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自然哲学と自然科学をめぐる雑感

この週末までで、論文一本が書けたが、あの平井センセのところで勉強した成果が、かなり活かせた。これと、稲垣先生のオッカムなど、かなり利用させてもらった。

で、さらに、spiritus問題がおもしろくなって、また、平井センセによる大部のフランス語著作を再読しつつある。

これは、近代初期の自然観を扱ったものだが、やたらにおもしろいのだ。

なぜおもしろいのかと考えてみると、こういった、17世紀までの自然科学者というのは、自然哲学と分離していないで、つまり、この形態とか、生命体というものが、なぜあるのかということを、精神的次元・霊的次元まで視野に入れて統一的に説明しようというところがある。

つまり考えてみると、現在の私たちは、自然観を考えるということを、あまりに自然科学に譲り渡してしまっている、ということだ。現在の自然科学は、すべての事象を、いっさい精神的・霊的な次元の存在を考慮しないで説明しなければならない、という「唯物論パラダイムの倫理コード」によって支配されている。なぜそうなったのかということは、村上陽一郎の『近代科学と聖俗革命』ほか、科学史家の本を見ればわかる。

それも、つまりはオッカムの原理なのではないだろうか。オッカムの剃刀というやつだ。できるだけ単純に説明しなければいけないのだ。そして、感覚経験の次元において実証可能でなければならないという「明証性への要求」である。つまり、オッカムによる認識原理の転回は、それほど劇的だったのであり、それが自然研究にも及んだのが、唯物論的パラダイムの起源となっている。だいたい、こういう見通しを描けるだろう。

確かに、自然には、唯物論的なパラダイムで記述できる部分もあるし、そういう見方が有効な領域や問題系もあるから、それがなくなってしまえ、とはけっしていわない(私がそう言っているというのはデマである)。ただ、それが、自然の本質の探究において、人類の知の「最前線」を行っている、という評価が妥当なのかどうか。そう評価する人がいてもいいが、そうは考えないという自由もあるだろう、ということである。もっと、自然哲学のオルターナティブがあってもいいのではなかろうか。もちろんそれが、科学的方法論を伴うものであってもいい。たとえば、「気」の科学的研究をする人が日本や中国、アメリカなどにはかなりいるが(本山博師もその一人)、それは、「気」という非物質的原理を承認しつつ、それと科学的方法論を共存させているものである。前にも書いたように、科学的方法論自体は、別に唯物論的パラダイムを必須の条件としているわけではない。

しかしながら、現実として、唯物論的パラダイムに基づく科学研究は主流を占めている。そこに大量の公金が投入されている事実はある。であるとすれば、勝手にやっていればいいではすまない。そこにはアカウンタビリティというものが生じる。

実際に技術として応用可能な見込みがあり、それが生活を豊かにするというなら問題ない。技術的応用に直接つながらない原理的な研究はどうかといえば、それを完全に無視してしまうと、全体の発展がなくなるからそうもいかないだろう。

そうはいっても、現在、実際には何の役にも立たない分野に投入されている資金のあるものは、それが「人類の知の最前線」であろう、という見込み、評価のもとに予算づけされている可能性が高い。文科省の役人やなんとか審議会の人々がそう考えているからそうなっているわけで、もし彼らが、自然哲学というものの可能性をもう少し広く考えて行くならば、また違った価値観が生まれるし、それを反映した予算配分になっていくだろう。

「科学離れ」というのは、自然科学が「人類の知の最前線」であるという価値観が前よりも薄らいだということである。それは鉄腕アトムの時代とは違うのである。それはどうにもしかたがないし、科学というものの適切な位置づけへ向かっていく過程だから、私は科学離れを押しとどめる必要はないと考えているし、自然科学の予算を現状よりも減らしてもいいと思っている。

いや、もちろん、その中のあるものは確かに「最前線」なのかもしれない。しかし、それが本当にそうであるのかは、現在進行の時点ではほんとうにはわからないことなのである。何十年、何百年後の歴史が判断することなのである。最前線であるという可能性に賭けて投資するかどうかは価値観の問題である。その金をもっと、世界の貧しい地域の援助とかに回せ、というのも価値観の問題である。芸術文化の振興に使ってもいい。そこに何が絶対に正しいというものはないのである。

そういう価値観から、私は、科学離れもけっこう、と言うのだ。

学問の世界をよく知らない人は、この世界が「一枚岩」だと思っているらしい。

たとえば、世界のあらゆる分野ごとに、専門家があり、その道をきわめて、この世界のあらゆることが学問によって研究されている、というイメージを持っているのだろうか。高校までの勉強で終わると、こういうイメージを持ってしまうかもしれない。ひじょうに美しい知的秩序が支配している世界が描かれる。

その昔、新カント派のリッケルトあたりが書いていた学問分類など見ると、そういう人類の知の進歩という理想が見える。

しかしこれは、現実とはまったく異なる夢物語である。

実際の学問の世界は、全体としては、何の統一もない。それぞれ、自分の考えにしたがって「学派」を形成し(一匹狼の人もいるが)、それが相争っている。多くあるパラダイムは、科学哲学者のいう「非共約的」なもので、そんなに簡単に統合したりできるようなものではない。科学者だって、大槻教授のような人もいれば本山師もいるのだ。まったく違う考え方が併存しているのであり、そのどちらが優勢なのか――つまり、研究職のポストおよび予算を獲得するについて強いのかというのは、まったくもって、力関係でしかない。ポリティクスの世界である。はっきり言って、そういうものである。幻想を持ってはいけない。すべての研究者を尊重してその言うことを採用する、なんてことは絶対にありえないのである。その中で本当は何が有用なのか、今の時点で高所から裁定できる人はいないのであり、もしかすると、まったく方向を取り違えた、やればやるほど無駄、あるいはマイナスになるような研究だってその中に混入していないとは断言できないのである。

例をあげれば、かの元教授N氏が詳しく知っているような呪術の世界がある。少し前の人類学や宗教学では、呪術というのは未開な人々の迷信であり、実際にはそういうことはありえないという立場から研究するのがあたりまえだった。近代は昔の迷妄を打破したという啓蒙史観である。それが少し立つと、未開人にもそれなりのロジックがあり、彼らの文化の意味体系を読み解くことに意義があるという研究姿勢に変わった。だからといって呪術は本当にある、と認めるところまではいかない。あくまで、彼らが信じていることを理解してやろうという姿勢である。現在の学問はそこまでというところだ。もう一歩踏み込んで、N氏のようにはっきりと「それは実際にある」と断言してしまうと、もう学問界からすると異端になり、トランスパーソナル心理学くらいしか相手にしてくれるところはない。

だからやはり、これまでの「常識」に安住するのではなく、自分の信じるところを主張していこうとすると、やはり、間違っているものは間違っていると言わなければならないし、そこに変な同情は必要ないのである。学問の名で行われているものに「すべて価値がある」ということはありえないのであり、自分の価値観からだめなものを拒絶することはどうしても必要なのである。ただそれが、感情的になり、だめなことを考えているやつはバカだ、というふうにならなければよいのである(実際は、しばしばそうなる)。

実際には、「非共約的なパラダイム」が併存している。ウェーバーはこれを「神々の闘争」と呼んだ。絶対に相容れないものの争いということである。何を争うのかと言えば、社会における認知度であろうか。それが金とポストにつながるというのもこの世界の現実のありようである。はやらなくなってこの世から消えてしまった学問分野なんて、数限りなくあるし、また新しいものを作ろうという運動もある。そういうダイナミズムを肯定するべきなのであろう。

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