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スピと脱近代

なんというか、締め切りがあるので、気分がゆっくりしませんな。

きのうは新プラトン主義の英語による概説書を読んだ。ここで、欠落していた部分をかなり理解することができた。考えてみれば、新プラトン主義についての日本語のよい概説書など一冊も出ていない。カントやヘーゲルの研究者など掃いて捨てるほどいるのに、新プラトン主義の研究者なんて日本じゅうさがしても20人もいないであろう。エリウゲナ、ボナヴェントゥラなど、新プラトン主義系キリスト教思想家でも、まあ数人というところだ。

哲学というものを、近代ヨーロッパの哲学こそがモデルだと考えること自体、「脱亜入欧」の明治的学問体制の名残だというのが私の考え方である。岡倉天心は西洋文明について、哲学はまったくたいしたことない、美術は東洋とまぁいい勝負、音楽だけは西洋が勝っている、という評価をしていたという。東洋文化の伝統を意識した人間としては、そのあたりが適正な評価ではないかと思うのである。

近代ヨーロッパをとりあえず脇にのけて、人類の哲学思想を大観してみると、このメタフィジック(形而上学=究極的なるものへの知)としては、「みんなてんでに違うことを言っている」ということではなく、表現や強調点の差はかなりあるにせよ、基本的にはかなり似た構造をしているのではなかろうか、という見方ができる。だから正しいという証明になるわけではないが、究極的なるものへ向かうときに人類が抱く思想(イデー)にはある一定の構造があり、人間とはそのように考えて生きるのが「ふつう」ではないだろうか、という感覚を抱く。つまり、人間とは形而上学を求めるものであり、その意味では、ホモ・メタフィジックスなのである。

そういう「共通構造」に興味を示したのが、井筒俊彦である。共通構造を取り出しつつ、その中のいろいろなパターンを示したのが『意識と本質』だろう。

いまの哲学教育だとやればやるほどなんだかわからなくなるだけである。まず、伝統文明における哲学は、似たような基本構造を持ち、いくつかのバリエーションとして展開してきた、という大枠をおさえることである。その上で、近代ヨーロッパの哲学はどのように「特殊」(独自といってもいいが)な方向へ進んだのか、という理解を持つことである。

つまり、現状ではあまりに、近代ヨーロッパ的な哲学のとらえ方が正しいことが、自明とされすぎており、その点が疑われていないことが問題なのである。

いわゆる「スピリチュアル」が、なぜ「オカルト」と同一視されてしまうのか?そのような、「スピ音痴」の風潮が蔓延した原因は、近代ヨーロッパ文明の特殊な性格にあり、それがあまりに無批判に受容されているためなので、スピの正統性を復権させるためには、近代文明批判という観点が欠かせないのである。

つまり、「スピ」は、本来、人類文化の本道なのである。それがなぜ、マージナルな位置に追いやられているのか、それは、ヨーロッパ近代文化の特殊性を、「普遍」と誤認して無批判に受容した、「脱亜入欧」的な価値観が、思想分野をなお支配しているためだということである。

もちろん、ほんとのオカルトというものがあり、それが霊性とどのように異なるのかというのは重要な問題だが、それも、伝統文明の哲学における基本線を理解していればおのずと解けてくることである。

人類哲学史を概観すると、そのもっとも大きな流れは、新プラトン主義とインド哲学である。新プラトン主義は、ギリシア哲学を集大成して、セム系一神教と結合し、キリスト教、イスラム、ユダヤの哲学に巨大な影響を与えている。一方インド哲学は、仏教を分派として生み出し、中国や日本の思想の主要部分を形成している(中国における、仏教以外の本格的な哲学は、宋学だけなのだが、それもまた、仏教に触発されたものだ)。つまり、伝統哲学の大部分は、新プラトン主義(と一神教)、インド哲学の流れの中に入ってしまうのである。つまり、まずその二つをおさえるということが大事なことである。

ということなので、もし人類の哲学的古典から選抜するならば、西ではプロティノスの「エネアデス」、東ではシャンカラの「ウパーデシャーサハスリー」あたりを選ぶことになるかもしれない。この両者を読むと、驚くほど似ていることに気がつくと思う。(より正確にいえば、プロティノスよりももう少し後代の新プラトン主義の方が、シャンカラ的幻影説に接近するのであるが)

新プラトン主義でも、イアンブリコスや、のちのアテネ学派などになると、「テウルギー」、つまり霊的実践(儀式とかヨーガ的な修練)が重んじられるようになり、その点でもインドと似ているなあ、と感じられる。

つまり、ここで言いたいことは、伝統文化における哲学には、一定の基本があったということであり、そこまで普遍的なものであったとすれば、あれこれ言う前にまずそれを学んでみてくれ、ということである。批判するにしてもまずそれをよく知ってからの話である。ほとんど何も知らないまま、オウムをみろ、だから神秘主義(スピリチュアル)は危ないんだ、などという粗雑な議論が多すぎるので、そういうくだらない本はもう読まないようにしていただきたいのである(編集者も勉強して、そういうレベルの本を出さないようにしていただきたい)。言わせてもらえば、オフサイドとはどういう意味なのかも知らない人がサッカーを評論したりするようなレベルのものがまかり通っている。

つまり、私はここで、これまでの常識的な「哲学史」とは全く違う視点を持って、人類の哲学的遺産を眺めているということである。それは意識的に、「脱西欧」的な視点を取るのである。近代ヨーロッパ文明と対決し、その或る部分を拒否するということである。

残念ながら、私も、多数の本を(洋書を含め)つなぎあわせて、ようやく人類哲学史の概観に達することができたので、一般の人が、これを読めばとりあえず全体が通観できる、というような本はまだない。井筒の『意識と本質』くらいしかないのだが、これは入門レベルではなく、また「共時的」つまり歴史的な書き方ではないので、ちょっとむずかしい。インド哲学とそこから派生した仏教の展開、それが儒教・道教・神道の思想に与えた影響をトータルに把握する思想史はまだないし、また、ギリシア哲学からプロティノスで頂点に達し、そこからセム的一神教とからんで、イスラム哲学、キリスト教哲学、ユダヤ哲学と展開していった西洋の思想史全体を概観できるような本もない(現状でいちばん近いものはアームストロングの『神の歴史』かな。訳されてないが、ナスルの Knowledge and the Sacred がかなりいい)。またそういう西洋伝統思想史の理解に立った上で、オッカム以降の近代ヨーロッパ思想に生じた変動の意味を理解できるような概説もない(デュプレの本はある程度それに近いのだが、翻訳は出ていない)。つまり「文明史」という位置づけにおいて把握するような試みははなはだ少ないのである。そういう理由で、いま世に出ている哲学史入門書のたぐいはまったくおすすめしない。それはほぼ100%、近代哲学の立場を自明とする視点から書かれているからである。

ということであるが、メタフィジックに関する研究・仕事は、いちおう今度の本で集大成し、自分にとっての総合に達しようと思っている。

それ以降は、私が最初に手がけていた「神話的思考」というテーマに回帰して、神話学の研究――それも、霊性と関連させた上での「スピリチュアル神話学」の構想へ向かおうと思っている。これは、ジョゼフ・キャンベルによって示されていた方向性なのだが、今の日本では、そういう神話学の方向性を受け継いでいる人がいないのである。

そんなわけで、神話や物語関係の本も、少しずつ集めている状況である。このテーマについては今後、ここでも少しずつ書いていきたい。

なお、上に書いた「くだらない本」の代表として、池田清彦の『科学とオカルト』をあげる。このアマゾンリンクで、最初の二つのレビューは、実は私が書いたものである。この本は何と、講談社学術文庫で再刊されてしまった。・・(以下、お聞き苦しい表現となるので削除します(^^;  )

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