井筒俊彦について
井筒俊彦は私にとって20代くらいから「スター」であり、天空にきらめく明星のごとき存在であった。まさにこれこそ、哲学のお手本であり、思想とはこういうものであるべきである。
幸いにも近所の図書館に著作集があり、体系的に読み直している。
あらためて気づいたのは「言語の深層」への関心が、たいへん強いことだ。その当時の構造主義的な世界理解の、ずっと先、深奥の領域に視線をそそいでいる。特に空海の言語哲学、あの「声字実相義」の世界に、かなり好感を抱いているように、思われる。またそれは、イブン・アラビーの「存在エネルギーの湧出」という世界観とも親和的である。その意味でやっぱり、『イスラーム哲学の原像』が、井筒思想への入門書であると同時に中核でもあるだろう。
井筒の言う「言語アラヤ識」とは、むしろ、「世界地平生成の作用」というものであることが明らかになってきた。言語というが、それは「原言語」なのであり、必ずしも、表層の言語のことを言っているのではない。空海の言うような、世界は仏のコトバであるというイデーを視野に入れているものだ。つまり、ロゴスに近いのである。
つまり言語アラヤ識は現象学の深層とでもいうべきことがらに関連しているように見える。例の、永井晋の『現象学の転回』は、もう少しでそこに到達するところまで来ていると思うが、まだそこには、井筒への言及はあまりない。
ただ、井筒の著作全体を見ても、体系的な著作というのは見られない。井筒形而上学とはどういうものであるのか、理論的な著作を残してほしかった。
存在のゼロ・ポイントである「無」を基底として、そこからの存在の湧出として、全世界を見る。全世界は、つまり、幻想ともいえ、また神の顕現ともいいうる。この世界観は、相当にうまく表現されている。
ただ、これはナスルなどの伝統主義哲学にもいえることなのだが、私からみて重要なコンセプトが、そこにはまだ入っていない。それは、「世界霊」の問題と、「輪廻とその主体」という問題である。
現在のスピ的世界観は、そこまで入れないと、完成しないと思っている。
それをやっているのは、私の知る限り、まだ世界にはいない。というわけで、いちおう私は、世界の最先端に立っていることになる?? ・・などと考えると、気分がよくなってくるので、「それは陶酔では?」というツッコミは無視して、ポジティブに考えることにしよう(笑)
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イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119) 井筒 俊彦 岩波書店 1980-05 |
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意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) 井筒 俊彦 岩波書店 1991-08 |
余談だが、「スピ」ということばがどう使われているのか、なんだかいろいろで、収拾がつかない。「スピリチュアル」ということばを私がどう定義しているかは、何日か前に書いたので参照いただきたい。しかし、「スピリチュアリティ」という用語は私は決して使わない。いよいよもってわからなくなってくるからだ。
さしあたり私は、現今のスピ・ブームとは一線を画している。もともと形而上学についての関心は20代ころからあったもので、そのことから井筒を読んでいたわけであり、最近のスピ本ブームで目覚めたわけではない。あくまで伝統形而上学の大きな伝統を受け入れて、新しいものは、それに照らして認めるべきものは認める、という形をとっている。
逆に、最近のスピ本だけを読んでいる人は、「本当にこれでいいのか」と不安に感じることもあるらしい(というお便りをもらったこともある)。その意味で「伝統を知る」ことは安心感を与えると思う。つまり、これは現代社会でこそマイノリティーであるが、本来、人類文化の本道だと、自信を持って言いうることを知ってもらいたいのである。



