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いわゆる「スピリチュアル」と思想的問題

ちょっとネットで「スピリチュアル」ということばを検索すると、それはもう実にいろいろに違う意味に使われていることがわかる。中には、「江原さんみたいなもの」という意味で使っている人も少なくないことがわかる。

江原サンにも役割はあるとはいえ、一人のタレント霊能者のイメージで、この由緒あることばの意味が理解されてしまうというのもなんだかである。というより、世の人はともかく、「感覚を超えた非物質的な根源の世界」との関連で存在の意義を問うという、「形而上学」という知のあり方が存在するということをあまりにも知らないのである。そのために、少しでも「向こう」に関わりあるものはみな「オカルト」の類に入れられてしまうという恐ろしいことになるのだ。「スピリチュアルの人」という言い方は、「江原サンみたいなあほなことを信じている人たち」という意味で使われていることもあるらしいことがわかる。

いまだに、オウム真理教の例を持ち出して、あらゆる「神秘主義」や、あるいは唯物論ではない世界観を抱くこと自体を危険視する論調もある。これが、文系の勉強をほとんどしていない脳科学者ふぜいが言うのならまだわかるが、インド哲学の専門家でさえ神秘主義を危険視するのだから驚いてしまう。

こういう人は、根源世界との接触という可能性と意義を否定しているわけだが、それを否定することは、オウムばかりではなく、たとえば空海やゴータマ・ブッダをも否定することである。脳科学のような世俗の学問を少しばかりやったからといって空海やブッダよりも偉くなったつもりになり、そういうのはばかなやつだと軽蔑する権利を得たかのごとく思っているのである。こういう、反神秘主義に立つ駄書の特徴は、オウムだけをとりあげて、その他の伝統的な霊性探求の歴史をまったく無視することにある。つまり、宗教的なるもの全体をバカがやることだという論点に立ってしまうのである。

心理学的に考えると、ムキになって神秘主義を罵倒する必要があると感じるのは、それだけその著者たちが、自分を防衛する必要を感じているということでもあるだろう。本を書くという大いに手間のかかることは、よっぽど強いエネルギーがないとできないのである。基本的にこういう人は、ハートが閉じているというエネルギー構成を持っており、それを防衛するためにいろいろなマッチョ的行動に出る。

だが結局、こういう人たちは、オウムがなぜ間違ってしまったのか、正確に、宗教的、霊的な観点から理解することができないのである。「修行」なんぞをしようとするから駄目なのだ、という論点になってしまうが、つまりは、そういう霊的探求にも正しいやり方と、間違ったやりかたがあって、オウムはその間違った道なのだということがわからない。何が正しいやり方なのかという知識がなく、見分けがつかないから、そういうことがら全体を否定しないと自分が守れないと感じてしまうのである。むしろ、オウムに行ってしまった人たちは、何が正しい道で、何が間違っているのかということをわかっていなかった、つまりそういう霊的ことがらに関する知識と判断力があまりにも不足していたから、「偽グル」を見分けることができなかったのである。あれが偽物であることなど、瞬間的にわからなければいけないものなのだが。したがって、オウム的なるものを予防するためには、むしろ、「正しい霊的知識」が広まることが必要なのであり、神秘主義的なるもの全体を頭から否定することとは、まったく反対である。そういう否定は、かえってまた、過激なアンダーグラウンド的カルトを生む、不寛容な精神的雰囲気をかもし出してしまうものである。

とはいえ、今は大家として知られている某宗教学者でさえ、当初は、あれが偽グルであることを見抜けなかったのだから、恐いものである。私は、彼の著書に出てくる神秘主義観にも、どこか危険を感じていた。それはあまりに、倫理を軽視して、ただ「大いなる快楽」ばかりを強調するもののように思われたのであった(これは、彼の思想には「霊的ヒエラルキー」というイデーが入っていなかったため、次元の高低を述べる基盤を持たないことに起因している)。

そして、「スピリチュアルの人たち」などという言い方をしている今の人びともまた、人類の積み上げてきた霊的文化の遺産について、ほとんどまったく知識を持っていないわけである。少しでも知識があれば、「スピリチュアル」をそんな意味に使うはずがないだろう。とにかく、あまりにも、その「伝統」が、知られていなさすぎるのである。

たとえば、禅の文化は伝統として尊敬はされているが、なぜ禅はよくて、オウムは駄目だったのか、それを明確に説明できる人などどのくらいいるものであろうか? 

とにかく、思想的教養の低下は著しいもので、ものごとを判断する基準となる、基礎的な思想史的知識のない人の、思いつき発言がまかり通っている。プロティノスやシャンカラを一行も読んだことのない自然科学者などが、人間の意識について発言できる資格があるはずないのだが、それを許してしまう世間のいいかげんさというのもまたあるのである。

この状況は、前にも触れたが、欧米ではある程度の勢力を持っている「伝統主義」の思想が、日本ではほとんど知られていないということからも来ている。ゲノンの訳書が出たことがあるがすでに絶版であり、今は、『忘れられた真理』があるだけである。日本には神学の伝統がないからしかたないのだが、知識人も、霊的事象を知的に扱うという分野があるということを受け入れられない人が多いのである。たとえば、空海の思想に立脚して、現代思想を批判し、霊的哲学を主唱する、なんて思想家が出ても不思議はないはずだが、なかなかそういうのは出ない。(たぶん日本では、伝統主義思想が存在しない空白を、「シュタイナー本」が埋めているのだろうと想像できる。それは現代日本である程度知られているものの中では、最も、「霊的事象についての知的行為」に近似したものであろうからである。私は、彼のハードコアのオカルトにはまったくついていけないが、少なくとも『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』を読めば、オウム的なるものに誘惑される危険はほとんどなくなるだろう。・・そうそう、それからウィルバー本もあるが、こちらは少し科学にも色気がある人向けなのですかね。たしかに私のやろうとすることは、ウィルバーに対するオルターナティブを日本に作ろうということも入っている。それはなぜかといえば、簡単に言って、ウィルバー思想は特に霊的ヒエラルキーについて誤った表象を描いていると思うので、そのままで広まってしまうと、実践的にも問題が生じてくる可能性があるからだ。とりあえずウィルバーファンの人は、『忘れられた真理』をよく検討して、比較研究してみていただきたいと思う)

こういう状況に一石を投じるためにも、『スピリチュアル哲学入門』などにより、基本的な思想的知識にもとづいて議論する習慣を作り上げていく必要があるのだ。今度の本は、十進分類147「心霊研究」に分類されてしまわないよう、出版社の方は十分に気をつけていただきたい(笑)

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