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科学と霊的認識2

先に、ウィルバーの認識論を一つの基礎とすべきであろうと書いたが、これにも問題がいろいろないわけではない。

ウィルバーの論点をまともに受け止めると、それでは自然科学は、物質世界を正確に探求しえている、つまり、物質世界の研究は、まずもって科学にその権威を認めるべきである、ということになる。ウィルバーは基本的に、自然科学の成果をいちおう正しいものとして受け入れ、その理論と霊的哲学を結合しようという方向に行っていることからすると、物質世界については科学の言うことを聞くべきである、と考えているのではないか。したがって、科学の語る進化論的なストーリーに、さらに霊的な次元をつけ加えていくという、テイヤール=ド=シャルダンと同じ発想になるわけである。ウィルバーは、テイヤール思想の現代版と言ってもいいだろう。だからこそ、受けがいい。

しかしもしかすると、こういうパラダイムに感心するのは、科学にある種の引け目を感じている文系の人々であって、当の科学者はそうでもないのかもしれない。科学者は、現存の科学がいかに不十分なものであるかを痛いほど知っているはずだからである。自分はいかに何も知らないか、ということは一流の科学者ほどよくわかっているであろう、と思われる。

今では常識となった科学のパラダイム論が意味するところは、現存の科学理論というのは、けっしてその科学的研究の結果出てきたものではない、「科学外的要因」によって形成されたところが少なくないということである。科学とはイデーの集合体であって、それが「検証データ」によって権威づけられるという制度のことである。

つまり、科学というものを、「実際に科学理論として形成されているもの(そしてその背後にあるパラダイム的なもの)」と、「科学的方法論」に分けて考えることも必要だ。

進化論を見てもわかるように、「実際に科学理論として通用しているもの」は、物質次元のみが実在するというパラダイム的仮定を前提としている。現実に、「世界のことがらを、すべて物質次元のみが実在するという前提に立って説明すべきである」という倫理的コードとも言えるものが科学者共同体の中には存在してきたことは事実である。それが実際に形成される科学理論の性質を規定した。現在、理論物理学のみにおいてはこのコードの制限が外れたことはご承知の通りである。シェルドレイクの理論が受け入れられないのは、生物学ではまだこの唯物論的コードが有効だからであろう。

したがって、将来的には、理論物理学以外の領域においても、その理論の根底をなすパラダイムが、非唯物論的なものに変化する可能性はある、と言ってもいいだろう。

先に、本山博師が気やPSIエネルギーの科学的研究をしていることを述べたが、同様な研究は、「人体科学会」や、「ISLIS」といった学会においてなされており、たとえば佐々木茂美氏や町好雄氏の著書などをあたってみるとよい。ここで、「気」や「PSI」は、明らかに非物質的なものである。しかしその非物質的なものが「ある」という仮定に立つと、「ない」という仮定に立っては説明できないものが説明できる、ということを主張しているわけである(この発想は、超心理学においても同様である)。このように、科学的方法は、必ずしも、唯物論的なパラダイムと独占的に結びついているというわけではない。非唯物論的な科学を構想することは、非ユークリッド幾何学を構想できるのと同じくらい可能なことである(物理学は現にもうそうなっている)。

ただし、科学的方法とはあくまで観察・測定可能な事象に限定される。したがって、非物質的な何かが物質界に及ぼす作用について解明することは可能だが、その非物質的なものの存在を直接経験によって把握するということは科学的方法の範囲外にある。

その直接経験とは、文字通り経験なのであって、哲学ではない。霊的認識と言われるのはそうした経験の地平であって、それを知的にあるいは美的に表現したものではない。このような霊的認識=霊的経験を何らかの形で検証することは、科学的方法ではなく、一種の相互主観的な確認となる――ということが、ウィルバーの認識論で述べられている内容である。そういう意味でカテゴリーエラー論は有効である。しかしながら、ウィルバーには、科学理論のパラダイム的な相対性に関する配慮がやや乏しく、現存の科学に対する評価が高すぎるようにも思われる。

というのも、これは最近の村上陽一郎氏がさかんに言っていることであるが、科学というのはもはや社会的な存在である。そこに大量の公金が投入され、国家政策の一部となっていることも事実である。当の科学者自身は、科学の不完全性を自覚しているかもしれないが、社会一般は科学を「権威」と見て、専門家として裁定を求めるところがある。このような、権威を求める社会の心性を科学者自身も利用して、補助金を獲得している部分もある。このような社会的状況からすれば、今ではまだまだ、科学の相対性について一般に啓蒙すべき段階にあるのではなかろうか。

池田清彦は、「一般市民は、何の根拠も示すことなく、科学の言うところを信じないと公言する権利を有する」という意味のことまで言っているが、そのくらいに言わないとだめだ、というところがあるように思う。

ヒューストン・スミスが『忘れられた真理』で批判するのも、科学至上主義、つまり、現存の科学のパラダイム的前提となっている唯物論という形而上学的仮定を、仮定と理解せず真理だと受け止めてしまうことである。それを科学教(scientism)と呼ぶ。「唯物論は科学によって証明されている」などと考えている人がいたらそれは相当な教養不足といわねばならない。批判すべきは、こういう形而上学的仮定を無根拠に信じこむことである。科学的方法論そのものは、「使いよう」なのであって、それなりに有効であり、否定すべきものではない。

私の過去の記事を読んで、私が「科学など廃れてしまえ」と主張していると誤解している人がいたとしたら、それは相当なる誤読である。私がいうのは配分の問題で、何も科学の予算をゼロにしろと言っているわけではない。

たしかに、何億もする実験装置を買うことなどやめておけ、とも言ったが、それは、村上氏の言うような、科学の社会的な位置づけの問題である。科学に公金が支出されている以上、それだけの価値のあるものだという前提があるはずだが、私の価値観は、文科省の役人のものとは異なる。それだけの話である。実際、自然科学に投下されている資金と、人文系のものと、どれだけケタが違うか、ちょっと調べてみればわかるだろう。

<追記>

私は、科学の方法論としての一定の有効性を否定したことは一度もない。私が「反科学」を主張しているというようなデマを信じている人がいるといけないので、念のため書いておく。

科学的方法論は有用だが、霊的次元を探求するための方法ではない。そのあたりまえのことを確認すればよい。

また、理論物理学のような、ほとんど実際の役に立たないことに大量の資金を与えることは、あくまで社会の価値観によることであることも確認しておけば、それでよい。私も、こういうものが世の中に存在することに何らかの意義はあるだろうとは思うが、それが今享受している地位(その栄誉や資金量)にふさわしいだけのものなのかは、正直、何百年かたってみて歴史が判断することかもしれない、と思う。今の私には判断できない(ちなみに私は、世界が2012年で終わるとは考えていない)。

稲垣先生は、『神学的言語の研究』の中で、「なぜ神学は、今の知的世界に場所を持つことができないのか」という問いを発しているが、それも要するに社会の価値観の問題である。私は、そうした価値観が少しでも変わってほしいと思っているのである。以前の発言はいささかレトリックとして過激な表現をとったが、真意はそういうことである。

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