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社会の価値観と「重ね書き」

前に「ノーベル賞などで騒いでいますが」と書いたら、知人の一人がたいへん憤激したことがあった。私がノーベル賞ごときで騒ぐな、と言ったら、それは私が科学の価値を全面否定したことに(その人の頭の中では)なるらしい。「過去生では科学者だったから」なんて言っていたけどね。

ノーベル賞をお受けになった方は立派な人々なんだろう。そういうことではなく、騒いでいるというのは、マスコミの反応である。どれだけ大きく報道されるかは、世間がそれにどれだけの価値を置いているかの反映である。ノーベル賞で大きく報道されるのは、日本では珍しいからである。アメリカでは毎年いっぱいいすぎるので、たいしたニュース価値にはならない。だから、騒ぐのは科学先進国ではないということだ。

芥川賞を誰がもらったかは騒ぐけれども、サントリー学芸賞は誰が受けたか知らないでしょう(そもそもそんな賞があることさえ知らないかもしれないが)。野球の甲子園大会は1回戦から全試合生中継されるなんて異常なことも行われる。同じ高校生のスポーツでもラグビーやバレーなんかはどうよ? まして、全国囲碁高校選手権で誰が勝ったかとか、ニュースになるわけないですよね。つまり世間がそれに対して賦与している価値観というものは、ジャンルによって歴然とした違いがある。当人がそれにかけているエネルギーには何の違いもないはずだが、注目度はあまりにも異なる。

私の価値観では、ノーベル賞を日本人がもらおうと誰がもらおうと何の関係もないわけで、科学はそういうナショナルなものではないのだから、日本人が取ろうとどうでもいいと思っている。大阪府民は必ずPL学園を応援しなければならないものでもないのと同様だ。そういう意味で、騒ぐことは私の価値観からすればおかしいのである。

村上氏も新聞に書いていたが、本来科学というものは、物好きな人が集まってやりたいことをやっているのを、何だかわからないがとりあえずやらせておいてもいいだろう、という原理で行われるのが理想的である。それが本当に「真理」へ向かって進んでいるのか、それとも迷路をさまよっているのか、それは今の時点ではわからないし、もしフォイアーアーベントのような考え方が正しければ、未来になってもけっしてわからないことになる。それでもいい、金は出そう、ということだろうと思う。そのほうが、彼らは真理に向かっているから貴重な存在だ、などと思いこむよりも健全ではなかろうか。フォイアーアーベントなどだって、だから科学をつぶしてしまえとは言っていないだろう。

私は、理論物理などが本当に物質世界の深奥に分け入ることに成功しているのかどうか、よくわからない。だから自分の哲学的ヴィジョンにおいては、いかなる意味でも物理学を参考にする気はないし、科学者集団の考えていることとの整合性を必ず確保する義務がある、とは考えていない。世界に対しては、いろいろな描き方があってもいいのである。現在世の中にあるさまざまな「世界の地図」すべてを整合的に包含するものなどけっして作れない。「科学との整合性は必ず担保すべきである」という価値観の人もあろう。それはそれでよいが、私はその人の価値観に従う義務はない。そう思ったら自分でそれをやればよいだろう。そのようにいろいろあってよいはずである。

つまり、世界はけっして単一の地図では描けないのである。複数の地図が併存し、補うあうしかない。それら複数の地図がすべて整合性をもつべきである、と主張すると、知の生産に大きな抑制をかけてしまうので、そういう無理な要求は受け入れることはできない。

だから科学の描く世界像は、あくまで科学から見るとそうだ、という以上のものではない。問題は、それに対するオルターナティブが弱すぎるのではないかということだ。「宇宙の根源」を視野に入れた神学的知が必要だ、と稲垣先生(や私)が言ったところで、社会はまったくそれを相手にしない価値観を持っている。そういう地図も必要だ、という価値観の転換を促すために、古代ギリシア語を読める研究者の養成をおすすめしているわけである(笑)

私の少年時代、「科学」ということばは、人類の理想郷を開くというようなオーラが漂っていたのだが、今はそれは見る影もない。私はこんな風に書いた。

鉄腕アトムや宇宙少年ソラン(知ってますか?)の時代じゃああるまいし、科学が人類の理想郷を作るのではないかという夢想は消えてしまっているのである(私の少年時代には、たしかにそういう夢はあったのだ。「21世紀」ということばに存在していた輝きを、今の若い人は想像もできまい)。

そういう夢が消えたのは、むしろ正常に戻ったとも言えるので、この「科学離れ」を肯定したいわけである。本来ある以上の価値をそこに賦与する必要はない。その意味で、次第に科学の位置づけは妥当なものになっていくのかもしれない。物質世界もまだまだわからないが、今はそれ以上に、精神の世界というフロンティアが出現しているのだから、そちらに行く人がもっと増えてもらいたいと思う。

最後に、さまざまな知の併存、その「重ね書き」というヴィジョンを示したものとして、次の本をおすすめしておく。大森の本はむずかしいが、これはわかりやすい。

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)
大森 荘蔵
筑摩書房 1994-07

・・て、また追記だけれども。

私の科学論は、大学時代に村上陽一郎氏から直接講義を受けているから、それにかなり影響されているけれども、思想的にはフッサールの書にとどめをさす、と思っている。つまりここでは、科学とは一つの抽象的構築物であることが述べられ、現象学はそれよりもっと基層の、実際にそこに生起している経験の層に着目する、という視点が出される。このラジカルな経験主義が、超越的経験(霊的経験)を視野に入れる根拠となる。そこから、たとえばアンリやマリオンのような、形而上学的経験にフォーカスした現象学的神学?も生まれている。その点で言うと、まえ~にも紹介した、永井晋の『現象学の転回』がやっぱりいいかな(最初の方ね)。構築された知的体制を通して見るのではなく、本当にここに実在しているものは何か、という問いの意味に気づかないと、話がいつまでも合わないので。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)
Edmund Husserl 細谷 恒夫 木田 元
中央公論社 1995-06

4862850049 現象学の転回―「顕現しないもの」に向けて
永井 晋
知泉書館 2007-03

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