源は非物質的であり、精神(スピリット)である。

3.「私」が存在するのは、この根源の精神を分有するからである。

4.「私」の根源にある精神は、宇宙の根源と同一のものであるが、そのことを「思い出す」ことが可能であり、そのための道が存在する。

これらをすべて受け入れる世界観を「スピリチュアル」と呼ぶのである。

その限りでいえば、たとえばモンローや坂本さんの描いている世界観も、この要素は満たしているといえる(坂本さんの最近のぶっ飛び話はひとまず置いておくことにして)。

まず何よりも、そうした「存在と自己の根源」へ思索が届いているかどうかが、最大のポイントなのである。

根源を問わなくなった学問は、まっとうな「知」と言えるのか、という価値論的な問題提起も含まれている。

わかりやすい言い方をしよう。人間は、サルから進化したというのは真っ赤なウソである。人間は、非物質的な領域から物質領域に「降下」したことによって、ここに生きているのである。

これはつまり、ダーウィンの進化論というのは、何ら証明されていないイデオロギーであり、信じるに値しない説であるということである。これは、科学が形而上学的問題を扱えないにもかかわらず、無理やり万物の起源について説をなそうとしてつくりあげたフィクションである。

なお、「霊的進化論」とはまったく別のものである。人類は霊的に進歩していく、という考え方はキリスト教によって伝えられてきたイデーであり、ダーウィンとは関係ない。現在「精神世界」系でひろまっている霊的進化論は、ほとんどキリスト教に由来していると思う。ただ、科学と形而上学を接合しようという、テイヤール・ド・シャルダンやケン・ウィルバーなどには、ダーウィン的な進化論の影響も認めざるをえないであろう。

精神世界系でひじょうに広まっている考え方に「アセンション」というものがあるが、これはきわめてキリスト教的な思想である(だから駄目だ、と言っているのではないので間違わないように)。インドなどの思想は「スピリチュアル」ではあるが、すべて、個人が解脱していくことのみを目標としている。人類が全体として霊的な完成へ向かっていく、という思想はキリスト教に由来するものである。つまり地球全体が「神化」へ向かうということだ。近代でこういう思想がはっきり出てきたのは、東方キリスト教の伝統を受け継ぐロシアの思想においてである。ゲノンやシュオンを始祖とする「伝統主義――永遠の哲学派」には、このイデー(そして輪廻のイデー)だけが欠如している。地球神化というヴィジョンはキリスト教が保持してきたもので、今それが大々的に普及してきているというのは、思想史的に見てひじょうに特異なことである。私はそこに、「何か」があるという直観を抱いている。キリスト教がこのイデーを守ってきたことには人類的な(そして地球史的な)意味があったのではないか、と思えてならないのである。

なお、精神世界系の霊的進化論を、ダーウィン進化論の影響だと言っている人がいるが、それはキリスト教についての勉強不足から来る誤りである。

いわゆる「スピリチュアル」と思想的問題

ちょっとネットで「スピリチュアル」ということばを検索すると、それはもう実にいろいろに違う意味に使われていることがわかる。中には、「江原さんみたいなもの」という意味で使っている人も少なくないことがわかる。

江原サンにも役割はあるとはいえ、一人のタレント霊能者のイメージで、この由緒あることばの意味が理解されてしまうというのもなんだかである。というより、世の人はともかく、「感覚を超えた非物質的な根源の世界」との関連で存在の意義を問うという、「形而上学」という知のあり方が存在するということをあまりにも知らないのである。そのために、少しでも「向こう」に関わりあるものはみな「オカルト」の類に入れられてしまうという恐ろしいことになるのだ。「スピリチュアルの人」という言い方は、「江原サンみたいなあほなことを信じている人たち」という意味で使われていることもあるらしいことがわかる。

いまだに、オウム真理教の例を持ち出して、あらゆる「神秘主義」や、あるいは唯物論ではない世界観を抱くこと自体を危険視する論調もある。これが、文系の勉強をほとんどしていない脳科学者ふぜいが言うのならまだわかるが、インド哲学の専門家でさえ神秘主義を危険視するのだから驚いてしまう。

こういう人は、根源世界との接触という可能性と意義を否定しているわけだが、それを否定することは、オウムばかりではなく、たとえば空海やゴータマ・ブッダをも否定することである。脳科学のような世俗の学問を少しばかりやったからといって空海やブッダよりも偉くなったつもりになり、そういうのはばかなやつだと軽蔑する権利を得たかのごとく思っているのである。こういう、反神秘主義に立つ駄書の特徴は、オウムだけをとりあげて、その他の伝統的な霊性探求の歴史をまったく無視することにある。つまり、宗教的なるもの全体をバカがやることだという論点に立ってしまうのである。

心理学的に考えると、ムキになって神秘主義を罵倒する必要があると感じるのは、それだけその著者たちが、自分を防衛する必要を感じているということでもあるだろう。本を書くという大いに手間のかかることは、よっぽど強いエネルギーがないとできないのである。基本的にこういう人は、ハートが閉じているというエネルギー構成を持っており、それを防衛するためにいろいろなマッチョ的行動に出る。

だが結局、こういう人たちは、オウムがなぜ間違ってしまったのか、正確に、宗教的、霊的な観点から理解することができないのである。「修行」なんぞをしようとするから駄目なのだ、という論点になってしまうが、つまりは、そういう霊的探求にも正しいやり方と、間違ったやりかたがあって、オウムはその間違った道なのだということがわからない。何が正しいやり方なのかという知識がなく、見分けがつかないから、そういうことがら全体を否定しないと自分が守れないと感じてしまうのである。むしろ、オウムに行ってしまった人たちは、何が正しい道で、何が間違っているのかということをわかっていなかった、つまりそういう霊的ことがらに関する知識と判断力があまりにも不足していたから、「偽グル」を見分けることができなかったのである。あれが偽物であることなど、瞬間的にわからなければいけないものなのだが。したがって、オウム的なるものを予防するためには、むしろ、「正しい霊的知識」が広まることが必要なのであり、神秘主義的なるもの全体を頭から否定することとは、まったく反対である。そういう否定は、かえってまた、過激なアンダーグラウンド的カルトを生む、不寛容な精神的雰囲気をかもし出してしまうものである。

とはいえ、今は大家として知られている某宗教学者でさえ、当初は、あれが偽グルであることを見抜けなかったのだから、恐いものである。私は、彼の著書に出てくる神秘主義観にも、どこか危険を感じていた。それはあまりに、倫理を軽視して、ただ「大いなる快楽」ばかりを強調するもののように思われたのであった(これは、彼の思想には「霊的ヒエラルキー」というイデーが入っていなかったため、次元の高低を述べる基盤を持たないことに起因している)。

そして、「スピリチュアルの人たち」などという言い方をしている今の人びともまた、人類の積み上げてきた霊的文化の遺産について、ほとんどまったく知識を持っていないわけである。少しでも知識があれば、「スピリチュアル」をそんな意味に使うはずがないだろう。とにかく、あまりにも、その「伝統」が、知られていなさすぎるのである。

たとえば、禅の文化は伝統として尊敬はされているが、なぜ禅はよくて、オウムは駄目だったのか、それを明確に説明できる人などどのくらいいるものであろうか? 

とにかく、思想的教養の低下は著しいもので、ものごとを判断する基準となる、基礎的な思想史的知識のない人の、思いつき発言がまかり通っている。プロティノスやシャンカラを一行も読んだことのない自然科学者などが、人間の意識について発言できる資格があるはずないのだが、それを許してしまう世間のいいかげんさというのもまたあるのである。

この状況は、前にも触れたが、欧米ではある程度の勢力を持っている「伝統主義」の思想が、日本ではほとんど知られていないということからも来ている。ゲノンの訳書が出たことがあるがすでに絶版であり、今は、『忘れられた真理』があるだけである。日本には神学の伝統がないからしかたないのだが、知識人も、霊的事象を知的に扱うという分野があるということを受け入れられない人が多いのである。たとえば、空海の思想に立脚して、現代思想を批判し、霊的哲学を主唱する、なんて思想家が出ても不思議はないはずだが、なかなかそういうのは出ない。(たぶん日本では、伝統主義思想が存在しない空白を、「シュタイナー本」が埋めているのだろうと想像できる。それは現代日本である程度知られているものの中では、最も、「霊的事象についての知的行為」に近似したものであろうからである。私は、彼のハードコアのオカルトにはまったくついていけないが、少なくとも『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』を読めば、オウム的なるものに誘惑される危険はほとんどなくなるだろう。・・そうそう、それからウィルバー本もあるが、こちらは少し科学にも色気がある人向けなのですかね。たしかに私のやろうとすることは、ウィルバーに対するオルターナティブを日本に作ろうということも入っている。それはなぜかといえば、簡単に言って、ウィルバー思想は特に霊的ヒエラルキーについて誤った表象を描いていると思うので、そのままで広まってしまうと、実践的にも問題が生じてくる可能性があるからだ。とりあえずウィルバーファンの人は、『忘れられた真理』をよく検討して、比較研究してみていただきたいと思う)

こういう状況に一石を投じるためにも、『スピリチュアル哲学入門』などにより、基本的な思想的知識にもとづいて議論する習慣を作り上げていく必要があるのだ。今度の本は、十進分類147「心霊研究」に分類されてしまわないよう、出版社の方は十分に気をつけていただきたい(笑)

井筒俊彦『意識と本質』

4003318528 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店 1991-08

いや、ひさびさに再読した。この本はやっぱり面白い。というのは扱っている世界が、あちらからこちら、めくるめく饗宴という感じになる。

プラトン、新プラトン主義、イスラーム哲学(イブン・シーナー、イブン・アラビー)、ヴェーダーンタ、サーンキヤ、ヴァイシェーシカ、禅、孔子、宋学、真言密教、カバラ、シャーマニズム・・

しかし気がついたのは、この本には、結論がなかったんですね。意識と本質という問題について、東洋哲学をいくつかに分類したという本であって、「井筒哲学」を展開しているわけではないのだった。

西洋哲学ではドゥンス・スコトゥスくらいしか出てこなくて、近代哲学を無視しているのも小気味よい。

「意識と本質」というが、井筒のねらいとしてはむしろ「深層意識と本質」という感じなのである。深層意識という領界から本質論を照射するわけで、こういう試みは近代哲学にはないものだ。

輪廻の主体

(前項「宮元啓一への批評」につづく)ただ、宮元啓一のメリット面をあげさせてもらうと、仏教の形而上学的な無我説が思想的に維持しにくい立場であるということはよく理解できた。

私がもっとも注目するポイントは「輪廻の主体」ということだが、ヴェーダーンタ、サーンキヤ、仏教の所説を見ていて、いちばん無理のない立論の仕方はサーンキヤかもしれないなと思った。それで、宮元の、サーンキヤ経典解説の本だけは買うことにした。

私はこれまで唯識のアラヤ識説を一つの根拠にしていた。しかしサーンキヤだと、輪廻の主体は「微細身」であることになる。

私はここで、サーンキヤと新プラトン主義の類似を感じる。つまり精神性と物質性の二元性で宇宙を説明し、その両者を両極とするグラデーションがあり、中間界として微細身状態があることをうまく説明するのだ。

もっとも、輪廻の状態にあるものは基本的に微細身の状態にあるものの、その根源的な「主体」となると、それは神的自己(アートマン)の分有と考えざるを得ないし、サーンキヤでいう個的自己の根源としての「ブッディ」を、アートマンの分有としてとらえても差し支えないように見える。

ヴェーダーンタには分有というコンセプトはあるのだろうか。この考え方を使えば、一元論からの多元の展開をそれほど無理なく説明できる。

したがって、分有をコンセプトとして、ヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論を統合するような道が、新プラトン主義も参考にしているとありうるような気がしてくる。このあたりは、次の著作のテーマとなるのである。

一元論と二元論は表現のしようであって、もともとそういう論理で割り切ろうというすることに無理がある、というのが日本人としてはふつうの発想ではある。しかしこれはインドではふつうではなく、あくまで決着をつけねばならないと考える人たちであるらしい。だが日本人の思想は、ある意味で「やおよろづ」てきな何でもありという側面があっても、それはそれで伝統に則している思考法であるようにも感じられる。それを統一する何かがあればよいのだ。空海における大日如来のごとくにである。

しかし輪廻については、私は、宮元が最も嫌いな、「輪廻と霊的進歩」というイデーを昂然と主張するつもりである(笑) オリゲネスや野呂芳男という先駆者もいることだし。霊的進歩というイデーを信じない人の霊的進歩は、ひじょうにスローなものである。信じない人はこの際ほっておくしかない。私は、如来・菩薩は人類の霊的進化を助けるべく天界から助力している、という大乗思想を完璧に肯定するのである。したがって、この大乗を危険思想などと攻撃するのは「謗法」にあたると思うが、あまりそれをいうと一部の法華系教団みたいになってしまうから、セーブしておく。少し敏感になればだれでもわかるのである。ともあれ、この大乗的イデーが私の価値観だから、それをはっきりと主張していくつもりである。

宮元啓一への批評――功罪相半ばす?

宮元啓一のインド哲学論を少しまとめて読んでみた。

彼は、最近ものすごい数の本を出している。これは、インド哲学についてわかりやすく書ける能力のある人材が少ないためで、今の出版事情だと、ある程度の部数が見込めるという著者に依頼が集中する傾向があるためだ。宮元は、ウィルバーが売れなくなった後では春秋社の貴重なドル箱というわけであろうか。あともう一人、立川武蔵がいて、インド哲学をもとにした三部作の哲学書を書かせた出版社もあったが、それだけ、インド哲学に期待する読者層はあるものの、書ける人は限られている、という事情があるのだ。

で、宮元なのだが、読んでみた結果、「功罪相半ばする」という印象を持った。

インド哲学についてわかりやすく書けるというところは、たしかに本物である。読みやすいし、教えられるところも多い。

が、どうも、宗教の問題について、理解が深くない。というより、はっきりいって信仰ということがらに関してはほとんどオンチに近い人だと思った。また、西洋哲学やキリスト教との対比が出てくるが、その理解はお世辞にも深いとはいいがたい。深くないくせに、嫌みな口調で皮肉をいう。こういう性格的なものがどうも嫌いだった。

たとえば、ハイデッガーは世界内存在しか問わないというのも誤りだし、キリスト教は自由意志を重視しないというのは、一部の極端なカルヴィン主義だけをとりあげて、キリスト教思想の主流は自由意志重視であったことを知っていない。

基本的に、インド哲学の伝統の中にいる人ではなくて、あくまで日本人が外側から好奇心をもって眺めたらこういうのもできるのか、ということだ。インド哲学とは、自己の探求を哲学の課題とするが、宮元自身は自己を探求しているわけでもないらしいからだ。

うがった見方をすると、彼は、ある程度以上の世界が開かれていくのを本能的に恐れて、そこにフタをする傾向があるのではなかろうか。臨死体験への対応などにも、それがうかがわれる。

宗教体験というのは、自分の殻を破るように高次元のエネルギーが流入することである。彼は、これを恐れているように感じられた。学者にはよくあることだが。

特に、「他力」や、神への全託という思想について、これは危険思想であると繰り返しむきになって主張する、その感情的エネルギーに何か彼自身の問題を感じさせる。そして大乗仏教を、危険な救済主義だといって論難する。彼にいわせればバガヴァッド・ギーターも危険思想なのである。

このような、宗教に対する偏見ともいえる叙述が散発するので、有益な情報を含む本にもかかわらず、なかなか初心者にはおすすめしにくいものがある。

信仰に対する深い理解と、自己の根源への探求から学問をおこなっている、キリスト教系の、稲垣・谷・大森などの著作に接しているものから見ると、宮元の反霊性思想ぶりは顕著に目につくところであり、率直にいえば、その著作の、インド哲学をわかりやすく紹介するというプラスのカルマも、こうした妄言によるマイナスのカルマによってかなり相殺されてしまっているのではないかと心配される。

『インド死者の書』は、輪廻の主体とは何かという、私にとってははなはだ関心の高いテーマを扱っており、有益な情報を含むのだが、彼の「個人的見解」はスルーして読む必要がある。一つだけ書いておくと、彼は、「輪廻とは霊的進化のプロセスである」という考え方を、ダーウィン進化論に影響された超危険思想であると決めつけているが、これは彼の無知による解釈である。霊的進化の思想はもともとキリスト教が持っているイデーであり、それと輪廻思想が結びついているのは、すでにオリゲネスの思想に見られる。西洋的霊性の世界をほとんど探求したことがない彼が、キリスト教の「歴史における神化」という思想を知らないのはしかたがないが、突然、感情エネルギーを丸出しにして危険思想よばわりを始める彼の悪癖はなんとかならないものであろうか。ともあれ、彼は自分の専門にしている思想以外では、相当に間違ったことを言っていることがあるので注意が必要である。

というわけで、まあ、買うほどのものとは思えないが、図書館にあれば一読する価値はあるだろう。ただし、彼の悪癖にまどわされないよう十分な注意が必要で、思想史の初心者には勧めにくいなあ、という感じであった。宮元は、これ以上「謗法のカルマ」を積まないよう注意しないと、来世に響くのでその点は本当に心配である。

霊的な事象について書くというのは本当にこわいことなのである。宇宙の真理に背くことを書き、それを信じる人が多く出てきてその人たちが道からそれてしまうと、膨大なカルマを背負うことになるのである。その人たちがみな救済されるまでは救われないのだ。そういう緊張感をもってあたらないといけない。

本当は、インド哲学について、霊性的哲学の展開を期待する読者層も多いはずなのである。その部分をカバーしてくれる人材は、玉城康四郎なきあと、残念ながら日本にはいない。宮元啓一くらいのレベルのものがたくさん本を出すのは、ほかに人材がいないという日本思想界の状況からくることなのである。宗教オンチの人がインド哲学を講ずるなんて変な世界である。

したがって、「インドの霊性思想」を求めるならば、ヴィヴェーカーナンダなど、インドの霊的伝統の内部から書いているものを参考にするのがやっぱりよいように思われる。右コラムにあるヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』もどうぞ!(と、勧めるのは、私自身がヨガナンダ師から受けた恩恵に感謝するためでもある)

なお、ふつうにインド哲学史入門としては、むしろ立川武蔵『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書)のほうが無難だと思う。宮元の『インド人が考えたこと』は、人がいうほどいいとは思わなかった。

忙しすぎだが

このところ数日、猛然と読み、猛然と書くという過激な研究モードが続いたが、さすがに体にこたえてきた。少しセーブしなければならない。

イスラムから、ヒンドゥーの世界に入ったが、まだまだ知らないことがたくさんある。いろいろ読んでいると退屈しない。そうするとますます書く方の時間がなくなる。

時間の余裕があれば、大部な哲学史の洋書をゆっくりと読んでいってみたい。ナスル編の『イスラム哲学史』、ジルソンの『中世キリスト教哲学史』や『中世哲学の精神』、ラダクリシュナン『インド哲学史』などだ。時代を超越した、クラシカルな雰囲気がかもし出される時間となるであろう。

6月6日追記

上のリストに、タタキスによる『ビザンチン哲学』を追加する。

仏教と霊的ヒエラルキア

いろいろ宇宙ヴィジョンについて考えるのに、「日本の伝統をふまえて」ということは、実はそれほど気にはしていない。私も過去に、日本にばかり生まれたわけではないわけだし、そういうことはあまりとらわれなくてもいい時代にはなっている。かといって、各文明には伝統によって形成された霊的ヒエラルキアの体系があるわけで、それに対する尊重は必要だ。

日本の伝統といえば仏教だが、これは歴史的ブッダの仏教とは相当に違っている。

歴史的ブッダとは、インド思想の中ではアノマリーである。ふつうではない。なぜふつうではないかというと、「永遠の自己」の実在を否定するし、宇宙の究極的実体も否定するし、霊的ヒエラルキアも説かないからである。

これは当時のバラモン教のあり方に対する宗教改革であったわけで、アンチテーゼという意味がある。が、これはあくまで「余計なものを捨てる」ことにウェイトが置かれたもので、ポジティブに何かを表現する思想ではない。つまり、否定神学という意味合いがある。スピリットの世界の超絶性を強調するのだ。その意味では、ナーガールジュナも、禅も、そういう仏教精神を忠実に受け継いでいるものだ。

なるほど、こういう選択肢を人類が持っているということも必要であったのだな、といえる。だが、こういう仏教だけではまた、霊的思想として不十分であることも事実だ。というのは、この思想は基本的に唯名論である。すべての実在性を否定する方向である。その反面、ここに現象している世界が絶対の顕現である、という側面は弱くなる。イデア的なるものは究極的には幻想であるが、相対的には実在である。

「永遠の自己」は、究極からみれば幻想ではあるが、相対的には実在する。そうでなければ、輪廻の主体というものが立てられない。「自己はない」と仏教が言ってしまうとき、そこには「自己の多元性」という思考があまり入っていない。表層的な自我意識が幻想であることを言おうとするあまり、永遠の自己がその深奥にあるということも否定している。これは思想としてはやや行きすぎ、偏りになる可能性がある。

宮元啓一氏は、仏教徒が尊崇する「ミリンダ王の問い」について、「仏教の言う論理はどうみたって無理で破綻している」などと、例の口調で言い切ってしまっており、仏教徒が聞いたら椅子から転げ落ちそうであるが、それはまったくあたっていないというわけではなく、私もまた、仏教が「永遠の自己」さえも否定するのはいきすぎであり、思想としてバランスの悪いものになっていると見る。それはもちろん、現在という立場から見てということである。

世に何十冊もあるであろう般若心経入門の本だって、たぶんだいたいは、「自我の執着から離れなさい」「この世には何も実体はない」ということをいっているわけで、これは唯名論的宗教観というべきものである。

こういう唯名論的仏教解釈は、たしかに正しいが、正しいというだけでは足りない。霊的世界観として現代人に訴えるためには、もう少し実在論的(ヨーロッパ中世の普遍論争の意味で)でなければならない。つまり、いまそこにある形態をもった現象があるのは、絶対精神の顕現だということもいわねばならない。つまり、「そこに何かがある」ということを絶対的に肯定できるという部分がないと、思想としてバランスを欠くと思うのだ。

たぶん、そういう方向を示しているのが、空海の密教哲学である。

空海の思想は、歴史的仏陀の仏教とはまったく似ても似つかぬものである。はっきりいって、これは唯名論ではなく、有神論的仏教である。宇宙の中核には大日如来という絶対神がいる。そして大日如来が無限のエネルギーを放射し、さまざまな如来、菩薩、明王等の霊的ヒエラルキアをつくりだし、さらに自然界全体をそのエネルギーで満たしているのである。そして私たちの精神の中にもそのエネルギーが入ってきており、そのルートを通して私は大日如来と一体化するところまで上昇することが可能だ・・ これは、仏陀の教えたこととはまったく違うことである。しかしながら、私が受け入れている仏教とは、まさしくそのようなものである。

これはもちろん、空海が独力で造り出したものではなく、ブッダというものを宇宙的な存在と見なすようになるのは、大乗仏教がおこり、密教へ展開する中で、徐々に起こってきたことである。

むかしから「大乗非仏説」という論があって、つまり、大乗仏教はもはやブッダの教えとは違うものである、という主張がある。これは、まったくその通りである。しかし、「その通りですがそれが何か?」ということである。

歴史的ブッダというものは、そもそも宇宙的なブッダの化身の一つである、という理解は「仏身論」という考え方の中にあるものだ。現在の「精神世界」の考えには、ブッダとは宇宙的マスターの一人であり、その肉体的化身(つまりインドでいうアヴァターラ)が歴史的ブッダだ、というものがあるが、これに似た考えはもともと大乗・密教の中にはあったのである。

したがって、現在の霊的世界観を考えるにあたって、そこに仏教が参照されるとすると、それはもっぱら空海的な仏教になってくるのである。そちらの方が、はるかに普遍性がある。歴史的ブッダとか、その流れをくむ龍樹や禅などの思想は、特に執着が強いような特殊な場合にあてはまるべき例外的なケースである。歴史的ブッダの思想は反世界観的であって、それをもとにして何かの世界観を構想すること自体が基本的なまちがいである。

歴史的ブッダが何を言ったか、ということにとらわれなくてもいい。それとまったく違っていてもいっこうにかまわないのである。私たちが目を向けるべきものは宇宙に遍満する宇宙的マスターとしてのブッダである、と言ってもさしつかえないだろう。それは空海の思想をいいかえたものにほかならないのである。

かくして、いつのまにか、空海への信仰告白となってきました(笑)

高野山大学はぜひ、「スピリチュアル哲学科」を創設して、私を招聘していただきたい(爆)

伝統文明の霊的ヴィジョン

ナスル先生の『イスラム哲学 起源から現在まで』のところどころを再読しているが、すばらしいものである。一つの文明が抱いていたヴィジョンを明解に描き出している。それにしてもイスラム哲学は明快である。シンプルですっきりしている。そこへ行くとキリスト教哲学は・・なんといっても中心に「神の子の受肉」というものがある。このようなものが哲学に持ち込まれるのであるから、ややこしくなり、なんだかよくわからなくなるのだが、そこがまた、キリスト教哲学のおもしろさともいえるのである。イスラムのナスルに対して、キリスト教哲学にはジルソンがいる。・・しかし、ジルソンは神=存在という形而上学的原理を中心としているので、あまり、キリスト論は前面に出てこないような印象を受ける。キリスト論に深入りしなければ、キリスト教哲学もややこしくなくなるのだが。

私自身は、キリストを神の子とは見ない。かといって単なる人間でもない。位階的には「天使」にあたる高次元存在が人間の肉体に受肉したものと見る。こう考えるのはキリスト教徒の考え方ではない。しかし、他の文明の宗教思想とも整合的に理解しようと思えば、そうなるほかない。ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』に出てくるマハーアバター・ババジ師、あれをもっとスーパーにしたようなものがキリストなのではないだろうか。私の直観では、キリストほど高次元の存在が地球に降下したことは、歴史上にそれ以外にはなかったのであろうし、キリストが地球に来たことによって、地球という領域と高次元領域との何らかの調整がおこなわれ、地球の進化方向が修正されたことは間違いないと思う。

・・と、いきなりぶっ飛び話に転じたように思う人もいるかもしれないが、私にとっては何の矛盾もないのであって、この程度の話は簡単に許容できるのが、普遍神学というものである。高次元世界や天使・菩薩的存在もみな肯定しているのであるから、そこから地球人へ助力が差し伸べられているというのもまったく当然の話なのである。

そういえばこの前読んだチーサムの本に、コルバンは伝統的なキリスト解釈に異議を唱えて、「ドケティズム」(仮現説)を支持したという話がのっていた。私のキリスト解釈もそれに近いのだろうか。いや、私の場合、たしかに肉体に入ってきたと思うので、最近の精神世界用語でいえば「ウォークイン」ということになるかな(笑)

話は戻すが、こういう伝統文明の霊的ヴィジョンを描き出すような本をもっと読みたいものである。特に、インド、中国の思想についてそういうものを期待したい。狭い意味の哲学ではなくて「精神史」のようなものである。

というのも私はやはり、「人類の叡知の伝統」を全体として俯瞰してみたいという欲求がどうしてもあるようだ。なかなか、狭いところにしぼりこんでいくのは苦手である(笑)

シュタイナーには引く部分も・・

気がつくと最近はシュタイナー系のものを読まなくなっている。

たぶんそれは、シュタイナーが言っているイデーの大半は、伝統哲学をよく学ぶと出てくることであるからだろう。つまりシュタイナーの名前を出さなくても言えてしまうわけだ。たしかに一般の人には、霊的な世界観をコンパクトに学べるという点でシュタイナーは役に立つところもあろうが、問題は、ところどころにとんでもない超ぶっ飛び話がまざっていることである。二人のイエスだとか、土星紀だとか、強烈なトンデモ話が織り混ざっているので、なかなかシュタイナーを引用したりすることができない。まあ、わからない部分は、一種の比喩なのであるか、あるいは、戦略的にわざとそういう書き方をしている可能性もあると思うが、ともあれ、少しでも学術的な形式を取ろうと思えば、避けて通らざるを得ない。正直いうと、私は、彼の「霊視」が、どこまでことの真実に到達しているのか、もう一つ確信がもてない。それが真実だと信じてディープに学ぶことを否定しないが、それはやはり信仰的な行為だということになる。思想という領域は踏み越えているということを自覚するべきだと思う。ともあれ、私としてはちょっと引いているのが現状である。

彼の出しているイデーのいろいろは、近代文化のクリティックとしては妥当なものも多い。ただどうしても、そういうオカルト的なものとセットでやってくるというところが困惑してしまうわけだ。近代文化のクリティックであり、霊的な文化のあり方を示しつつ、そこまでオカルトに踏みこまず、信仰的な飛躍を要求しないもの、それでいて、霊的世界観がコンパクトに説明されているもの――というのが、必要なのではなかろうか。そういうものは、東西の伝統哲学をバランスよく統合していけば、十分に可能なのである。

そこで、このまえも書いたように、ナスル先生のような伝統主義哲学に、多少の修正を加えたようなものが、存在するべきだと思う。それはこれから書かれるわけであるが、現状としては、やはり、右にもあげてある『忘れられた真理』と『魂のロゴス』などくらいしか、あげるべきものはないだろう。英語には、ずいぶんたくさん出ているのに、残念である。日本の読者は、シュタイナー、ウィルバーくらいしか選べるものがないということであろうか。

トム・チーサム二冊目

読書記録だというなら、書いておかなくては・・ということで、トム・チーサムさん、『裏返しの世界――アンリ・コルバンとイスラム神秘主義』につづいて、第二弾という本も読みましたよ。その名も『グリーン・マン、アース・エンジェル』である。アース・エンジェルといってもドリーンとはまったく関係がないので誤解せぬよう(誰もしないか・・)。

この人の本は、あんまり学術的という書き方でもなく、評論という感じ。一冊目が、コルバンの紹介を意識していたのに対し、これはコルバンの見ていた宇宙を肯定する立場から自由なるインプロヴィゼーションをしている、てな感じかな。現代版エイヴンズという感じもしないでもないが。

そんなに感動するというほどではないが、読んでも損はないかなというところだ。イデー的にまったく初めてというようなものはなかった。しかしともあれ、このせちがらい世の中で、新プラトン主義的階層宇宙論と、神と天使の実在を肯定している思想を表明している以上、お仲間として迎えなくてはならない。

こういう世界観にまったく触れたことのない人は読んでどういう感じがするものなのだろうか。

0791462706 Green Man, Earth Angel: The Prophetic Tradition and the Battle for the Soul of the World (Suny Series in Western Esoteric Traditions)
Tom Cheetham
State Univ of New York Pr 2004-11-04

ジルソンの『神と哲学』――存在の根本問題

ほとんど読書記録と化してます(笑)

ジルソンの『神と哲学』英語版を買っておいたのを読んだ。小著なので、そばを食べるようにするすると。

いや、名著ですねえ。これは形而上学的問いの中核とは「存在」への問いであるということと、その「存在そのもの」を神としてとらえ、それとのパーソナルな関係を確立したことがキリスト教哲学の意義であること、そして近代以降はその本質が見失われてきたということを述べている。

これは私が知っていたことだ――というのは実は、私はジルソンからこのことをはっきりと学んだのである。それを再読したのだから、知っていたのは当然のことであるが(汗)。

日本語版は絶版なので、借りて読んだが、どうしても手元に置きたくて英語版を買っておいたのだった。やはり、西洋哲学の話はヨーロッパ語で読む方がよくわかるようである。

この小著から展開していけることはいろいろあって、たとえば、ハイデッガーの哲学は、近代における忘却を超えて、哲学史上ひさびさに「存在」の問題にフォーカスしたものであったという意義があること、しかしながら、ハイデッガー哲学には、かつての形而上学と比べて致命的な欠落があったのではなかろうか――というようなことも見えてくるわけである。

また、「存在の根本」を神としてとらえ、そこから形而上学を展開したのは、ヨーロッパ中世哲学だけではなくて、イスラム哲学もそうであったはずだ、ということも思い浮かぶ。西洋では、トマスの後、スコトゥス、オッカムと低落してきて、デカルト、カントによりついに息の根を止められてしまった「存在の思考」は、イスラム哲学では「神智学」の方向に発展したという「歴史の分岐」を認めることもできるだろう。

あるいは、インドや中国の哲学では、こうした「存在の根本」は忘却されることはなかったのではないか、ということもある。

もちろん「存在の根本」の問題は、「永遠の哲学」が主張することのすべてではないが、その最も根本のことがらであるにはちがいない。

↓まっ白な表紙なんで、写真がよく見えませんね(笑)

0300092997 God and Philosophy (Yale Nota Bene)
Etienne Gilson
Yale Univ Pr 2002-03-01

最近の興味

最近の興味としては、ひきつづきイスラム哲学、特にスーフィズムとの関係の強いイブン・アラビーの思想を調べようと思っている。あとは、新プラトン主義・・日本では、新プラトン主義の研究者など20人もいないだろうという状況だが、英語圏ではかなり出ていて、特にイスラム哲学やインド哲学、キリスト教哲学との比較など、興味あるところだ。このあたりをいろいろ読んでいるだけでも数年は楽しめそうであるが・・そんな悠長なことをしている時代か、というのもある。

特に新プラトン主義とインド哲学というのは、私自身の思想傾向がそれに近いわけだから、無関心ではいられない。英語では二冊ほど研究書が出ているようなので、トライしてみるか。だいたいわかったことをより精密にしていくよりも、あまり知らない新しい分野に進出することの方が私の好みである。つまり、研究者向きではないということだ(笑)

また、だいぶヨーロッパやイスラムなどに遊んだので、そろそろインドといくか、と思わないでもない。

読んでいると書く時間がないが・・(笑)

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