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福島大野病院事件に関して

福島の産科医が逮捕・起訴された事件で、無罪判決が出た。

産科医療の急速な崩壊につながった事件ともいわれており、大きな注目を集めていた。

これは、内容から見て、どうみても立件すること自体が無理な事案だった。無罪は当然のこととして受け止められている。

医療過誤というのは、その基準となる「その当時の標準的な医学水準」というものが変わるので、なかなか、専門家でなければ、判断がむずかしい。しかし今回のケースでは、検察側は、自分の主張を立証すべき臨床例を一つも提示することができず、優劣は明らかで、判断がそれほど困難ではないケースであった。警察・検察が、起訴以前に専門家にコンサルトしていれば、逮捕・起訴はありえない事例であった。

と、いうのは予備知識であって、ここで書きたいことはそういうことではない。

以前のこのブログで、小松氏の『医療崩壊』という本をとりあげたことがあったが、現在、日本の社会全般に「死と向き合わない」という風潮が強くなっており、その結果、「死を受け入れられない」という遺族感情が強く残り、その怒りが、医療者にぶつけられるケースが増えている、ということである。つまり、医療者は、どんなケースでも適切な処置をしていれば救命できるはずだ、それができなかったのは、ミスがあったからだ、という思考をする人があり、そういうのを、またマスコミがやたらとあおる、という風潮があるのだ。

参考までに

福島大野病院事件mixi日記の反応から

こちらのブログは、一般人が見てもたいへん参考になるので、他の記事も読まれることをおすすめする。生と死が微妙に交差するERの現場というのは、生と死についての瞑想に誘うものがある(テレビのERものなどは、医学的にウソが多いもので、あまり見ないことにしている)。

以下は、このブログ記事の引用である。強調は原文のまま。

#1:人が一人死んでるのに、無罪なんておかしい! という意見です。

ごく少数ですが、このような主張がありました。 医療者は、「人は死ぬものだ」という大前提で医療行為を行いますが、こういう主張をされる方は、「死」という大前提を心の中にお持ちでないように私には思えます。 やはり、社会としての「死の教育(death education)」ということの重要性を感じずにはいられません。

まったくその通りである。

このブログは、「スピリチュアル」に関するブログということにいちおうなっているが、スピリチュアル(つまり、魂とか、この世界の根源にあるものは何なのか、というような話のこと)が必要なのか、といえば、ぶっちゃけ、人は死ぬからである。私は死に、あなたも死ぬのである。人の死亡率は100%である。

もし、明日、死ぬことが決まっていたとしたら、まず、死ぬとどういうことになるのか、気にはならないものだろうか。自分というものは、ここで滅亡するのか、それとも、自分の本体(魂)はなおも継続するのか・・そのことを、考えようとはしないものであろうか。

考える必要はない、と、間近な死が確実になっても、言い切れるなら、それは立派なことである。それは、それまでに、それだけのものを自分の中につくりあげたから、そういえるのであり、それなら尊重されるべきである。それもまた、りっぱにスピリチュアルである。

なぜスピリチュアルなのか。それは、死ぬからである。こういう前提は、私には明々白々であるように思われるが、確認の意味で、記しておこう。

次に、支持表明なしの中で、複数の興味深い意見がありましたので、その共通する部分の意見を紹介します。
#2:私がもし遺族の立場だったら、やっぱり納得がいかないと思う! という意見です。

医療という人の生死を扱う業界に属する自分にとっては、とても興味深い反応だと思いました。 

医師と患者が安心して、医療に向き合える環境づくりには、システム整備論のみならず、 「死」を納得できない遺族感情を、個々の医師-患者関係の中で、どう取り扱い、どう向き合っていくのかという視点が極めて重要だと思いました。 そういう捉え方においては、まだまだ、マスメディアはもちろんのこと社会全体が未成熟な状態なのかもしれません。

・・重要ですね。

キューブラー=ロスの死生学について少しでも勉強した人は、知っていることであるが、人が死に直面したとき、それを否認し、そして「怒る」という段階が来る。そして、それを通って、最終的には受容に至る、といわれる。この知識は、およそ、スピにかかわる人なら、常識としてもっているべきことである。

現在、社会において、「死を受容する」という文化が、著しく衰えている。そう、死を受容するとは、文化なのである。つまり、死に直面した人に、それをどう乗り越えていくかの、ノウハウとサポートを提供するという、「死の文化」というものが、文化には必要な部分として、あるのだ。そのへんも、文化人類学など学べば、わかる知識である。そういう「死の文化」についていえば、現代日本は、もう信じられないくらい衰えているのである。死を受容するためのサポートがほとんどない。このため、「怒り」の段階でストップしてしまいやすい。

明らかに、当時の医療水準からして無理なことを医療者側に要求するような、医療訴訟が起こされることがあるが、この場合は、遺族側が、その「怒り」の感情が、訴訟に勝つことによって満たされる、という期待があることが多いようだ。「この裁判に勝たなければ、あの子は浮かばれない」などと親は言うが、実は、その子はとっくによい世界へ行っているのであり、むしろ、浮かばれていないのはその親の心そのものである。これも仏教的にみれば「心の闇」の世界である。そしてまた、マスコミは、なぜか、こういう遺族の怒りの感情を、そのまま肩入れして報道したがる体質がある。報道者の方もまた、死の文化について勉強していないのであり、エモーショナル・リテラシーというか、感情のケアという視点を、まったく持てていない。

どうしても「人のせい」にしなければ、自分の感情を担いきれないというのは、たいへんだと思う。でもその状況は、のりこえなければいけない。その「人のせいにする」という行為自体を、認める必要はない。そういう状況自体は、「心の闇」の一種だと、ある意味では冷静に、見切っていくことも時には必要だ。

医療崩壊を阻止していくためには、死をもっとオープンにする社会が絶対に必要な気がします。違う言葉で言えば、一人ひとりが、自分に対するあるいは家族に対する「死の覚悟」を日ごろの生活の中で認識しておくことの必要性でしょうか。 そういう認識が十分にあれば、#2のような気持ちを持つ人が少なくなるのかもしれません。

・・と、いうことですよね。

あなたは死ぬんですよ。

大丈夫ですか?

・・つきつめていえば、それにつきるわけである。スピの問題というのは。

ということは、

人は、その本質において、永遠の生命をもっている

という可能性も、考えてみてはどうか? いや、もっと正確に言うと「永遠の生命そのものである」と言うべきかもしれないが。

「永遠の生命」の話は、現在の「学問」の世界からは、基本的には排除されている。哲学には、こういう話はない。こういう話は、いま、宗教ということになる。

だが、それだけではだめだ。ここで、「永遠の生命」について考えるという話を、「知的世界」のうちに、入れなければならない。いや、むしろ、そのことが中心に位置するべきではなかろうか。

「スピ哲学」の主張とは、要するに、そういうことである。スピの中心とは、生と死の問題(つまりそれが、存在の問題)であり、永遠の生命についての問いである。

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