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輪廻の主体

(前項「宮元啓一への批評」につづく)ただ、宮元啓一のメリット面をあげさせてもらうと、仏教の形而上学的な無我説が思想的に維持しにくい立場であるということはよく理解できた。

私がもっとも注目するポイントは「輪廻の主体」ということだが、ヴェーダーンタ、サーンキヤ、仏教の所説を見ていて、いちばん無理のない立論の仕方はサーンキヤかもしれないなと思った。それで、宮元の、サーンキヤ経典解説の本だけは買うことにした。

私はこれまで唯識のアラヤ識説を一つの根拠にしていた。しかしサーンキヤだと、輪廻の主体は「微細身」であることになる。

私はここで、サーンキヤと新プラトン主義の類似を感じる。つまり精神性と物質性の二元性で宇宙を説明し、その両者を両極とするグラデーションがあり、中間界として微細身状態があることをうまく説明するのだ。

もっとも、輪廻の状態にあるものは基本的に微細身の状態にあるものの、その根源的な「主体」となると、それは神的自己(アートマン)の分有と考えざるを得ないし、サーンキヤでいう個的自己の根源としての「ブッディ」を、アートマンの分有としてとらえても差し支えないように見える。

ヴェーダーンタには分有というコンセプトはあるのだろうか。この考え方を使えば、一元論からの多元の展開をそれほど無理なく説明できる。

したがって、分有をコンセプトとして、ヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論を統合するような道が、新プラトン主義も参考にしているとありうるような気がしてくる。このあたりは、次の著作のテーマとなるのである。

一元論と二元論は表現のしようであって、もともとそういう論理で割り切ろうというすることに無理がある、というのが日本人としてはふつうの発想ではある。しかしこれはインドではふつうではなく、あくまで決着をつけねばならないと考える人たちであるらしい。だが日本人の思想は、ある意味で「やおよろづ」てきな何でもありという側面があっても、それはそれで伝統に則している思考法であるようにも感じられる。それを統一する何かがあればよいのだ。空海における大日如来のごとくにである。

しかし輪廻については、私は、宮元が最も嫌いな、「輪廻と霊的進歩」というイデーを昂然と主張するつもりである(笑) オリゲネスや野呂芳男という先駆者もいることだし。霊的進歩というイデーを信じない人の霊的進歩は、ひじょうにスローなものである。信じない人はこの際ほっておくしかない。私は、如来・菩薩は人類の霊的進化を助けるべく天界から助力している、という大乗思想を完璧に肯定するのである。したがって、この大乗を危険思想などと攻撃するのは「謗法」にあたると思うが、あまりそれをいうと一部の法華系教団みたいになってしまうから、セーブしておく。少し敏感になればだれでもわかるのである。ともあれ、この大乗的イデーが私の価値観だから、それをはっきりと主張していくつもりである。

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