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霊とは何か

ちょっとブログを書きすぎだ。これでは原稿の方になかなかいかない。というわけで、これからしばらく節制しようと思うが、その前に一つだけ・・

モルトマンはかなりいけますね。彼のものは、前には説教集のようなものを読んだだけで、本格的な組織神学の本は初めてなのだが、ペンテコステ派とか、東方の三位一体神学などすごくいろいろなことに目配りしていて、しかも、「霊の体験」にしっかりフォーカスしているので、なかなかいいと思う。カバラなんかも知っているし、そこで、この前ソフィア論で出てきたような神の自己限定というイデーも出てくる。

ここで「霊」っていう言葉が中心になるんだけれども、スピリチュアルってつまりは霊なのだ。これはキリスト教用語である。『スピリチュアル哲学入門』のところで説明したように、スピリットというのは神のことであり、かつ、神から送られる生命エネルギーのようなもの、なのだ。それを「霊」と訳するのはキリスト教世界では普通のことである。で、そこから霊性とか霊的成長なんていう言葉になる。

霊をスピリチュアルって言い替えたところが一つの戦略だったわけだ。今ではスピリチュアルケアとか、普通に使う(しかしどうしても「スピリチュアリティ」という言葉はなじめない)。私がここで確認したいのは、霊、スピリチュアルというコンセプトを使うということは、宇宙の根源に神的な何かがあるということ、そして、その根源から強烈なエネルギーが来ていて、それが私たちや世界の存在を成立させている、というパラダイムを前提としているということだ。それはセットなのだ。切り離すことができない。

というわけで霊は神から来るが、人間もまたその中に霊を分有しているということだ。そういう西洋的霊性の根幹のところが、霊というコンセプトには入っている。

そういう根本的なコンセプトに似たものを日本の伝統に求めると、それは、仏教で言う「仏性」や「如来蔵」に近いのではなかろうか。

如来蔵は、原始仏教にはなかったコンセプトだが、仏教徒が実際に霊的世界とかかわった歴史において、必然的に見出されてきたものだと思う。密教も根幹には如来蔵思想を持っている。

仏教は本来、根源についての思索をいっさい不可能と考える否定神学の道を取る。しかし、これはこれできちんとおさえつつ、方便として肯定神学の方法も必要だ。つまり、根源となる仏を措定する。これが密教の大日如来だ。これがすべてのエネルギーの根源だと表象すれば、ひじょうにわかりやすい。「スピリチュアル」は本来、キリスト教的な枠組なのだが、日本の伝統からすれば密教のパラダイムは、もっとも無理なくこれと接続しうる。私が密教に注目するのはそのためだし、また、高野山大学がいち早く「スピリチュアルケア学科」を造ったのも、そういう背景があるかもしれない。

それから個人的には、気功から入っているので、霊というコンセプトと気というコンセプトの相関が気になる。おそらく、気というのはエネルギーの幅広い帯域を総称していて、多次元に展開している。その、もっとも上位を霊と呼ぶこともできるだろう。伝統的には、精-気-神という三分法があって、ここでいう「神(しん)」は、キリスト教の霊と同じではないが、ある程度対応可能なものだろう。こういう微細エネルギー論は昔からの私のテーマなので、いよいよ次作において展開しようと思っている。日本人は、気から入って、それが宇宙根源から来ているということから霊の次元を理解していくのが、一つの入りやすい道筋ではないかと思う。

そういえば「霊気」というのがあったが、これも高次元の気(エネルギー)を意味している。

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