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『忘れられた真理』再読

ひさびさの、論文執筆中。いつもは、読者対象を考えて、わかりやすいように工夫して書くのだが、このように多少難しくなっても書きたいように書くというのもよいものである。

それにしても今回、ヒューストン・スミスを読み直して、参考にした。いや、いまさらだが、いい本であるな・・・と思った(笑) 本当の話。『スピリチュアル哲学入門』を読んだ人が、次にもう少し詳しく・・・と思ったら、まずこの『忘れられた真理』を読むことをすすめるところだ。

4434036742 忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン
Huston Smith 菅原 浩
アルテ 2003-12

というのは、この本で提示されているのはひじょうに明確なプラトン的世界観だからだ。新プラトン的、といったらよいか。つまり、今ここにあるものは、「原型」によってかくあるのだ、ということが明確である。

宇宙にあるあらゆる世界は、その上位にある世界に存在する原型に基づいており、その影が織りなす映像にほかならない。 p.79

つまり、「普遍」がまず存在し、その根拠によって「個別」があるのだ。・・つまり、オッカム以来の近代的世界観の前提全部を、ひっくり返して、伝統哲学に忠実なのである。ここが私の気に入っているところである。

それからこれは、ものすごく大事なポイントなのだが、

私たちは心(マインド)を付随現象だと考える傾向がある。心とは物質の上の飾りのようなもので、霊とはさらにその上の光沢みたいなものだというわけだ。真実はその反対である。物質こそ珍しいものなのだ。物質はサイキックな次元から突き出している。それは、巨大な鍾乳洞の天井から吊り下がった鍾乳石のようなものである。あるいは、地球や、そうした太陽系の惑星のように、広漠とした空間を漂っている物質の小片だ。 p.83

つまり、中間界(いわゆるアストラル界)というが、実はそれは中間ではなく、この宇宙のベーシックな存在領域はアストラル界的なのであって、物質はひじょうに特殊な領域として、その内部に切り開かれている(私のことばでいえば「分開」)のだ。

このことがスミスはわかっているので、いわゆる「低次アストラル界」があり、そういう存在がいるということも、正確にとらえられる。

世の中ではケン・ウィルバーのモデルが有名だが、その最大の難点というのは、物質次元を特殊領域と見ないで、ベーシックな次元と考えてしまうので、アストラル界を、物質次元よりも「上」と考えてしまうのである。つまり、物質領域とアストラル界との位置関係を間違って理解していると、私には思えるのだ。

この「ボタンの掛け違え」の影響は重大で、つまり、そうすると「アストラル的なものが見える霊能者」は、無条件で、見えない人よりも霊的に発達していることになってしまうのである。ウィルバーは非物質的な闇の存在というものがあることを軽視していて、アストラル次元といえば物質界よりも上だと思っているらしいのだが、それは実践的にはこのようなひじょうに大きな問題を生み出すことになる。

ウィルバーが、「自我を健全に発達させてからトランスパーソナルな発達をめざすべきだ」というのはまったく正しいが、それは「すべき」の議論であって、実際には「自我を健全に発達させないままアストラル的な視力を得てしまった人」など世の中にはいくらでもいる。それが低次アストラルの存在の餌食となり世の中に魔的なものをもたらしているのだが、ウィルバーの理論構成ではそういうことがありえなくなってしまう。それは何かのまちがいだということになってしまう。これは実は理論の欠陥なので、アストラル次元の位置づけを間違えている結果なのである。そのため、自我の発達していない子供に霊的なことが見える、ということもうまく説明がつけられないのである。要するに、「すべき」の議論のところが「である」になってしまっているわけだ。

ウィルバーにはさまざまな貢献もあるからけっして全否定をするつもりはない。しかしこの理論的な欠陥がよく知られていないということは実践的には重大な結果を生むので看過できない。

禅の人なので、そういうのは魔境にすぎないからといって軽視しているのではないかと思う。

スミスとウィルバーはよい関係であったらしいが世界モデルは基本的に異なる。スミスには原型的思考、プラトン的階層論が基本にあるが、ウィルバーは原型の作用を軽く見る。なぜならウィルバーは仏教の影響を強く受けているので、すべての実体性を幻影と見る傾向が強く、いわば「仏教的唯名論」がかなり入っている。これは日本の宗教哲学と基本的な文化が同じなので、ある程度知識人に受けがいいのだ。しかしスミスのプラトン的思考はなかなか理解してもらえない。

要するに『忘れられた真理』はよくできているという話である。実際、ここまでコンパクトにまとめるのはそう簡単ではない。また、この本は科学主義の問題点(科学そのものではなく)を詳細に扱っており、私の科学観はほぼこれによっていることも書いておく。

さらに、ここでプラトン的と言っているのは、ヨーロッパ文化(そしてイスラム文化)が伝統的に理解してきたプラトンであり(つまり新プラトン主義的)、現在の研究者が見出している「アテネのプラトン」とは必ずしも同じではないということも蛇足ながら記しておく。

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