ラディカル・オーソドキシーはかなりいけそうですね。さっそくもっと文献を集めようと思ってWebcatを見たら、いくらキーを叩いても所蔵している図書館は数えるほどしかない。これって超マイナー? このブログを見てラディカル・オーソドキシーというものを知った人が数百人くらいいるわけだが、もしかすると、それ以前に日本でこれを知っていた人の数は、それよりも少ないかもしれない。そんなものである。
しかも、いま、年度変わりで研究費執行が停止されているので、本を買うのは自費になってしまう。これが痛いですね。
で、どこがラディカルなのかというと、これはまったく方向性は正反対だが、ひところのマルクス主義とある意味で似ているラディカルさなのである。どういうことかというと、「客観的・中立」と思われている近代的な知の体制すべてが、「世俗主義」というイデオロギーによって成り立っているという批判をする。つまり、イデオロギー闘争を挑み、知の世界における全面的変革をめざしていることになる。こう言っちゃうとことばが悪いが、そういうものである。(イデオロギーということばは使わないが、ここではわかりやすくするためにそういうふうに説明しておく)
自然のことは自然科学、社会のことは社会学・・といった知の体制を認めない。それはすべて近代によって作り出された世俗的な地平を前提としているが、その地平そのものにイデオロギー性が内在しており、それは「客観的」ではなく、一つの神学(世俗主義という神学)を暗黙に含んでいる、というわけだ。
そのイデオロギーの根源を存在論の次元でさぐっていくと、スコトゥスに行き当たる、というのがその主張である。
世俗主義は一つの「物語」であって真理でもなく客観的でもない。そう認めさせる。その上で、「よりよい物語」としてキリスト教を対置させる。そういう戦略である。その結果、論理だけでなく典礼(サクラメント)も重視される。何がよいかというのは論理や証明というより美的・倫理的な問題ともなる。
で、私は考えてみた。日本における神学的思考の状況はどうなのか。仏教の遺産には、すばらしいものがたくさんある。華厳、如来蔵思想、唯識・・・等々。しかし、さしたる現代思想的勢力にはなっていない。それはなぜかといえば、こういう仏教系のものは、近代主義に戦いを挑むという要素がなかったのだろうと思う。それはなぜなかったのかというと、仏教には、キリスト教のような「エクレシア」(教会論)が欠如していたことによるのではないか。
今の日本では、組織宗教というものがひじょうにダーティーに見られている。「いかなる宗教とも関係ありません」と一生懸命言っている人も多いし、宗教に関係しているということ自体がとんでもなくダーティーだというようなイメージがある。これはキリスト教圏ではまったく考えられないことだ(もちろんインドやアラブでも)。
例の「スピリチュアリティ宗教学者」のグループも、彼ら自身がそういう「宗教嫌いのプチスピ好き」というメンタリティーを持っていて、その結果、自分の好みに合うような現象をたくさんとりあげているという面もあるように感じている。
で、私は「パブリックスペース」ということを考える。ラディカル・オーソドキシーの目標は、パブリックスペース自体に「神」を取り戻していくことにある。世俗的イデオロギーがパブリックスペースを支配している状況に、革命――といって悪ければ政権交代――を挑む。こういう姿勢がはなはだ刺激的なのである。
つまり、パブリックスペースをめぐって戦うということは、野党が政権交代をめざして与党を打倒しようとするようなものである。そのように影響力の増大をめざしてがんばるというところが、キリスト教的なカルチャーだ。けっして「内面の世界」に場所を与えられて安住するのではない。
これは、ファンダメンタリズムではないので誤解しないようにお願いしたい。ミルバンクは他宗教の存在も認めている。
そういうわけで私の活動にもたいへん示唆的だと思われたのであった。仏教など東洋的な遺産をも背景として、このようなラディカルな神学を展開できないものかといろいろ考えてみたい。