スピリチュアル・ヒーリングの昨今
こんな本がある。
| 現代の医療と宗教―身心論をめぐって 滝沢 克己 創言社 1991-11 |
滝沢克己は、1909-1984ということだから没後だいぶになるが、存命中は相当に有名なキリスト教神学者だった。「エンマヌエル論」というのが有名だ。
上の本は、初版はもちろんもっと昔である。で、これは、無難なタイトルがついてはいるが、実は、滝沢氏が「手かざし宗教」によって病気を治してしまった、という体験にもとづいて、それを神学的にどう考えるかというような内容である。
今から30年も前である。スピリチュアルヒーリングというようなものは世の中になかった。あったものはこうした手かざし宗教である。当然ながら、滝沢氏のこの本に、信奉者の多くはきわめて困惑し、この本をどう扱ってよいかわからないという状況が続いたのだった。有名な知識人がこのような領域に発言するという例は前代未聞だったのである。
時代は今、大きく変わった。私の知っている某臨床心理学者は、大学教員であるにもかかわらずHPに「治療の一環としてスピリチュアル・ヒーリングをやります」と明記している、ということは前に書いた。アメリカでは大学院の正規科目としてヒーリングがあるのは珍しいとはいえない、とも言った。
つまり、こういうヒーリング能力というものが、ある特定の宗教の専売物として存在していたというのは、時代的にはもう古いのである。つまり、科学万能の世の中で、宗教という隔離された世界でのみ細々と命脈を保っていた、ということなのだ。
そういう時代が長かったので、その記憶がまだ人々から消えていない。ヒーリングというと、宗教ではないかと思ってしまう人がまだ多いというのは、そのせいである。
ヒーリングは宗教である必要はない、それは人間にだれしもある能力として認知されるべきだ、というパラダイムが普及してきたのは、1980年代の「気功ブーム」からである。1990年代くらいから、レイキの西洋からの逆輸入があって、そのスピリチュアルな側面も知られてきた。今では気功よりもスピリチュアルヒーリングの方がメジャーになっているくらいだ(気功の集まりに行くとわかるが、いま気功に行くのは、スピリチュアル系までは疑わしくてちょっとなあ・・というタイプの人が多い)。
宗教組織というのは必ずそこに非物質的存在とのかかわりがある。宗教によってヒーリング能力がつくのは、その組織を維持しようとしている非物質的存在の力による。したがってそこにはそういう存在、その組織のカラーがつくということは事実である。ヒーリングだけ頂いて、そういう霊的な側面には関わりません、というわけにはいかない。その点は理解しておく必要がある。
他のヒーリングメソードにもそういう存在とのかかわりはあるが、それを宗教という形でなく公開しようとしている意志を持っている、というところが、現代にはマッチしているように思われる。ただ、ヒーリングができるからといって完全に善なる存在であると断定はできないので、ここでも「サニワ」は必要である。世の中にかなり普及しているメソードの方が安心度は高いとは言えるだろう(伝える人の問題もあるが)。
今から見ると、手かざし宗教にびっくりしているようではな~ というのが率直な感想だが、考えてみると、そういうスピリチュアルヒーリングがこの世界には存在しているということを事実として認知した上で、それはどういう意味を持つのかという知識人による書物というものは、この滝沢氏の著作以降、どれだけ書かれたのだろうか? ――と、これがこの文章で言いたいことである。
あの本が出たとき、手からエネルギーを出してヒーリングする、ということが本当にできると思った人は、100人のうち1人もいなかったかもしれない。そういう状況を承知の上、自分が体験したことは事実だからとこういう本を出してしまった滝沢氏というのはたしかに相当な傑物であったのだな、と思う。
もちろん、聖書には、イエスがヒーリングの力で病気を治したとたくさん書いてあるのだから、神学者が、そういうこともあろうと考えたとしてもいいようにも思うが、当時は(今でも?)、そういう記述は民間信仰が混入したもので実際にはなかった、という合理主義的聖書解釈が主流であったのだ。もし、聖書に書いてあることのほとんどが本当だとすると、世界観の大規模な変更を迫られてしまうのである。まして、キリスト教とは関係のない、わけがわらない(?)新興宗教が、そんなことができると言われてもな~ というのが一般的な受け止め方だったわけだ。(私が科学についてあれこれ批判するのがピンと来ない人もいるかもしれないが、1980年代以前、いかに、科学に一致しないことがらが否定的に見られていたか、今では考えられないくらいなので、つい、「科学をそれほど絶対視するな」ということを言ってしまうのだ。いま30代以前の人は、そのくらいかつては絶対視されていたということを知らないようなので、そういう言葉は必要ないのかもしれない)
いや、時代は変わった。それに、知的世界は追いついていない。そういうことである。
歴史的に貴重な文献である。

