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仏教と霊的ヒエラルキア

いろいろ宇宙ヴィジョンについて考えるのに、「日本の伝統をふまえて」ということは、実はそれほど気にはしていない。私も過去に、日本にばかり生まれたわけではないわけだし、そういうことはあまりとらわれなくてもいい時代にはなっている。かといって、各文明には伝統によって形成された霊的ヒエラルキアの体系があるわけで、それに対する尊重は必要だ。

日本の伝統といえば仏教だが、これは歴史的ブッダの仏教とは相当に違っている。

歴史的ブッダとは、インド思想の中ではアノマリーである。ふつうではない。なぜふつうではないかというと、「永遠の自己」の実在を否定するし、宇宙の究極的実体も否定するし、霊的ヒエラルキアも説かないからである。

これは当時のバラモン教のあり方に対する宗教改革であったわけで、アンチテーゼという意味がある。が、これはあくまで「余計なものを捨てる」ことにウェイトが置かれたもので、ポジティブに何かを表現する思想ではない。つまり、否定神学という意味合いがある。スピリットの世界の超絶性を強調するのだ。その意味では、ナーガールジュナも、禅も、そういう仏教精神を忠実に受け継いでいるものだ。

なるほど、こういう選択肢を人類が持っているということも必要であったのだな、といえる。だが、こういう仏教だけではまた、霊的思想として不十分であることも事実だ。というのは、この思想は基本的に唯名論である。すべての実在性を否定する方向である。その反面、ここに現象している世界が絶対の顕現である、という側面は弱くなる。イデア的なるものは究極的には幻想であるが、相対的には実在である。

「永遠の自己」は、究極からみれば幻想ではあるが、相対的には実在する。そうでなければ、輪廻の主体というものが立てられない。「自己はない」と仏教が言ってしまうとき、そこには「自己の多元性」という思考があまり入っていない。表層的な自我意識が幻想であることを言おうとするあまり、永遠の自己がその深奥にあるということも否定している。これは思想としてはやや行きすぎ、偏りになる可能性がある。

宮元啓一氏は、仏教徒が尊崇する「ミリンダ王の問い」について、「仏教の言う論理はどうみたって無理で破綻している」などと、例の口調で言い切ってしまっており、仏教徒が聞いたら椅子から転げ落ちそうであるが、それはまったくあたっていないというわけではなく、私もまた、仏教が「永遠の自己」さえも否定するのはいきすぎであり、思想としてバランスの悪いものになっていると見る。それはもちろん、現在という立場から見てということである。

世に何十冊もあるであろう般若心経入門の本だって、たぶんだいたいは、「自我の執着から離れなさい」「この世には何も実体はない」ということをいっているわけで、これは唯名論的宗教観というべきものである。

こういう唯名論的仏教解釈は、たしかに正しいが、正しいというだけでは足りない。霊的世界観として現代人に訴えるためには、もう少し実在論的(ヨーロッパ中世の普遍論争の意味で)でなければならない。つまり、いまそこにある形態をもった現象があるのは、絶対精神の顕現だということもいわねばならない。つまり、「そこに何かがある」ということを絶対的に肯定できるという部分がないと、思想としてバランスを欠くと思うのだ。

たぶん、そういう方向を示しているのが、空海の密教哲学である。

空海の思想は、歴史的仏陀の仏教とはまったく似ても似つかぬものである。はっきりいって、これは唯名論ではなく、有神論的仏教である。宇宙の中核には大日如来という絶対神がいる。そして大日如来が無限のエネルギーを放射し、さまざまな如来、菩薩、明王等の霊的ヒエラルキアをつくりだし、さらに自然界全体をそのエネルギーで満たしているのである。そして私たちの精神の中にもそのエネルギーが入ってきており、そのルートを通して私は大日如来と一体化するところまで上昇することが可能だ・・ これは、仏陀の教えたこととはまったく違うことである。しかしながら、私が受け入れている仏教とは、まさしくそのようなものである。

これはもちろん、空海が独力で造り出したものではなく、ブッダというものを宇宙的な存在と見なすようになるのは、大乗仏教がおこり、密教へ展開する中で、徐々に起こってきたことである。

むかしから「大乗非仏説」という論があって、つまり、大乗仏教はもはやブッダの教えとは違うものである、という主張がある。これは、まったくその通りである。しかし、「その通りですがそれが何か?」ということである。

歴史的ブッダというものは、そもそも宇宙的なブッダの化身の一つである、という理解は「仏身論」という考え方の中にあるものだ。現在の「精神世界」の考えには、ブッダとは宇宙的マスターの一人であり、その肉体的化身(つまりインドでいうアヴァターラ)が歴史的ブッダだ、というものがあるが、これに似た考えはもともと大乗・密教の中にはあったのである。

したがって、現在の霊的世界観を考えるにあたって、そこに仏教が参照されるとすると、それはもっぱら空海的な仏教になってくるのである。そちらの方が、はるかに普遍性がある。歴史的ブッダとか、その流れをくむ龍樹や禅などの思想は、特に執着が強いような特殊な場合にあてはまるべき例外的なケースである。歴史的ブッダの思想は反世界観的であって、それをもとにして何かの世界観を構想すること自体が基本的なまちがいである。

歴史的ブッダが何を言ったか、ということにとらわれなくてもいい。それとまったく違っていてもいっこうにかまわないのである。私たちが目を向けるべきものは宇宙に遍満する宇宙的マスターとしてのブッダである、と言ってもさしつかえないだろう。それは空海の思想をいいかえたものにほかならないのである。

かくして、いつのまにか、空海への信仰告白となってきました(笑)

高野山大学はぜひ、「スピリチュアル哲学科」を創設して、私を招聘していただきたい(爆)

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