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「おはなし」と哲学・形而上学

と、いうわけで、今度は河合隼雄による「おはなし」関係の本をいろいろと借りてきたのだった。昔話とか児童文学、ファンタジーと、いろいろある。

こんな文がある。

極端な言い方をすると、自然科学もおはなしの一種なのだが、外的事物を操作するのに飛び抜けて優秀な「おはなし」だというべきだろう。それがあまりにも有効なので、自然科学の語るおはなしが、そのまま「現実」だと思い違いをはじめたために、現代人は混迷しはじめた。「現実」との真の接触を回復するには、人間は自然科学以外のおはなしも沢山知る必要がある。
『おはなしの知恵』p.20

というのはまったく同意であって、自然科学が一つの「おはなし」であることは、たとえば池田清彦の『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)などを見ても明らかであろう(ただし彼の『科学とオカルト』は前に書いたように天下の駄書なので読まないように。なおこうした科学観の高級バージョンとしては、大森荘蔵『知の構築とその呪縛』などがある)。

また河合は、オウム真理教と見られる事例に触れて、それにひかれた人は、知的エリートであったかもしれないが、あまりにも、生と死にかかわる「おはなし」について知らなさすぎ、免疫がなかったと言っている。だからあのような「変なおはなし」にだまされてしまったのである。

こういう河合の基本的な考え方は、「人は、生きるため、そして死ぬために、おはなしを必要とする」という理解である。そして、自然科学は、人が生きるためのおはなしをすべて提供できるようなものでもない。もちろん心理学だって、自分なりのおはなしを提供するというだけの話である。

このように見てくると、私がいまなぜ河合のおはなし本などを読もうとしているのか? というのは、私はたぶん、今から書こうとしている哲学、形而上学(それをスピリチュアル思想ともいうが)をも、一つの「おはなし」を作ることだと感じているからではないか、と思われる。単に、その仕事が終わったら神話学の仕事に入るから、というのではなく、その二つの領域は、私において、もっと内的に、密接に連関しているのであろう、と気がつくのである。

哲学・思想というのもけっきょくのところは、「自分が納得できるようなおはなし」を求める行為なのだろうと思う。あるいは、「美しいおはなし」をつくろうという衝動に由来するものでもあろうし、その中には、「自分の実際に見てきたすばらしい世界について人に語ろうとするおはなし」もあることであろう。このように思想の歴史をながめてはどうだろうか。

だからそれを研究するということも、つきつめれば、「自分のもっている、<世界についてのおはなし>を豊かにする」ための旅のようなものだろうと思う。

霊的哲学というと、存在世界についての「絶対的に正しいおはなし」を追求するものだと思うかもしれないが、そうではない。「一つの絶対的に正しいおはなし」を信じることは危険である、というのが現代人的な感性であるし、それを精緻に語るのがいわゆるポストモダン思想なるものだ。そもそも、人が語る限り、それは絶対に相対的なものでしかない。人は、人の世界という文脈の中でしか、宇宙の真実を表現することはできない。人が人の世界(正確には、地球人の世界)を超えれば、また別の表現も可能になるであろうが。

すべては「相対的にバランスがとれていると思われるおはなし」や「相対的により多くのものを包含した包括的なおはなし」「相対的に、深い美の世界が表現されていると感じられるおはなし」などをめざしていく、ということしか、人間には可能でないのである。それ以上のことは、地球を卒業してからやるべきことである(笑)

伝統の形而上学は、たしかに、自分こそが正しいおはなしであるというのを争おうとしてきた側面がある。特に西洋的な思想はそうである。また、それが正しいお話であることを「証明」しようという試みもあった。また、そういうおはなしは「感覚的経験の示すところにもとづいて、完全に首尾一貫して論証されていなければならない」という考え方もあった。

私はこのような「論証への呪縛」から哲学を解放して、それは「おはなし」なのである、という立場に徹しようと考えている。哲学といわれるものは、世界が存在するとか、自分が存在するということについての、「よりすぐれたおはなし」を探求するということなのだ。すぐれたおはなしを沢山知れば、オウムのような、粗雑で美的ではないおはなしを面白いと思う人はいなくなるはずである。

おはなしであるからといって、イメージだけで、論理がまったくないというわけでもない。そのへんは、たとえばプラトンの対話編などを見てもわかるだろう。ただ「論理のみ」で押していくことにも限界があることは明らかである。

と、ここでさらに問題になるのは、それでは、そのおはなしと、霊的体験のような「体験」の問題はどうなるのか? ということである。おはなしは、「人間が経験しうること」をできるだけ多く含みこむものであるべきだと思う。その意味でも形而上学的経験(日常の領域を超える経験)があるということも、おはなしは含みこんでいくべきであろう。

まあ、そんなことを考えたが、河合の本は、あっちこっち連想が飛びまくりで、まったく論理的でも体系的でもないのである(笑)

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