科学と宗教の関係
佐々木茂美氏に代表される「気の科学」という分野は、現在、人体科学会や、国際生命情報科学会といった学会組織において研究がされている。それは正規の科学的方法にのっとって行われている。
私が前にも書いたように、科学的方法論というのは本来、世界観に関してはニュートラルなものである。科学は唯物論というパラダイムに基づかなければならない、というのは信念のレベルにあることであり、それ自体は科学的に検証することのできない命題である。
ただ、科学的方法論というのは観察・測定に依拠するから、その方法によって明らかにできることには限界がある、ということである。
佐々木茂美氏も「気の科学的研究」と「気の体験」の二面から話を進めている。つまり、「気」そのものは体験のレベルにあることであり、これは研究するとすれば現象学の方法が適切なものである。それに対して科学的研究は、体験の現象学から抽出された「気」という概念を前提とすれば、さまざまな観測データが説明可能となることを示す。つまり「気」を仮説として定立すること自体は、科学的方法論ではなく、現象学的方法論に由来する。なお、「気」の現象学については、現象学者の山口一郎氏が興味を示しているようだ。この前の人体科学会の大会でもシンポジウムがあったらしい。
・・おっと、いかんなあ、文章が難しくなりすぎてしまうなあ(笑)
難しいついでに書いておくと、ケン・ウィルバーは、科学と宗教との関係について次の5つの立場を分類している。
1. 科学は宗教を否定する。(いわゆる科学教、科学至上主義)
2. 宗教は科学を否定する。(宗教的根本主義)
3. 科学と宗教とは、異なる存在領域においてそれぞれ有効であり、棲み分けをしている。互いにその存在領域の枠内においてはいずれも有効である。
4. 宗教がこれまで主張していたテーゼ(宇宙根源や霊的な次元など)は、科学の進歩によってある程度証明可能となってきている。
5. 科学は何ら真理性を担保されたものではなく、一つの解釈枠組にすぎない。その、物質世界を探求することの妥当性も不確実である。
ウィルバーは3の立場を取る。4は、最近ではラズロの本に見られるような、ニューサイエンス系によくある論調である。5は、ポストモダニズム思想の影響下にあるが、科学哲学の中でも急進的な「非共約性」の立場に立つパラダイム論などはここに入る(池田清彦などもこれ)。
3の立場は、物質領域を探求する上においての科学の有効性に絶対の自信を持っている。同時に、霊的領域を探求する上において、霊的伝統によって保持されている技術(修行法)の妥当性に絶対の自信を持っていることでもある。それぞれにおいて妥当だから、棲み分けろというのである。これに対し5の立場は、すべて人間が構築した知的秩序の「不確実さ」を強く意識した思想である。
私自身はといえば、3と5の中間くらいである。私は、科学とは「人間の生み出した世界の解釈枠組の一つに過ぎず、不確実性を内包しているが、物質領域の秩序を解明にするにおいては、現在の地球人の文化という限界内において、一定の有効性は持つもの」と見る。ウィルバーは、地球人の知的・霊的能力に絶対の自信を持ちすぎており、ポストモダンの提起した「不確実さ」の意識をもっと持つべきだと私は感じる。これまで人類が生み出してすべての宗教伝統も、あくまで「地球人型ゲシュタルト」に適合させた「方便」に過ぎない。すべては高次元から見れば嘘であり、オモチャである。ウィルバーには「地球人中心主義」があると思う。それがよいか悪いか、どちらが正しいという問題ではなく、基本的な感性として違和感がある。
しかし、少しずつながら前進している「気」やスピリチュアルヒーリングについての科学的研究などを見ていると、この五つ以外の選択肢もありそうに思える。つまり、体験的地平からの定立とともに、霊的次元と物質次元との相関について、科学的方法で解明可能な部分については研究していこうという「非唯物論的科学」の可能性はあると思う。上の3の立場だと、それぞれはまったく別であるとされるが、ウィルバーのパラダイムにおいては、いわゆるサイキック現象(非物質次元と物質次元の相関現象)の実在ということが想定されていないように思われる。そのあたりが、超心理学を経験している中村雅彦さんなどもついているところである。
そもそも現在の唯物論的科学とは、自然というものを「物質である」という視点から研究するものであるが、自然をどう見ていくのかについて、その立場のみが正しいわけではないのはもちろんだろう。物質は非物質と相関しているのではないか、というのは過去の自然哲学には多くあった思想だ。そういう相関的パラダイムに基づいた科学研究が隆盛になればまた人類文化も変わっていくだろう。たとえば波動医学的なものをエビデンスベースで(つまり統計的にということ)研究するようなことはそういう意義があるだろう。
なお、うえの4の立場において「科学と宗教の融合」を期待する向きがあるかもしれないが、これは認識論的なカテゴリーエラーがあり、私には認められない立場である。
一方で、「唯物論的に世界を理解すること(物質次元のみが存在し、非物質次元と物質次元の相関はありえないとすること)の妥当性は、科学によって『証明』されており、そのように考えることが『合理的』である」というような考え方は、まだ一般の人々のレベルでは強いのだろうか? これについては、すでに世代間ギャップがあるかもしれない。50代以上で高等教育を受けた人はそのようなパラダイムの影響を受けていることが多いのである。例のアマゾン中傷レビューアーのように、非唯物論的科学=疑似科学、との単純な公式がインプットされている人がかなり存在する。
現実には、まだ少数派であるが、佐々木氏のような「非唯物論的科学」も存在するのである。したがって、3の「棲み分け理論」ではなく、「科学的方法は、世界観的にはニュートラルであり、物質次元と非物質次元との相関を、ある程度明らかにできる可能性がある」とのとらえ方が、先の1~5以外に可能であるように思われる。つまり、それは、存在の非物質次元と物質次元を包括した広義の「自然哲学」によって基礎づけられることができる。3の立場では、いつまでたっても相関が明らかになっていかない。