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インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ

あらためて『はじめてのインド哲学』を再読して思ったのだけど、私自身の立ち位置は、明らかに、仏教とは違う(あとで述べるように、ここでいう仏教は、密教を除いたインド伝統的なものを指す)。

仏教は、もともと、低次の自我を否定するための実践体系として考えられており、無我の思想もそういう目的のものだ。そのため、仏教の非実体説によっては、世界がどのように展開してきたのかという説明は、不可能になる。このことも立川武蔵ははっきり述べている。

ところが、仏教が密教(タントリズム)の段階になると、大日如来からすべてが展開しているということで、本来の仏教色が薄まり、ヒンドゥー教哲学に近い形になるのである。別の面からいえば、密教化した仏教は、ヒンドゥー教とあまり区別できなくなってきたからこそ、インドでの存在意義を失って、インドからはほぼ消失するということになったのだろう。つまり、ヒンドゥー的哲学が仏教をのみこんだ、という形になるだろう。(なお、儀礼的実践が優勢になってきたのも、ギリシア哲学においてプロティノス以降、「テウルギア」が重視されるようになったのと似ている)

ある意味では、禅こそが、仏教本来の行き方を維持している伝統なのかもしれない。

・・とはいうものの、私は基本的には、ヒンドゥー的な表現の方を好んでいることは、否定できない。だから、密教には完全にアット・ホームである。また、ヒンドゥー教哲学の中でも、シャンカラのような純粋な非二元論よりも、「世界はブラフマンの顕現である」ということを強調する、ラーマーヌジャとか、あるいはシヴァ派系統の哲学の方に親和性がある、と自己分析することができる。

つまり、基本としては空海・・というより、空海的なタイプの思想だということになる。実際、日本の伝統がもつ思想のレパートリーの中で、空海がもっとも総合的であり、現代的でもあると思う。これは、仏陀が説いた仏教とはまったく異なる。しかし、それでよいのである。はっきりいって私は、歴史的仏陀にはこだわらない。

西方の思想だと、私の勉強した限りでは、イスラム神秘主義に基礎を置くイブン・アラビーの思想は、密教的な世界観に近いように思われる。井筒さんも結局のところは、空海やイブンアラビーの思想にいちばん共鳴を示していたようにも読めるのだが・・?

立川武蔵は、「世界に<聖なるもの>としての価値を見出す」ことが、インド哲学の伝統だと結論している。

これは、いろいろな意味に使われている「スピリチュアル」ということばの一つの定義としても、使えるものだろう。

つまり、「スピリチュアルとは、世界(そして自己)の根源に<聖なるもの>を見出そうとし、その<聖なるもの>との関連において存在や生の意義を追求しようとすることである」という定義も、なかなかにいいのではなかろうか。

あるいは、日常性=俗とは対立する、「高い次元」の存在を認知し、それとの関係において生のあらゆる面を再構築・再構成しようとする試み――というふうにもいえる。

これは「宗教」という言い方もできるわけだが、ここでは「宗教」とは、上に定義した「スピリチュアル」にプラスして、「複数の人間が共同して構築した、<聖なるもの>探求を目的とする組織的活動」としての性格をもつもの、と考えておく。つまり、本来、宗教はすべてスピリチュアルであるが、スピリチュアルのすべてが宗教とはいえない、ということになる。

話を前の方にもどそう。私は、仏教では、この相対的な世界がどのように構成されているかという世界観が示せないので、仏教だけをもとに21世紀的霊的哲学を構築するのは無理があると思う。基本的に「絶対神からの宇宙の創生と、そこからまた絶対神への帰還」ということが宇宙の基本構造であることをまずおさえつつ、相対的世界の発生については、原型(イデア)論や、世界霊魂(アニマ・ムンディ)、普遍霊と個霊・・などの新プラトン主義哲学の概念を活用すべきであろうし、また、個我の根源とその転生については、サーンキヤ哲学も参考にできるだろう。

実際、いかにして「私」は宇宙の根源へ帰ることができるのか、という実践の問題として受け止めたときに、密教などが示唆しているのは、「霊的ヒエラルキアと魂の成長」というイデーであるように思われる。『はじめてのインド哲学』では、密教の霊的ヒエラルキアという面は、いまひとつ強調されていなかったが・・ 私がいうヒエラルキアとは、「経綸と恩寵」のシステムということである。「人類を導く神々の働き」を意味している。密教的ヴィジョンとは、宇宙とはマンダラであるということである。それはつまり、ヒエラルキアですよという意味だと思う。

現代のスピリチュアル哲学(聖なるものの探求を基礎に置く哲学という意味)としては、「天使のいる場所」を持つということが重要なテーマになっていると思う。絶対者と(地球的な)人間の両極を立てて、その二つの関係を説くような哲学はこれまでにたくさんあるのだが、それだけでは実践的に足りない部分が出てくるのである。間違っているわけではないが、もう少し豊かな内容をつけ加える必要がある。

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