« January 2009 | Main | March 2009 »

2009.02.28

科学と宗教の関係

佐々木茂美氏に代表される「気の科学」という分野は、現在、人体科学会や、国際生命情報科学会といった学会組織において研究がされている。それは正規の科学的方法にのっとって行われている。

私が前にも書いたように、科学的方法論というのは本来、世界観に関してはニュートラルなものである。科学は唯物論というパラダイムに基づかなければならない、というのは信念のレベルにあることであり、それ自体は科学的に検証することのできない命題である。

ただ、科学的方法論というのは観察・測定に依拠するから、その方法によって明らかにできることには限界がある、ということである。

佐々木茂美氏も「気の科学的研究」と「気の体験」の二面から話を進めている。つまり、「気」そのものは体験のレベルにあることであり、これは研究するとすれば現象学の方法が適切なものである。それに対して科学的研究は、体験の現象学から抽出された「気」という概念を前提とすれば、さまざまな観測データが説明可能となることを示す。つまり「気」を仮説として定立すること自体は、科学的方法論ではなく、現象学的方法論に由来する。なお、「気」の現象学については、現象学者の山口一郎氏が興味を示しているようだ。この前の人体科学会の大会でもシンポジウムがあったらしい。

・・おっと、いかんなあ、文章が難しくなりすぎてしまうなあ(笑)

難しいついでに書いておくと、ケン・ウィルバーは、科学と宗教との関係について次の5つの立場を分類している。

1. 科学は宗教を否定する。(いわゆる科学教、科学至上主義)

2. 宗教は科学を否定する。(宗教的根本主義)

3. 科学と宗教とは、異なる存在領域においてそれぞれ有効であり、棲み分けをしている。互いにその存在領域の枠内においてはいずれも有効である。

4. 宗教がこれまで主張していたテーゼ(宇宙根源や霊的な次元など)は、科学の進歩によってある程度証明可能となってきている。

5. 科学は何ら真理性を担保されたものではなく、一つの解釈枠組にすぎない。その、物質世界を探求することの妥当性も不確実である。

ウィルバーは3の立場を取る。4は、最近ではラズロの本に見られるような、ニューサイエンス系によくある論調である。5は、ポストモダニズム思想の影響下にあるが、科学哲学の中でも急進的な「非共約性」の立場に立つパラダイム論などはここに入る(池田清彦などもこれ)。

3の立場は、物質領域を探求する上においての科学の有効性に絶対の自信を持っている。同時に、霊的領域を探求する上において、霊的伝統によって保持されている技術(修行法)の妥当性に絶対の自信を持っていることでもある。それぞれにおいて妥当だから、棲み分けろというのである。これに対し5の立場は、すべて人間が構築した知的秩序の「不確実さ」を強く意識した思想である。

私自身はといえば、3と5の中間くらいである。私は、科学とは「人間の生み出した世界の解釈枠組の一つに過ぎず、不確実性を内包しているが、物質領域の秩序を解明にするにおいては、現在の地球人の文化という限界内において、一定の有効性は持つもの」と見る。ウィルバーは、地球人の知的・霊的能力に絶対の自信を持ちすぎており、ポストモダンの提起した「不確実さ」の意識をもっと持つべきだと私は感じる。これまで人類が生み出してすべての宗教伝統も、あくまで「地球人型ゲシュタルト」に適合させた「方便」に過ぎない。すべては高次元から見れば嘘であり、オモチャである。ウィルバーには「地球人中心主義」があると思う。それがよいか悪いか、どちらが正しいという問題ではなく、基本的な感性として違和感がある。

しかし、少しずつながら前進している「気」やスピリチュアルヒーリングについての科学的研究などを見ていると、この五つ以外の選択肢もありそうに思える。つまり、体験的地平からの定立とともに、霊的次元と物質次元との相関について、科学的方法で解明可能な部分については研究していこうという「非唯物論的科学」の可能性はあると思う。上の3の立場だと、それぞれはまったく別であるとされるが、ウィルバーのパラダイムにおいては、いわゆるサイキック現象(非物質次元と物質次元の相関現象)の実在ということが想定されていないように思われる。そのあたりが、超心理学を経験している中村雅彦さんなどもついているところである。

そもそも現在の唯物論的科学とは、自然というものを「物質である」という視点から研究するものであるが、自然をどう見ていくのかについて、その立場のみが正しいわけではないのはもちろんだろう。物質は非物質と相関しているのではないか、というのは過去の自然哲学には多くあった思想だ。そういう相関的パラダイムに基づいた科学研究が隆盛になればまた人類文化も変わっていくだろう。たとえば波動医学的なものをエビデンスベースで(つまり統計的にということ)研究するようなことはそういう意義があるだろう。

なお、うえの4の立場において「科学と宗教の融合」を期待する向きがあるかもしれないが、これは認識論的なカテゴリーエラーがあり、私には認められない立場である。

一方で、「唯物論的に世界を理解すること(物質次元のみが存在し、非物質次元と物質次元の相関はありえないとすること)の妥当性は、科学によって『証明』されており、そのように考えることが『合理的』である」というような考え方は、まだ一般の人々のレベルでは強いのだろうか? これについては、すでに世代間ギャップがあるかもしれない。50代以上で高等教育を受けた人はそのようなパラダイムの影響を受けていることが多いのである。例のアマゾン中傷レビューアーのように、非唯物論的科学=疑似科学、との単純な公式がインプットされている人がかなり存在する。

現実には、まだ少数派であるが、佐々木氏のような「非唯物論的科学」も存在するのである。したがって、3の「棲み分け理論」ではなく、「科学的方法は、世界観的にはニュートラルであり、物質次元と非物質次元との相関を、ある程度明らかにできる可能性がある」とのとらえ方が、先の1~5以外に可能であるように思われる。つまり、それは、存在の非物質次元と物質次元を包括した広義の「自然哲学」によって基礎づけられることができる。3の立場では、いつまでたっても相関が明らかになっていかない。

「気」の入門書

次の私の本では、「気」ないしは微細エネルギー(生命エネルギー)という視点から宇宙構造を考え、それに見合ったワークのあり方というような問題を考えたいと思う。今年半ばまでには発刊したい。

さて、それに関連して、「気」についての概説書として、現在の時点では次のものをおすすめしたい。

4816334858 図解雑学 気の科学 (図解雑学シリーズ)
佐々木 茂美
ナツメ社 2003-04

バランスの取れている良書である。佐々木氏はこの分野では第一人者である。

アマゾンレビューでは、何の根拠も示さずに悪罵・中傷をする発言が見られる。昔はアマゾンは、投稿するレビューをいちいちチェックしていたようで、送信してから数日かかって掲載されることが多かったが、いまでは送信した瞬間に掲載される。つまり実質的にはチェックせず、見た人が苦情を言ってきたものについてのみ審査するという体勢である。レビューの下段についている「報告する」というリンクをクリックすると「このレビューはガイドラインに違反しているのではないか」という意志を伝えることができる。こういう機能を活用しないとアマゾンを利用した「荒らし」や特定個人への攻撃が可能になってしまいかねない。現にそういう、レビュー欄の「炎上」もときどきあるが、アマゾンはそれにしっかりと対処しているとはいいがたい。アマゾンレビューも危ういなと思わせる。書いている人の知性や情報の信頼性を十分に吟味する必要があるのは、ネット全般に言えることである。

と、それは横道であるが、佐々木氏の次の本では、もう少し具体的なワークのことも書いてある。

4777103579 図解 誰でもできる「気」のつくり方・高め方
佐々木 茂美
ゴマブックス 2006-04-24

こちらは前にゴマブックスの新書で出ていたものを再版したものらしい。これも「気」について現在言われていることがだいたい概観できるので、「気」に興味のある人は読んでおいて損はないものである。

改めて言うまでもないが、私が本を推薦しているからといって、そこに書いてあることが100%正しいと私が太鼓判を押したということではない。あくまで自分で吟味していただきたい。

坂本さん、重大発表

坂本政道さんのブログより: (一部編集)

「分裂する未来・ダークサイドとの抗争」(ハート出版、坂本著)

私がこれまで2012年について言ってきたことがらにネガティブ・サイドの宇宙人からの情報が混じり込んでいたことに気づき、それを改めるために書いたものです。
去年の11月にバシャール/ダリル・アンカと対談したことが、そう気づくきっかけになりました。この対談については5月にVOICEから出版されます。
宇宙にはネガティブな存在もいる、いわゆるダークサイドの宇宙人がいるのです。この本の大半は自分が直接バシャールと交信して得た情報を載せています。

ほ~~ 興味深い・・ 「やっぱりなあ」と思った。最近の本を見て、「おかしいなあ」と思った人も多いのではないだろうか。しかし、それに気がついたというのはよかった。影響力が強い人は、充分に「サニワ」をやってもらわなくては・・ こういう人でも間違えるのだから情報はウノミにしないことである。最近の坂本さんについて私がどう考えるのか、ここではそれ以上はノーコメントにしておきたい。

ダークサイドの霊的存在(非物質的存在、宇宙人ともいう)がいるのはあたりまえのことで、過去の霊的伝統のほとんどすべてに知られている。「交信」にあたっては相手がそういうダークな存在ではないのかどうか確認することは基本である。紀元前から知られていたことである。しかしわかっていながら失敗することもあるということだ。

2009.02.26

スピリチュアル・ヒーリングの昨今

こんな本がある。

現代の医療と宗教―身心論をめぐって
滝沢 克己
創言社 1991-11

滝沢克己は、1909-1984ということだから没後だいぶになるが、存命中は相当に有名なキリスト教神学者だった。「エンマヌエル論」というのが有名だ。

上の本は、初版はもちろんもっと昔である。で、これは、無難なタイトルがついてはいるが、実は、滝沢氏が「手かざし宗教」によって病気を治してしまった、という体験にもとづいて、それを神学的にどう考えるかというような内容である。

今から30年も前である。スピリチュアルヒーリングというようなものは世の中になかった。あったものはこうした手かざし宗教である。当然ながら、滝沢氏のこの本に、信奉者の多くはきわめて困惑し、この本をどう扱ってよいかわからないという状況が続いたのだった。有名な知識人がこのような領域に発言するという例は前代未聞だったのである。

時代は今、大きく変わった。私の知っている某臨床心理学者は、大学教員であるにもかかわらずHPに「治療の一環としてスピリチュアル・ヒーリングをやります」と明記している、ということは前に書いた。アメリカでは大学院の正規科目としてヒーリングがあるのは珍しいとはいえない、とも言った。

つまり、こういうヒーリング能力というものが、ある特定の宗教の専売物として存在していたというのは、時代的にはもう古いのである。つまり、科学万能の世の中で、宗教という隔離された世界でのみ細々と命脈を保っていた、ということなのだ。

そういう時代が長かったので、その記憶がまだ人々から消えていない。ヒーリングというと、宗教ではないかと思ってしまう人がまだ多いというのは、そのせいである。

ヒーリングは宗教である必要はない、それは人間にだれしもある能力として認知されるべきだ、というパラダイムが普及してきたのは、1980年代の「気功ブーム」からである。1990年代くらいから、レイキの西洋からの逆輸入があって、そのスピリチュアルな側面も知られてきた。今では気功よりもスピリチュアルヒーリングの方がメジャーになっているくらいだ(気功の集まりに行くとわかるが、いま気功に行くのは、スピリチュアル系までは疑わしくてちょっとなあ・・というタイプの人が多い)。

宗教組織というのは必ずそこに非物質的存在とのかかわりがある。宗教によってヒーリング能力がつくのは、その組織を維持しようとしている非物質的存在の力による。したがってそこにはそういう存在、その組織のカラーがつくということは事実である。ヒーリングだけ頂いて、そういう霊的な側面には関わりません、というわけにはいかない。その点は理解しておく必要がある。

他のヒーリングメソードにもそういう存在とのかかわりはあるが、それを宗教という形でなく公開しようとしている意志を持っている、というところが、現代にはマッチしているように思われる。ただ、ヒーリングができるからといって完全に善なる存在であると断定はできないので、ここでも「サニワ」は必要である。世の中にかなり普及しているメソードの方が安心度は高いとは言えるだろう(伝える人の問題もあるが)。

今から見ると、手かざし宗教にびっくりしているようではな~ というのが率直な感想だが、考えてみると、そういうスピリチュアルヒーリングがこの世界には存在しているということを事実として認知した上で、それはどういう意味を持つのかという知識人による書物というものは、この滝沢氏の著作以降、どれだけ書かれたのだろうか? ――と、これがこの文章で言いたいことである。

あの本が出たとき、手からエネルギーを出してヒーリングする、ということが本当にできると思った人は、100人のうち1人もいなかったかもしれない。そういう状況を承知の上、自分が体験したことは事実だからとこういう本を出してしまった滝沢氏というのはたしかに相当な傑物であったのだな、と思う。

もちろん、聖書には、イエスがヒーリングの力で病気を治したとたくさん書いてあるのだから、神学者が、そういうこともあろうと考えたとしてもいいようにも思うが、当時は(今でも?)、そういう記述は民間信仰が混入したもので実際にはなかった、という合理主義的聖書解釈が主流であったのだ。もし、聖書に書いてあることのほとんどが本当だとすると、世界観の大規模な変更を迫られてしまうのである。まして、キリスト教とは関係のない、わけがわらない(?)新興宗教が、そんなことができると言われてもな~ というのが一般的な受け止め方だったわけだ。(私が科学についてあれこれ批判するのがピンと来ない人もいるかもしれないが、1980年代以前、いかに、科学に一致しないことがらが否定的に見られていたか、今では考えられないくらいなので、つい、「科学をそれほど絶対視するな」ということを言ってしまうのだ。いま30代以前の人は、そのくらいかつては絶対視されていたということを知らないようなので、そういう言葉は必要ないのかもしれない)

いや、時代は変わった。それに、知的世界は追いついていない。そういうことである。

歴史的に貴重な文献である。

微細身体性の問題へ向かって

最近、研究集中モードで、それというのもこの春休みに書くはずの本のため、ネタを集めるのが大変である。新プラトン主義やパラケルススといった流れのものと、インド、それと空海やチベット密教・・などに関心を持っている。特に身体、あるいは「微細身体性」というものが、宇宙とどのようにかかわり、それが、いろいろな霊的なワークの成立と、どう関係しているのか・・といった、はなはだ遠大なテーマを考えているわけだが、読むものも膨大である。

この問題には、こういう本があるが

身体の宇宙性―東洋と西洋
湯浅 泰雄
岩波書店 1994-01

これは名著だけれども、もっぱら中国に詳しく、西洋部門はストア派が出ているだけである。新プラトン主義については、プロティノスには身体性の要素は薄かった、と書いてあるだけだが、私が今までに勉強した範囲では、こう言うだけでは不十分で、プロティノス以降の後期新プラトン主義でいかに身体的技法が発展したか(テウルギアである)、などを考えると、書き足りていないことに気づく。プネウマ論なども、基本となるフェルベケの研究を参照していないなど、東洋部門に比べて簡単さが目立つ。

また

気・修行・身体
湯浅 泰雄
平河出版社 1986-12

こっちも有名だが、まだまだ、当時の学問状況の困難さを反映してか、はっきりと「微細身体性」や「微細エネルギー」について言い表すのは、及び腰という印象である。私は学問的な意味での批評はするが、湯浅先生を尊敬することにおいては人後に落ちないつもりである。だが、2009年という現在、これを大幅に超えるパラダイムを提示するのは、むしろ後進としての義務であろうと考える。

2009.02.22

医薬品の通信販売規制について

医薬品の通信販売が今年6月から規制される。これはひじょうに大きい問題をはらんでいると思うので、反対の意志を表明するため、次の署名サイトへリンクする。こういう官僚や審議会の人たちというのは、地方の生活というものがわかっていない。道を歩けばコンビニがあるような地域に住んでいる人は、こういう規制があっても困らないだろうが・・ 都市出身の中産階級出身者ばかりで政策が決められている実情はなんとかならないだろうか。

楽天による署名サイトである。

Signature_banner1_2

2009.02.20

どうでもいい雑感その2

中川前財務相の問題というのは、いったいあれは何?・・と思っていたら、ネットに夕刊フジのインタビュー記事が出ていて、それを見ると、薬を二倍飲んだことの副作用だ、というのは本当らしい。酒を飲んだと思われてしまったのは、過去の「武勇伝」のしからしめるところであった・・ということらしい。

しかし、財務相を務めるほどの人物が、頭が切れないはずはないと思うが、そういう人でも「薬を二倍飲めば早く治るだろう」という医学的に非常識なことを思いつくというのは、日本人の医療知識というのはこんなものだろうか?

副作用の少ない、漢方やホメオパシーなど代替医療を視野に入れれば、また違った対応が可能だったのでは?

これは、前に、安倍元首相の辞任の時にも書いた。こういう厳しい勤務状況にある人の健康管理ということが、あまりに粗末に考えられているのは、国益を損なう可能性があるということだ。

単なる雑感

中村さんの本を読んでて気がついたが、そういえば、昨年の秋、体調やエネルギーがかなり低下してしまったが、それについて思い当たることがあった。だが、ここではこれ以上書くわけにはいかない。これが解決したらだいぶ楽になった。

ネットカルトの話だが、私の知人のブログでも、「○○○についてどう思いますか?」というコメントが来ることがあるそうだが、これは実はそこの信者が書いているもので、もし「だめでしょう」と言えば、そこで呪詛攻撃をしようということであるらしい。世にも恐ろしい話である。

昔の、オウムにしたって、本に書いてあることの8割くらいは、インドの聖典と同じことであり、その言葉を読む限りでは「いいこと」が書いてあるのである。すべてカルトというものは、まったくでたらめではなく、その中には多少の霊的真理の言葉も入っており、それがどうしようもない魔的なものと混在していることが多い。初心者は、その霊的な真理のことばに感激して、その教えが100%正しいと思ってしまう、というところに落とし穴がある。

したがってあくまで、霊的なことがらは、エネルギー的にも判断するべきで、それが「さにわ」なのである。それについては、骨董品の鑑定と同じで、「いいものばかりを見る」という経験を積み重ねるしかない。とはいっても、たくさん霊的な古典を読んでいても、ネットカルトのものをいいと思ってしまうような人もいるのだから、ただ読めばいいというものでもない。むずかしいものである。知識と直観力の両方が必要だ。

サイトについても、それを書いている人物がどれだけのものであるのか、エネルギー的に「さにわ」するということが必要で、たいしたことないとか、ちょっと変だと判断したらいっさい無視することだ。

しかし・・いや~、人ごとではない。カルトないし悪しき宗教信仰の心理というのは、「こんなすごい教えを信じている自分は偉い」というエゴがあるのだ。これは、もう少し微細な形態でもあって、たとえば「私は○○というすばらしい師について修行している」「私はこんな、伝統ある○○という霊的な道を歩んでいる」ということを誇りに思うまではよいが、それが「それにくらべて・・・はなんじゃい」と他の道をばかにする心理というのがあるが、これも結局はネットカルトと五十歩百歩なのだ。そういう心性は悪の芽なので、厳しくつみ取らねばならない。秘教的伝統とか、そういうものはかえってこういう「霊的エリート意識」を持ちやすいところもあるので、そういうのを克服するのに何年もかかった実例も見ている。自力系の修行は特にこういう落とし穴が多い。その心の動きは、自分のエゴを肥え太らせるものではないのか・・と観察することは欠かせない。

だから、ネットなどで、(いくら自分が正しいと思っても)人をばかにするような調子で書き込みをしているのは、自分はそういう反省のない人間だ、その程度なんですと世間にさらしているようなものだ。見る人はそこを見ている。そのへんは十分に気をつけたいところである。

2009.02.18

中村雅彦『祈りの力』

中村さんの新刊を読んだ。

なかなか読みやすい。まとまっていると思うので、読む価値がある。

で、私はかなり稲荷神のエネルギーを感じた。それは、前著の『祈りの研究』ほどではないが。前のは、これが出るについては稲荷神のご意向がかなり働いたな、と思うに十分な感じだ。中村さんについては、さすがシュラバをくぐってきたというか、そういう迫力はあり、ぎりぎり追いつめられたときは気力の勝負だとか、そういう記述にはリアリティがある。なんというか、これは、学者が拝み屋もやっているというよりは、拝み屋の人が知性を身につけて本を書いた、というほうに近い内容であるように感じる。

稲荷神のエネルギーというのは、『日本の神様カード』を見るとわかる。このカードの絵はポップであるが、ふしぎなほどその神様のエネルギーを表現しているので、この稲荷神のカードを見ると「まさに!」という感じである。基本的に中村さんにはこのエネルギーがある。ということなので、それが合うか合わないかということはある。

また、『祈りの研究』の方に書かれていた稲荷系の真言など、取扱注意と書いてあるが、それは本当なので、くれぐれも安易な気持ちで始めないことをおすすめしたい。

『祈りの力』の方では、スピリチュアルにもいろいろ変なのがあるということで、ネットカルトの話も出ている。そういうのは話だけ聞くといいことを言っているように見えるが、実は批判者に対して呪詛攻撃をしているとか、そういう話が書いてある。話の外面だけではなく、そのエネルギー的な高さということまでわからないとだめだな、と思わせる。

そのために、伝統霊性の勉強をすすめている。私の書いていることは、伝統霊性のエッセンスをまとまった形で提示することなので、そういうふうに話がつながるかもしれない(笑)

これは公式ブログなので、「稲荷神のエネルギー」とか、そういう言い方ばっかりじゃな~ と思わないでもないが、それをいちばん感じたので正直に書くことにする(^^;  それを批判しているわけではないので、くれぐれも誤解ないように。

私とは少し住む世界が違うと思うが、中村さんは今の世にたしかにある役割を与えられている人だ・・というふうに思っているので、それはここで書いておこう。なお、根拠のないネットの書き込みを盲信して、変なことを信じこんだ人は、一つ猛省してもらいたいと思う(意味のわからない人はスルーしてほしい)。

最後は「大きな祈り」で終わるし、霊性の基本はおさえられていると思う。

4492222960 祈りの力―願望実現へのアプローチ
中村 雅彦
東洋経済新報社 2009-02-06

2009.02.17

自然哲学と自然科学をめぐる雑感

この週末までで、論文一本が書けたが、あの平井センセのところで勉強した成果が、かなり活かせた。これと、稲垣先生のオッカムなど、かなり利用させてもらった。

で、さらに、spiritus問題がおもしろくなって、また、平井センセによる大部のフランス語著作を再読しつつある。

これは、近代初期の自然観を扱ったものだが、やたらにおもしろいのだ。

なぜおもしろいのかと考えてみると、こういった、17世紀までの自然科学者というのは、自然哲学と分離していないで、つまり、この形態とか、生命体というものが、なぜあるのかということを、精神的次元・霊的次元まで視野に入れて統一的に説明しようというところがある。

つまり考えてみると、現在の私たちは、自然観を考えるということを、あまりに自然科学に譲り渡してしまっている、ということだ。現在の自然科学は、すべての事象を、いっさい精神的・霊的な次元の存在を考慮しないで説明しなければならない、という「唯物論パラダイムの倫理コード」によって支配されている。なぜそうなったのかということは、村上陽一郎の『近代科学と聖俗革命』ほか、科学史家の本を見ればわかる。

それも、つまりはオッカムの原理なのではないだろうか。オッカムの剃刀というやつだ。できるだけ単純に説明しなければいけないのだ。そして、感覚経験の次元において実証可能でなければならないという「明証性への要求」である。つまり、オッカムによる認識原理の転回は、それほど劇的だったのであり、それが自然研究にも及んだのが、唯物論的パラダイムの起源となっている。だいたい、こういう見通しを描けるだろう。

確かに、自然には、唯物論的なパラダイムで記述できる部分もあるし、そういう見方が有効な領域や問題系もあるから、それがなくなってしまえ、とはけっしていわない(私がそう言っているというのはデマである)。ただ、それが、自然の本質の探究において、人類の知の「最前線」を行っている、という評価が妥当なのかどうか。そう評価する人がいてもいいが、そうは考えないという自由もあるだろう、ということである。もっと、自然哲学のオルターナティブがあってもいいのではなかろうか。もちろんそれが、科学的方法論を伴うものであってもいい。たとえば、「気」の科学的研究をする人が日本や中国、アメリカなどにはかなりいるが(本山博師もその一人)、それは、「気」という非物質的原理を承認しつつ、それと科学的方法論を共存させているものである。前にも書いたように、科学的方法論自体は、別に唯物論的パラダイムを必須の条件としているわけではない。

しかしながら、現実として、唯物論的パラダイムに基づく科学研究は主流を占めている。そこに大量の公金が投入されている事実はある。であるとすれば、勝手にやっていればいいではすまない。そこにはアカウンタビリティというものが生じる。

実際に技術として応用可能な見込みがあり、それが生活を豊かにするというなら問題ない。技術的応用に直接つながらない原理的な研究はどうかといえば、それを完全に無視してしまうと、全体の発展がなくなるからそうもいかないだろう。

そうはいっても、現在、実際には何の役にも立たない分野に投入されている資金のあるものは、それが「人類の知の最前線」であろう、という見込み、評価のもとに予算づけされている可能性が高い。文科省の役人やなんとか審議会の人々がそう考えているからそうなっているわけで、もし彼らが、自然哲学というものの可能性をもう少し広く考えて行くならば、また違った価値観が生まれるし、それを反映した予算配分になっていくだろう。

「科学離れ」というのは、自然科学が「人類の知の最前線」であるという価値観が前よりも薄らいだということである。それは鉄腕アトムの時代とは違うのである。それはどうにもしかたがないし、科学というものの適切な位置づけへ向かっていく過程だから、私は科学離れを押しとどめる必要はないと考えているし、自然科学の予算を現状よりも減らしてもいいと思っている。

いや、もちろん、その中のあるものは確かに「最前線」なのかもしれない。しかし、それが本当にそうであるのかは、現在進行の時点ではほんとうにはわからないことなのである。何十年、何百年後の歴史が判断することなのである。最前線であるという可能性に賭けて投資するかどうかは価値観の問題である。その金をもっと、世界の貧しい地域の援助とかに回せ、というのも価値観の問題である。芸術文化の振興に使ってもいい。そこに何が絶対に正しいというものはないのである。

そういう価値観から、私は、科学離れもけっこう、と言うのだ。

学問の世界をよく知らない人は、この世界が「一枚岩」だと思っているらしい。

たとえば、世界のあらゆる分野ごとに、専門家があり、その道をきわめて、この世界のあらゆることが学問によって研究されている、というイメージを持っているのだろうか。高校までの勉強で終わると、こういうイメージを持ってしまうかもしれない。ひじょうに美しい知的秩序が支配している世界が描かれる。

その昔、新カント派のリッケルトあたりが書いていた学問分類など見ると、そういう人類の知の進歩という理想が見える。

しかしこれは、現実とはまったく異なる夢物語である。

実際の学問の世界は、全体としては、何の統一もない。それぞれ、自分の考えにしたがって「学派」を形成し(一匹狼の人もいるが)、それが相争っている。多くあるパラダイムは、科学哲学者のいう「非共約的」なもので、そんなに簡単に統合したりできるようなものではない。科学者だって、大槻教授のような人もいれば本山師もいるのだ。まったく違う考え方が併存しているのであり、そのどちらが優勢なのか――つまり、研究職のポストおよび予算を獲得するについて強いのかというのは、まったくもって、力関係でしかない。ポリティクスの世界である。はっきり言って、そういうものである。幻想を持ってはいけない。すべての研究者を尊重してその言うことを採用する、なんてことは絶対にありえないのである。その中で本当は何が有用なのか、今の時点で高所から裁定できる人はいないのであり、もしかすると、まったく方向を取り違えた、やればやるほど無駄、あるいはマイナスになるような研究だってその中に混入していないとは断言できないのである。

例をあげれば、かの元教授N氏が詳しく知っているような呪術の世界がある。少し前の人類学や宗教学では、呪術というのは未開な人々の迷信であり、実際にはそういうことはありえないという立場から研究するのがあたりまえだった。近代は昔の迷妄を打破したという啓蒙史観である。それが少し立つと、未開人にもそれなりのロジックがあり、彼らの文化の意味体系を読み解くことに意義があるという研究姿勢に変わった。だからといって呪術は本当にある、と認めるところまではいかない。あくまで、彼らが信じていることを理解してやろうという姿勢である。現在の学問はそこまでというところだ。もう一歩踏み込んで、N氏のようにはっきりと「それは実際にある」と断言してしまうと、もう学問界からすると異端になり、トランスパーソナル心理学くらいしか相手にしてくれるところはない。

だからやはり、これまでの「常識」に安住するのではなく、自分の信じるところを主張していこうとすると、やはり、間違っているものは間違っていると言わなければならないし、そこに変な同情は必要ないのである。学問の名で行われているものに「すべて価値がある」ということはありえないのであり、自分の価値観からだめなものを拒絶することはどうしても必要なのである。ただそれが、感情的になり、だめなことを考えているやつはバカだ、というふうにならなければよいのである(実際は、しばしばそうなる)。

実際には、「非共約的なパラダイム」が併存している。ウェーバーはこれを「神々の闘争」と呼んだ。絶対に相容れないものの争いということである。何を争うのかと言えば、社会における認知度であろうか。それが金とポストにつながるというのもこの世界の現実のありようである。はやらなくなってこの世から消えてしまった学問分野なんて、数限りなくあるし、また新しいものを作ろうという運動もある。そういうダイナミズムを肯定するべきなのであろう。

2009.02.16

テストです

テスト

2009.02.14

アメリカではこんなもん

偶然に見つけたが、ハワイにあるアカマイ大学のページ。ハワイ島のヒロにあるらしい。

ここは完全通信制。まったく現地に行かなくても学位が取れるらしい。大学院中心で、修士、博士コースがある。学費も激安。

で、ふつうのビジネス系学科もあるが、私が注目したのは、代替・相補医療も含めた統合医療のコースがあることと、トランスパーソナル心理学・意識研究というコースもある。授業科目も出ているが、東洋医学はもちろんレイキや「薔薇十字ヒーリング」の科目まであるというのはびっくり。そして当然ながら、東西の Wisdom Tradition についての科目もありますね・・ つまり、私がやっているようなことも、アメリカならばポストがあるっていうことを言いたかったわけで(笑) なんとか、日本でこういう専門性の高いポストを探したいんだが、むずかしいものがある。

というのは、日本でもしこういう大学院のコースを造ろうとしたら、文科省に申請しなければならない。その申請書には、教員の履歴や業績はむろんのこと、授業のシラバスを、第何回目の授業には何をするということまで全部書かなければならない。要するに、文科省の役人の理解を超えるものは絶対に日本ではできないということ。やはり、彼らが強大な権力を持っていることは誰も否定できないのである。官僚というのは結局受験秀才の出身であるわけなので、フロンティアスピリットというものはあまり期待できないのではないか。(一回、学科が設立されてしまえば、その後カリキュラムを変えるのは自由なんだが、最初のハードルが高い)

それで、たとえば本山博師も、日本で作るのはあきらめて、アメリカにそういう大学院を作ったのである。ずっとそこの学長をしている。

CIHS: California Institute for Human Science

ここはさらに本格的な、エネルギー医療と霊性探求の大学院。

例としてその授業の一つ「スピリチュアル教育」の内容を紹介しよう。

1. 経絡体操

2. 霊的トレーニング基本

3. チャクラの目覚めと悟り

4. 幻覚と霊的体験の違い

5. 進化と超意識の各段階

6. 進化と超意識の各段階・上級

7. カルマと再生

8. 超作と愛

9. AMIを用いた、霊とチャクラの存在を実証する科学研究

10. 宗教とは何か

11. 自然との関係に関する五つのパラダイム

12. Seemorg Matrix Basics エネルギーヒーリング

13. プラーニックヒーリング

驚いてはいけない。これはれっきとした、カリフォルニア州政府が認めた大学院の教育内容。まあ、本山師の色彩が強いのは当然だが・・ Seemorgというのは私はよく知らない。プラーニックヒーリングが入っているのは興味深いが、たぶん教えられる人がそこにいるからなんでしょう。プラーニックがあるなら、レイキがあっても何の不思議もない。

もちろんアメリカでも、こういうことを認める人ばかりではない。認めない人の方が多いとは思うが、そうことではなく、教育内容というのは自由にやらせておくのがよいことだと思うのか、官庁が「責任を持って」これを規制するべきなのか、という思想の違いだと言うことができる。アメリカという国はいろいろ悪いところも多いが、フロンティアスピリットというものだけは他国にはないものがある。

あ~うらやまし~~ と、ばかり言っていてもしかたがない。がんばらねば(笑)

しかし、時代の転換の波も早いので、遠からず、日本にもこういうものができる日も来るのじゃないだろうか? できたならば、ぜひとも招聘していただきたいわけで(笑) ここに書いておこう。

ま、CIHSのほか、CIISもあるし、あとはITPとか、大学院レベルでいろいろ選択肢はある。しかし、アメリカに行くのも大変なので、最初に書いたアカマイ大学はねらい目かもな。私ももっと若ければPh.Dに挑戦したかもな~ ・・ということで。

2009.02.13

言葉は波動――ネットとアストラル界

ブログに対する悪意ある攻撃、いわゆる「炎上」に警察の手が入ったという。

これは、やむをえないというか、むしろ遅かったと言ってもいいだろう。

悪いことをすれば捕まるという抑止力がなければ、自分を抑制できにくいのが人間であるのだから、ネット社会も例外であるはずがない。いや、むしろネットは、現実界よりもはるかに抑制がききにくい世界であり、それだけ、抑止力についてまじめに考えねばならないのだ。

ネットというのはだんだんアストラル界に似てきたと思う。つまり、思ったことと、それが実現されることの距離が少なくなっている。物質界的な抵抗というものが少ないのだ。アストラル界では、悪い想念を抱く人は、それがすぐに実現してしまうので、自分で作り出した「地獄」にはまるケースもあると聞く。想念をコントロールできにくい人には、この物質界の重さ、抵抗力は、むしろ恩恵であり、コントロールする訓練になるのだ。

ネットでは平気で悪口雑言を書き散らすことができる。しかしリアルに、本人を目の前にして対面した状況では、そのような言い方をするのはよっぽどだろう。批判したい点があるとしても、言葉の表現はいろいろ考えるだろう。

このブログでは昔、メールを送れるようになっていたことがあるのだが、たまに、「生意気言ってるんじゃねえよ」というような匿名の嫌がらせメールが来ることがあった。しかし、これが電子メールではなくて、リアルな紙にその言葉を書き、それを封筒に入れ、宛名を書き、差出人は書かずに切手を貼って投函する、というところまでしようという人はない。そこまでやるのはよっぽど恨みを持っている人物であろう。そのような物質界的行為にまで及ぶには相当のエネルギーがいる。それをしているうちに「こういうことをやっている自分とは何なのか」という想念も出てくるだろう。しかし、メールだと思いついた瞬間にすぐ実行できてしまう。

ネットは実際にはアストラル界ではない。その向こうには生身の人間がいる。それがどういう反応をするかということに想像が及ばなくなりがちである。物質界的な抵抗がないというのはある意味で恐ろしいことなのである。言いたいことがすぐに言えてしまうのはよいが、その人の持っている魂のレベルももろに表出されてしまうことになる。そういうものを人目にさらしているのだという自覚を持つ必要がある。

批判もけっこうである。ただ、あなたはそれを本人に面と向かって言えますか? 表現には気をつけたい。表現とは、魂の気分が反映するものであり、言葉の持つエネルギーに気をつけるということである。攻撃的波動、人を傷つける波動を発していないかチェックすることである。

想念だけで人を殺すことができれば、現実に起こる殺人事件の数千倍、数万倍(もっとか?)の人が死んでしまうのである。アストラル界とはそういうこわいところである。人の心にはそういう闇もある。

2009.02.12

『忘れられた真理』再読

ひさびさの、論文執筆中。いつもは、読者対象を考えて、わかりやすいように工夫して書くのだが、このように多少難しくなっても書きたいように書くというのもよいものである。

それにしても今回、ヒューストン・スミスを読み直して、参考にした。いや、いまさらだが、いい本であるな・・・と思った(笑) 本当の話。『スピリチュアル哲学入門』を読んだ人が、次にもう少し詳しく・・・と思ったら、まずこの『忘れられた真理』を読むことをすすめるところだ。

4434036742 忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン
Huston Smith 菅原 浩
アルテ 2003-12

というのは、この本で提示されているのはひじょうに明確なプラトン的世界観だからだ。新プラトン的、といったらよいか。つまり、今ここにあるものは、「原型」によってかくあるのだ、ということが明確である。

宇宙にあるあらゆる世界は、その上位にある世界に存在する原型に基づいており、その影が織りなす映像にほかならない。 p.79

つまり、「普遍」がまず存在し、その根拠によって「個別」があるのだ。・・つまり、オッカム以来の近代的世界観の前提全部を、ひっくり返して、伝統哲学に忠実なのである。ここが私の気に入っているところである。

それからこれは、ものすごく大事なポイントなのだが、

私たちは心(マインド)を付随現象だと考える傾向がある。心とは物質の上の飾りのようなもので、霊とはさらにその上の光沢みたいなものだというわけだ。真実はその反対である。物質こそ珍しいものなのだ。物質はサイキックな次元から突き出している。それは、巨大な鍾乳洞の天井から吊り下がった鍾乳石のようなものである。あるいは、地球や、そうした太陽系の惑星のように、広漠とした空間を漂っている物質の小片だ。 p.83

つまり、中間界(いわゆるアストラル界)というが、実はそれは中間ではなく、この宇宙のベーシックな存在領域はアストラル界的なのであって、物質はひじょうに特殊な領域として、その内部に切り開かれている(私のことばでいえば「分開」)のだ。

このことがスミスはわかっているので、いわゆる「低次アストラル界」があり、そういう存在がいるということも、正確にとらえられる。

世の中ではケン・ウィルバーのモデルが有名だが、その最大の難点というのは、物質次元を特殊領域と見ないで、ベーシックな次元と考えてしまうので、アストラル界を、物質次元よりも「上」と考えてしまうのである。つまり、物質領域とアストラル界との位置関係を間違って理解していると、私には思えるのだ。

この「ボタンの掛け違え」の影響は重大で、つまり、そうすると「アストラル的なものが見える霊能者」は、無条件で、見えない人よりも霊的に発達していることになってしまうのである。ウィルバーは非物質的な闇の存在というものがあることを軽視していて、アストラル次元といえば物質界よりも上だと思っているらしいのだが、それは実践的にはこのようなひじょうに大きな問題を生み出すことになる。

ウィルバーが、「自我を健全に発達させてからトランスパーソナルな発達をめざすべきだ」というのはまったく正しいが、それは「すべき」の議論であって、実際には「自我を健全に発達させないままアストラル的な視力を得てしまった人」など世の中にはいくらでもいる。それが低次アストラルの存在の餌食となり世の中に魔的なものをもたらしているのだが、ウィルバーの理論構成ではそういうことがありえなくなってしまう。それは何かのまちがいだということになってしまう。これは実は理論の欠陥なので、アストラル次元の位置づけを間違えている結果なのである。そのため、自我の発達していない子供に霊的なことが見える、ということもうまく説明がつけられないのである。要するに、「すべき」の議論のところが「である」になってしまっているわけだ。

ウィルバーにはさまざまな貢献もあるからけっして全否定をするつもりはない。しかしこの理論的な欠陥がよく知られていないということは実践的には重大な結果を生むので看過できない。

禅の人なので、そういうのは魔境にすぎないからといって軽視しているのではないかと思う。

スミスとウィルバーはよい関係であったらしいが世界モデルは基本的に異なる。スミスには原型的思考、プラトン的階層論が基本にあるが、ウィルバーは原型の作用を軽く見る。なぜならウィルバーは仏教の影響を強く受けているので、すべての実体性を幻影と見る傾向が強く、いわば「仏教的唯名論」がかなり入っている。これは日本の宗教哲学と基本的な文化が同じなので、ある程度知識人に受けがいいのだ。しかしスミスのプラトン的思考はなかなか理解してもらえない。

要するに『忘れられた真理』はよくできているという話である。実際、ここまでコンパクトにまとめるのはそう簡単ではない。また、この本は科学主義の問題点(科学そのものではなく)を詳細に扱っており、私の科学観はほぼこれによっていることも書いておく。

さらに、ここでプラトン的と言っているのは、ヨーロッパ文化(そしてイスラム文化)が伝統的に理解してきたプラトンであり(つまり新プラトン主義的)、現在の研究者が見出している「アテネのプラトン」とは必ずしも同じではないということも蛇足ながら記しておく。

2009.02.08

癒しの瞑想

癒しの瞑想法として、私が特に気に入っている本を紹介する。

これは、チベット仏教をもとにしているが、とにかく本から発するエネルギーがよい。癒しについての本は、モノとしての本自体がいいエネルギーを持っているのが望ましいと思うが、その理想的な例である。

そのエネルギーにひきこまれるので、驚くほど容易に、癒しの瞑想ができる。

通読というより、座右に置いて実践すべき本か。

4885031540 心の治癒力―チベット仏教の叡智
Tulku Thondup
地湧社 2000-07

『いか超』というのは

こちらのこと。多くの人には、言うまでもないことなのだが、知らない人のために・・

シュタイナーの本については、私はすべてが理解可能なわけではなく、特にコア~な「霊視」が入った本は、いまのところ近づかないでいるのだが、少なくともこの『いか超』だけは誰しも熟読すべき本だと思う。高橋巌の翻訳でどうぞ。

4480086641 いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
Rudolf Steiner 高橋 巌
筑摩書房 2001-10

戒律について

つづいて、密教思想の復習に入ったが、あらためて思うのは、なんと言っても「戒律」が基本だなあ、ということ。自分を倫理的に律するということ。これがなくてはね・・

六波羅蜜、十善戒、四摂法、四重禁戒・・

検索すればすぐにわかるので、説明はしないが、やはり、基本ばかりですね。

『いか超』では、根本命題として次のように述べられている。

あなたの求めるどんな認識内容も、あなたの知的財宝を蓄積するためのものなら、それはあなたを進むべき道からそらせる。しかしあなたの求める認識内容が人格を高貴にし世界を進化させるためのものであるなら、それは成熟への途上であなたを一歩前進させる」 ちくま文庫版、p.35

ここでは、霊的書物を「知識の蓄積」として読むことの危険が述べられているから、よくよく気をつけたいところである。

また、この本はあたかも、仏教の戒律は、どういう意味があるのかという解説にもなるような気がする。たとえば、怒りとか悪口を言うとかいうことが、どのように魂を曇らせるか、ということも詳細に書いてある。

確認しておきたいが、霊的な道においてもっとも重要なことは「魂のあり方」である。認識活動もまた魂の行為である。

「尊敬するに値するすべてのものへの畏敬、という基本的な気分」が出発点になければならない(p.31)。 

霊的な目覚めへと導く「魂の気分」――その重要性を思うからこそ、私は、そういった気分をも含めて、霊的思想は叙述されるべきだ、と考えている。それは、現今のアカデミズム的文体では限界がある。というわけで、プラトン的対話編形式にその媒体を求めているのだ。私は自分の考えにしたがって、歩んでいるつもりではある。しかし、自戒を込めて、『いか超』などをときおり読み返すことが必要だろう。

そのような「魂の気分」を破壊するようなアストラル的エネルギーが漂っている書物、サイト、テレビ番組などは、いっさい見ないようにするべきだ(つい見てしまうんですがね・・)。

ここでの結論は、戒律とは、霊的目覚めの道にふさわしい「魂の気分」に常にいるためには、どのようなことに気をつけるべきか――を教えたものだろう、ということである。

2009.02.07

スピ系のいわゆる批評について

前に書いたものだが

美しさの中を歩め: 「批評について」 2006.0714

私の考えがまとまっているので、閑な人はご参照を。

実際、悪いものを悪いというときは、神経を使う。それによって自分の波動が落ちないか、よく観察していないといけない。よく、自分も落ちてしまう。

逆にいえば、そういう、書いている自分自身のエネルギーへの観察なしに、書きたいことを書いて何が悪いみたいな文体のところというのは、もはや「スピ系」と呼ぶことはできない。スピについては、正しいかどうかがすべてではない。いかに、美しく語るか、それが大事なことで、発する言葉の波動に気をつけるのがスピ系のネット活動というものだ。

やはり『いか超』を熟読することは大事である。私も、何度も落ちているので、失敗は繰り返したくないものだ。

2009.02.06

びっくり価格

アマゾンのマケプレで、『魂のロゴス』が12000円というぶったくり価格であるw(゚o゚)w  時々、ウォッチしているが、前に、4500円で2冊売れたのを知っているが、ここまでとは・・ 早く再刊するよう、はたらきかけねばならないですな・・

雑感

忙しさはもう一息。

ところで、私はいろいろ本を読んでるが、「研究者」なのかと言われると、ちょっとわからない。今時、大学に勤務している人がみな研究者というわけではない。私のところは、そう呼べるような人は1割くらいか、もっと少ないかも。実務系、実技系の人が教員になるケースがひじょうに多くなっている。裏を返せば、アカデミックな大学院生の就職はひじょうに厳しくなっているということ。

私は、業績書に何か書かなければならないので、おつきあい程度には研究論文も書くが、メインは「表現者」としての活動にある、と思っている。

なぞらえるようなつもりは毛頭ないが、ニーチェは研究者ではない。ソロヴィヨフだってそうではない。

「研究」というと、どうしても、既存のものを詳しく調べるというイメージがある。自分から何かを創造するというイメージではない。

大学院にいたときの同級生や上級生など見ていると、世の中には「研究能力」においてすさまじい才能を持つ人がいると感じたので、彼らと同じ土俵で勝負しようという気にはならない。そういう細かい調べごとは私には向いていないのである。その代わり私は、いろいろたくさんのことを結びつけて大きな地図を作るのが得意だった。大学院の教員も、私はそういうことに向いていると言った人もある。反面、それはジャーナリズムであってアカデミズムではない、と否定的なことを言う人もいたが、そういう価値観があっても不思議ではないだろう。それならば、あえてそういうアカデミズムを無理にやるつもりもないよ、と思ったが、結局ふりかえってみると、やはりそういう道を進んできたようである。アカデミズムが成り立っている根拠ははたして確固たるものか、などと、フーコーの「知の考古学」で理論武装したりしたが、そういうこだわりも今では必要なくなった――という感じがする。

宗教関係でたくさんの本を書いているひろさちや氏という人がいる。彼は研究者をやめて著述家になった人らしい。たいへん失礼ながら、ひろ氏が書いた本の中で、彼の死後何十年も残るような本は、一冊もないだろう。しかしながら、残していくことがすべてではない。まさに、同時代の「いま」において、人々の霊的本質をかき立てるような言葉を発信するという仕事は、たいへん貴重なものである。彼が大学に残った場合より、はるかに世の役に立っているだろう。表現者としての活動は、今・ここが仕事の場所である。今年、意味がある言葉は、10年後も意味があるとは限らない。研究者と表現者では、求められる才能は違うのである。

いろいろな役割がある。大きな神の計画の中で、自分に与えられたことは何かを自覚するということは、重要なテーマである。

じゃあ、なんでスピリチュアル哲学「研究室」なんだといえば、そこはまあ、「ことばのあや」ですかね・・(笑)

私は、既存の枠組に、自分を無理してあわせようという意味での、「まじめさ」は、あまり、持っていない。そういうことを私に期待してもしかたがないということである。

2009.02.04

霊とは何か

ちょっとブログを書きすぎだ。これでは原稿の方になかなかいかない。というわけで、これからしばらく節制しようと思うが、その前に一つだけ・・

モルトマンはかなりいけますね。彼のものは、前には説教集のようなものを読んだだけで、本格的な組織神学の本は初めてなのだが、ペンテコステ派とか、東方の三位一体神学などすごくいろいろなことに目配りしていて、しかも、「霊の体験」にしっかりフォーカスしているので、なかなかいいと思う。カバラなんかも知っているし、そこで、この前ソフィア論で出てきたような神の自己限定というイデーも出てくる。

ここで「霊」っていう言葉が中心になるんだけれども、スピリチュアルってつまりは霊なのだ。これはキリスト教用語である。『スピリチュアル哲学入門』のところで説明したように、スピリットというのは神のことであり、かつ、神から送られる生命エネルギーのようなもの、なのだ。それを「霊」と訳するのはキリスト教世界では普通のことである。で、そこから霊性とか霊的成長なんていう言葉になる。

霊をスピリチュアルって言い替えたところが一つの戦略だったわけだ。今ではスピリチュアルケアとか、普通に使う(しかしどうしても「スピリチュアリティ」という言葉はなじめない)。私がここで確認したいのは、霊、スピリチュアルというコンセプトを使うということは、宇宙の根源に神的な何かがあるということ、そして、その根源から強烈なエネルギーが来ていて、それが私たちや世界の存在を成立させている、というパラダイムを前提としているということだ。それはセットなのだ。切り離すことができない。

というわけで霊は神から来るが、人間もまたその中に霊を分有しているということだ。そういう西洋的霊性の根幹のところが、霊というコンセプトには入っている。

そういう根本的なコンセプトに似たものを日本の伝統に求めると、それは、仏教で言う「仏性」や「如来蔵」に近いのではなかろうか。

如来蔵は、原始仏教にはなかったコンセプトだが、仏教徒が実際に霊的世界とかかわった歴史において、必然的に見出されてきたものだと思う。密教も根幹には如来蔵思想を持っている。

仏教は本来、根源についての思索をいっさい不可能と考える否定神学の道を取る。しかし、これはこれできちんとおさえつつ、方便として肯定神学の方法も必要だ。つまり、根源となる仏を措定する。これが密教の大日如来だ。これがすべてのエネルギーの根源だと表象すれば、ひじょうにわかりやすい。「スピリチュアル」は本来、キリスト教的な枠組なのだが、日本の伝統からすれば密教のパラダイムは、もっとも無理なくこれと接続しうる。私が密教に注目するのはそのためだし、また、高野山大学がいち早く「スピリチュアルケア学科」を造ったのも、そういう背景があるかもしれない。

それから個人的には、気功から入っているので、霊というコンセプトと気というコンセプトの相関が気になる。おそらく、気というのはエネルギーの幅広い帯域を総称していて、多次元に展開している。その、もっとも上位を霊と呼ぶこともできるだろう。伝統的には、精-気-神という三分法があって、ここでいう「神(しん)」は、キリスト教の霊と同じではないが、ある程度対応可能なものだろう。こういう微細エネルギー論は昔からの私のテーマなので、いよいよ次作において展開しようと思っている。日本人は、気から入って、それが宇宙根源から来ているということから霊の次元を理解していくのが、一つの入りやすい道筋ではないかと思う。

そういえば「霊気」というのがあったが、これも高次元の気(エネルギー)を意味している。

2009.02.03

社会の価値観と「重ね書き」

前に「ノーベル賞などで騒いでいますが」と書いたら、知人の一人がたいへん憤激したことがあった。私がノーベル賞ごときで騒ぐな、と言ったら、それは私が科学の価値を全面否定したことに(その人の頭の中では)なるらしい。「過去生では科学者だったから」なんて言っていたけどね。

ノーベル賞をお受けになった方は立派な人々なんだろう。そういうことではなく、騒いでいるというのは、マスコミの反応である。どれだけ大きく報道されるかは、世間がそれにどれだけの価値を置いているかの反映である。ノーベル賞で大きく報道されるのは、日本では珍しいからである。アメリカでは毎年いっぱいいすぎるので、たいしたニュース価値にはならない。だから、騒ぐのは科学先進国ではないということだ。

芥川賞を誰がもらったかは騒ぐけれども、サントリー学芸賞は誰が受けたか知らないでしょう(そもそもそんな賞があることさえ知らないかもしれないが)。野球の甲子園大会は1回戦から全試合生中継されるなんて異常なことも行われる。同じ高校生のスポーツでもラグビーやバレーなんかはどうよ? まして、全国囲碁高校選手権で誰が勝ったかとか、ニュースになるわけないですよね。つまり世間がそれに対して賦与している価値観というものは、ジャンルによって歴然とした違いがある。当人がそれにかけているエネルギーには何の違いもないはずだが、注目度はあまりにも異なる。

私の価値観では、ノーベル賞を日本人がもらおうと誰がもらおうと何の関係もないわけで、科学はそういうナショナルなものではないのだから、日本人が取ろうとどうでもいいと思っている。大阪府民は必ずPL学園を応援しなければならないものでもないのと同様だ。そういう意味で、騒ぐことは私の価値観からすればおかしいのである。

村上氏も新聞に書いていたが、本来科学というものは、物好きな人が集まってやりたいことをやっているのを、何だかわからないがとりあえずやらせておいてもいいだろう、という原理で行われるのが理想的である。それが本当に「真理」へ向かって進んでいるのか、それとも迷路をさまよっているのか、それは今の時点ではわからないし、もしフォイアーアーベントのような考え方が正しければ、未来になってもけっしてわからないことになる。それでもいい、金は出そう、ということだろうと思う。そのほうが、彼らは真理に向かっているから貴重な存在だ、などと思いこむよりも健全ではなかろうか。フォイアーアーベントなどだって、だから科学をつぶしてしまえとは言っていないだろう。

私は、理論物理などが本当に物質世界の深奥に分け入ることに成功しているのかどうか、よくわからない。だから自分の哲学的ヴィジョンにおいては、いかなる意味でも物理学を参考にする気はないし、科学者集団の考えていることとの整合性を必ず確保する義務がある、とは考えていない。世界に対しては、いろいろな描き方があってもいいのである。現在世の中にあるさまざまな「世界の地図」すべてを整合的に包含するものなどけっして作れない。「科学との整合性は必ず担保すべきである」という価値観の人もあろう。それはそれでよいが、私はその人の価値観に従う義務はない。そう思ったら自分でそれをやればよいだろう。そのようにいろいろあってよいはずである。

つまり、世界はけっして単一の地図では描けないのである。複数の地図が併存し、補うあうしかない。それら複数の地図がすべて整合性をもつべきである、と主張すると、知の生産に大きな抑制をかけてしまうので、そういう無理な要求は受け入れることはできない。

だから科学の描く世界像は、あくまで科学から見るとそうだ、という以上のものではない。問題は、それに対するオルターナティブが弱すぎるのではないかということだ。「宇宙の根源」を視野に入れた神学的知が必要だ、と稲垣先生(や私)が言ったところで、社会はまったくそれを相手にしない価値観を持っている。そういう地図も必要だ、という価値観の転換を促すために、古代ギリシア語を読める研究者の養成をおすすめしているわけである(笑)

私の少年時代、「科学」ということばは、人類の理想郷を開くというようなオーラが漂っていたのだが、今はそれは見る影もない。私はこんな風に書いた。

鉄腕アトムや宇宙少年ソラン(知ってますか?)の時代じゃああるまいし、科学が人類の理想郷を作るのではないかという夢想は消えてしまっているのである(私の少年時代には、たしかにそういう夢はあったのだ。「21世紀」ということばに存在していた輝きを、今の若い人は想像もできまい)。

そういう夢が消えたのは、むしろ正常に戻ったとも言えるので、この「科学離れ」を肯定したいわけである。本来ある以上の価値をそこに賦与する必要はない。その意味で、次第に科学の位置づけは妥当なものになっていくのかもしれない。物質世界もまだまだわからないが、今はそれ以上に、精神の世界というフロンティアが出現しているのだから、そちらに行く人がもっと増えてもらいたいと思う。

最後に、さまざまな知の併存、その「重ね書き」というヴィジョンを示したものとして、次の本をおすすめしておく。大森の本はむずかしいが、これはわかりやすい。

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)
大森 荘蔵
筑摩書房 1994-07

・・て、また追記だけれども。

私の科学論は、大学時代に村上陽一郎氏から直接講義を受けているから、それにかなり影響されているけれども、思想的にはフッサールの書にとどめをさす、と思っている。つまりここでは、科学とは一つの抽象的構築物であることが述べられ、現象学はそれよりもっと基層の、実際にそこに生起している経験の層に着目する、という視点が出される。このラジカルな経験主義が、超越的経験(霊的経験)を視野に入れる根拠となる。そこから、たとえばアンリやマリオンのような、形而上学的経験にフォーカスした現象学的神学?も生まれている。その点で言うと、まえ~にも紹介した、永井晋の『現象学の転回』がやっぱりいいかな(最初の方ね)。構築された知的体制を通して見るのではなく、本当にここに実在しているものは何か、という問いの意味に気づかないと、話がいつまでも合わないので。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)
Edmund Husserl 細谷 恒夫 木田 元
中央公論社 1995-06

4862850049 現象学の転回―「顕現しないもの」に向けて
永井 晋
知泉書館 2007-03

ブルガーコフのソフィア論をめぐる気楽な感想

ロシアの神学者ブルガーコフのソフィア論、二度目の通読。

前に一度読んだはずだが、たぶんその時はあまりわかっていないかったかも(笑) かなりばりばりの神学である。正直言って、ちょっと神学の枠が強すぎるというか、あまりに狭い形式に入ってしまっている思想じゃないかという印象も抱いた。枠組が堅すぎるというか。ちょっと期待しすぎたというか、そのままで普遍神学として使えるものではないようである。

このソフィア論を読んでいて、結局のところ現象世界の究極にある一種の「媒介性」の問題に行き当たる――と感じた。鈴木大拙の「即非の論理」や、新田義之の「媒介性の現象学」などが頭に浮かんだが、つまりは、根底にはつねに媒介性があるということを、ソフィアというコンセプトで表現している、と私には読めたのであるが・・・ 形而上学の根底はつねにこうした「聖なる二律背反」が存在することは、相当昔から気づかれていたはずである。アリストテレス論理学で育っている西洋の思想は、なかなかこういう二律背反を表現するのに苦労しているということもある。下手をすると、神とソフィアとの二元論になってしまう。それは、インドのサーンキヤ哲学に似たシステムになる。要するに、神しか存在しないはずのところに、なぜ、現象世界という神ではないものが出現するのか――という問いに答えるには、どうしても、絶対矛盾的自己同一とか、そういうわけのわからない(笑) コンセプトをどこかで持ってこなければいけないのではないだろうか。

世界はなくてもよかったかもしれないのに、なぜ世界が出現したのか。これは、「なぜ、あるものはあるのか。なぜ、ないのではなく、あるのか」という形而上学の基本定式である(ハイデガーの形而上学入門も、そこから始まる)。私もこういう質問を何度もされたが、私は神ではないんですよ(笑) しかし、人間がこの問いに答える方法は、昔から、あるパターンに限定されているということは言える。それにしても、こういう質問をする人はたいてい男性で、女性に聞かれたことは一度もないなあ。

話をソフィア論に戻すと、そこには明らかに「永遠に女性的なるもの」というテーマがエコーしているのを感じる。これはむしろ文学的感性だろうか。こういう根本的な媒介性は深層心理的には女性イメージで出現するのかもしれない。私が思い出したのはワーグナーの「パルジファル」に登場する謎の女、クンドリーである。とりわけ、ジーバーバーグ監督によるオペラ映画版では、この女が「永遠に女性的なるもの」であり、世界の謎そのものであることが示唆されていた。

ブルガーコフは、下手をすればグノーシス的二元論に転落する危ういところを歩んでいる。たしかに、正統派の僧侶から見ればうさんくさく思われるのはしかたがないかもしれない(笑)

0940262606 Sophia, the Wisdom of God: An Outline of Sophiology (Library of Russian Philosophy)
Sergei Bulgakov
Lindisfarne Pr 1993-11

霊的感覚

というわけで・・ ビザンチンの伝統(中世ラテン世界も、ある程度そうだと思うが)の霊的哲学で重要なのは、そこに霊的感覚が入っているかということである。それは全人的でなければならず(玉城先生の言う「全人格的思惟」である)、けっして知識を表面的に追うものであってはならない。霊的な思想を語るには、霊的感覚についてある程度知っていることが必要だ。そう考えるということ自体が、近代的な学問原理に対してノーを言うことを意味している。霊的感覚というのは、微細なエネルギーの感じわけということでもある。

まあ、それが私の言う意味での「さにわ」である。表面的には同じことを言っていても、そこに入っているエネルギーは異なることを感じ分けることでもある。簡単な例でいえば、スピリチュアルについていかに雄弁に語っているようであっても、ある、エネルギーに問題のある本をよいと言っているようなところは、微細な感じ分けがわからない人なのだなと判断したりする。しかしそういうのも、ある意味では、ある人々にとっては必要ではあるのだろう。――これは公式ブログであるので、奥歯に物が挟まった言い方になってしまうな(笑) 

ビザンチン哲学の遺産

タタキスの『教父とビザンチンの伝統におけるキリスト教哲学』なる本を読んでいるが、これはすばらしい! かなりのカンドーものでした。ほんとに霊性と融合した思想というものがここに実在したのだな、という感慨を与えてくれる。英語も読みやすいし、また、細かく小見出しがつけられているのが大変ありがたい。また親切な訳注もたくさんである。そんな専門的な英文の本などだれも読みはしないのはわかっているが、書かずにはいられない(笑)

タタキスのことは、大森正樹先生が『ビザンチン哲学』の方を参考文献にあげていたので知ったのだけれど、こっちの『ビザンチン哲学』の方は、細かい字で見出しもなくびっしり書いてあるのでかなりハードボイルドですね・・ 

ビザンチンのハイライトはやっぱりシメオンである。『魂のロゴス』にも「シメオン様」として登場してしまった。シメオンが神的な光を経験したこと、それがタボル山での変容したキリストの光であること、その光を追求することが霊的哲学の目的であることが、きわめて明瞭になってくるのである。

ビザンチン哲学の全容が見渡せる。もっと早く読むべきであった~ タタキス師のみならず、訳者のディオン師にも拍手。

多くの偉大な人々の遺産があって私も今あるのだ。

1933275162 Christian Philosophy in the Patristic and Byzantine Tradition (Orthodox Theological Library)
B. N. Tatakis, George Dion Dragas (tr.)
Orthodox Research Institute 2007-08-30

ちょっと引用 :

一般的にいって、神秘主義は、その最良の形においては、外的な知識を否定したりはしない。その知識が根源へと導くことができるということ、テオーリア(霊的観照)や人間の神化へつながるものだということを、否定するだけである。 p.165

ここでいう外的知識には科学も入るわけで、最近私が言ってきたこともこれとまったく同じことにすぎない。理論物理の進展が興味深くても、それは霊的次元の認識とは何の関係もない。私はあくまでそういう立場に立つ。(なお、「科学と霊的認識2」の記事に加筆した)

2009.02.02

香功のすすめ

本格的に気功に入門するには『気功革命』がよいという話は何度か書いたけれども、もっと手軽に気の世界に入るには、「香功」の方がいいかもしれない。(「しゃんごん」と読む)

というのは、意念や呼吸法を使わず、ただ手を振る(中級功では腰も)というシンプルなものでありながら、なかなか気感がはっきりと出てくるものだからだ。その起源は謎めいているが、きわめて効果の高い功法である。気功が初めての人が取り組むには最適のものの一つであろう。

私はもう15年前くらい、NHKの教育テレビで「気功専科」という番組があり、津村喬がやっていたのを見て覚えたのだった。その時のテキストもまだ保存してある。

最近ではこういうテキストが出ていた。

4752101432 からだに優しいかんたん気功 香功
仲里 誠毅
荒地出版社 2007-09

功法の説明はもう少し詳しい方がいいかなあ。動作自体は、実際にやっているのを見ればきわめて簡単なのだが、本を見てやるとなるとちょっとどうか。そのためにDVDも出ているけれど。

中国芳香智悟気功香功初級功[DVD]
ビーエービージャパン 2005-01

これを見るとすごく簡単にできるが、これに投資するかどうかですね・・ もっとも、『気功革命』の実演DVDが9000円もすることを思えば高くはない・・?

というわけで、ちょっと思い立って、しばらく香功を毎日やってみることにした。

研究テーマ

最近、けっこうブログを書いている。ようやく春休みに入ったので・・・この休み中に原稿を書くと同時に、いろいろ研究テーマもあるので、休暇モードはまた山ごもり(温泉?)数日間というところであろうか。

研究のラインとしては、一つは、プラトン主義とキリスト教の融合という線を、ギリシア-ビザンチン-ロシアで追うというもの。これは特に「イデア実在論」のパラダイムを中心に。天使論、ヒエラルキア論との関係で、ディオニュシウスにも着目している。そして「神化(テオーシス)」思想である。

もう一つ、モルトマンの聖霊論を読み始めたが、これは「霊の体験」を中心テーマとしているようだ。そこで、稲垣良典先生の最近出た経験主義哲学の講義など、霊的体験の地平を考える(ひいては近代の経験概念の矮小化という問題)という方向が見える。

もう一つは、空海の密教哲学をどこまで統合できるかという問題である。インド密教やチベット密教まではちょっと手が回らないが、まずは空海である。いうまでもなく密教というのはその中に具体的技法を含んでいる。西洋的にいうと theurgia である。つまりそういう技法というのはなぜ有効なのかという問いである。これを思想的に考えたものは湯浅泰雄先生の『気・修行・身体』くらいしかないようだが、まだまだこの本でも詰められていないと思うので、霊的ヒエラルキアを実在であると断言する立場からはどこまで言えるか、ということが関心事である(もちろん各伝統の説明体系の中では位置づけられているが、普遍神学的関心からはどうなるかということである)。

科学と霊的認識2

先に、ウィルバーの認識論を一つの基礎とすべきであろうと書いたが、これにも問題がいろいろないわけではない。

ウィルバーの論点をまともに受け止めると、それでは自然科学は、物質世界を正確に探求しえている、つまり、物質世界の研究は、まずもって科学にその権威を認めるべきである、ということになる。ウィルバーは基本的に、自然科学の成果をいちおう正しいものとして受け入れ、その理論と霊的哲学を結合しようという方向に行っていることからすると、物質世界については科学の言うことを聞くべきである、と考えているのではないか。したがって、科学の語る進化論的なストーリーに、さらに霊的な次元をつけ加えていくという、テイヤール=ド=シャルダンと同じ発想になるわけである。ウィルバーは、テイヤール思想の現代版と言ってもいいだろう。だからこそ、受けがいい。

しかしもしかすると、こういうパラダイムに感心するのは、科学にある種の引け目を感じている文系の人々であって、当の科学者はそうでもないのかもしれない。科学者は、現存の科学がいかに不十分なものであるかを痛いほど知っているはずだからである。自分はいかに何も知らないか、ということは一流の科学者ほどよくわかっているであろう、と思われる。

今では常識となった科学のパラダイム論が意味するところは、現存の科学理論というのは、けっしてその科学的研究の結果出てきたものではない、「科学外的要因」によって形成されたところが少なくないということである。科学とはイデーの集合体であって、それが「検証データ」によって権威づけられるという制度のことである。

つまり、科学というものを、「実際に科学理論として形成されているもの(そしてその背後にあるパラダイム的なもの)」と、「科学的方法論」に分けて考えることも必要だ。

進化論を見てもわかるように、「実際に科学理論として通用しているもの」は、物質次元のみが実在するというパラダイム的仮定を前提としている。現実に、「世界のことがらを、すべて物質次元のみが実在するという前提に立って説明すべきである」という倫理的コードとも言えるものが科学者共同体の中には存在してきたことは事実である。それが実際に形成される科学理論の性質を規定した。現在、理論物理学のみにおいてはこのコードの制限が外れたことはご承知の通りである。シェルドレイクの理論が受け入れられないのは、生物学ではまだこの唯物論的コードが有効だからであろう。

したがって、将来的には、理論物理学以外の領域においても、その理論の根底をなすパラダイムが、非唯物論的なものに変化する可能性はある、と言ってもいいだろう。

先に、本山博師が気やPSIエネルギーの科学的研究をしていることを述べたが、同様な研究は、「人体科学会」や、「ISLIS」といった学会においてなされており、たとえば佐々木茂美氏や町好雄氏の著書などをあたってみるとよい。ここで、「気」や「PSI」は、明らかに非物質的なものである。しかしその非物質的なものが「ある」という仮定に立つと、「ない」という仮定に立っては説明できないものが説明できる、ということを主張しているわけである(この発想は、超心理学においても同様である)。このように、科学的方法は、必ずしも、唯物論的なパラダイムと独占的に結びついているというわけではない。非唯物論的な科学を構想することは、非ユークリッド幾何学を構想できるのと同じくらい可能なことである(物理学は現にもうそうなっている)。

ただし、科学的方法とはあくまで観察・測定可能な事象に限定される。したがって、非物質的な何かが物質界に及ぼす作用について解明することは可能だが、その非物質的なものの存在を直接経験によって把握するということは科学的方法の範囲外にある。

その直接経験とは、文字通り経験なのであって、哲学ではない。霊的認識と言われるのはそうした経験の地平であって、それを知的にあるいは美的に表現したものではない。このような霊的認識=霊的経験を何らかの形で検証することは、科学的方法ではなく、一種の相互主観的な確認となる――ということが、ウィルバーの認識論で述べられている内容である。そういう意味でカテゴリーエラー論は有効である。しかしながら、ウィルバーには、科学理論のパラダイム的な相対性に関する配慮がやや乏しく、現存の科学に対する評価が高すぎるようにも思われる。

というのも、これは最近の村上陽一郎氏がさかんに言っていることであるが、科学というのはもはや社会的な存在である。そこに大量の公金が投入され、国家政策の一部となっていることも事実である。当の科学者自身は、科学の不完全性を自覚しているかもしれないが、社会一般は科学を「権威」と見て、専門家として裁定を求めるところがある。このような、権威を求める社会の心性を科学者自身も利用して、補助金を獲得している部分もある。このような社会的状況からすれば、今ではまだまだ、科学の相対性について一般に啓蒙すべき段階にあるのではなかろうか。

池田清彦は、「一般市民は、何の根拠も示すことなく、科学の言うところを信じないと公言する権利を有する」という意味のことまで言っているが、そのくらいに言わないとだめだ、というところがあるように思う。

ヒューストン・スミスが『忘れられた真理』で批判するのも、科学至上主義、つまり、現存の科学のパラダイム的前提となっている唯物論という形而上学的仮定を、仮定と理解せず真理だと受け止めてしまうことである。それを科学教(scientism)と呼ぶ。「唯物論は科学によって証明されている」などと考えている人がいたらそれは相当な教養不足といわねばならない。批判すべきは、こういう形而上学的仮定を無根拠に信じこむことである。科学的方法論そのものは、「使いよう」なのであって、それなりに有効であり、否定すべきものではない。

私の過去の記事を読んで、私が「科学など廃れてしまえ」と主張していると誤解している人がいたとしたら、それは相当なる誤読である。私がいうのは配分の問題で、何も科学の予算をゼロにしろと言っているわけではない。

たしかに、何億もする実験装置を買うことなどやめておけ、とも言ったが、それは、村上氏の言うような、科学の社会的な位置づけの問題である。科学に公金が支出されている以上、それだけの価値のあるものだという前提があるはずだが、私の価値観は、文科省の役人のものとは異なる。それだけの話である。実際、自然科学に投下されている資金と、人文系のものと、どれだけケタが違うか、ちょっと調べてみればわかるだろう。

<追記>

私は、科学の方法論としての一定の有効性を否定したことは一度もない。私が「反科学」を主張しているというようなデマを信じている人がいるといけないので、念のため書いておく。

科学的方法論は有用だが、霊的次元を探求するための方法ではない。そのあたりまえのことを確認すればよい。

また、理論物理学のような、ほとんど実際の役に立たないことに大量の資金を与えることは、あくまで社会の価値観によることであることも確認しておけば、それでよい。私も、こういうものが世の中に存在することに何らかの意義はあるだろうとは思うが、それが今享受している地位(その栄誉や資金量)にふさわしいだけのものなのかは、正直、何百年かたってみて歴史が判断することかもしれない、と思う。今の私には判断できない(ちなみに私は、世界が2012年で終わるとは考えていない)。

稲垣先生は、『神学的言語の研究』の中で、「なぜ神学は、今の知的世界に場所を持つことができないのか」という問いを発しているが、それも要するに社会の価値観の問題である。私は、そうした価値観が少しでも変わってほしいと思っているのである。以前の発言はいささかレトリックとして過激な表現をとったが、真意はそういうことである。

2009.02.01

そろそろ転機か

今の職場も長くなった。そろそろ、自分のやろうとしていることにより適した場所へ移動したいと考えるようになっている。スピリチュアル哲学――というのは人を引くための名称で、普遍神学というか、現代的な宗教哲学、霊性思想の創造というテーマに、完全に専心できるような環境を目指してもよいのかな、と思われてきた。直観的には、その流れは来ているようにも思うが、まだ具体化していないので、ここに書いておいて、それを世に知らせておこう。何かありましたら、ご連絡を。

« January 2009 | Main | March 2009 »

無料ブログはココログ