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坂本さんの「ダークサイド情報修正」

坂本さんの、「ダークサイドからの情報を修正した」という新刊、みなさんは読みましたかね? 私はまだだが… アマゾンのレビューではいろいろ言われているが、まあそれも彼の役割の一つだからしようがないでしょう。しかし、今度のことで「ダークサイドからの情報に気をつけねばならない」ということが世の中に知れたわけだから、高次の観点からはこれも意味あることなのであろう。もちろん、「最初からそのくらいのこと気がつけよ」というツッコミも当然ありうることは認めた上の話だが… 2012年問題というのは、考えてみれば、「人類・地球の未来についての『宇宙的計画』が存在する」というイデーを、みなに考えさせたという意義があるように思う。私も、たしかにそういう計画は存在すると感じているのである。ここを読む人は、2012年に隕石が落ちて人類が滅亡したり、ある日を境に地上界がそのまま天上界に移行するというような形のものは起きない、と思っているだろうが、この2009年から先、さらに変化が急速になるだろうということも感じているはずだ。

アマゾンレビューと言えば、『スピリチュアル哲学入門』のレビューにいいものが載ったのでお知らせしておく。この本は「入門者」にターゲットを置いて書いているが、周囲の評を聞いても、それまでまったくスピ系の本を読んだことのない人にはかなり評判がいい。「ハードコア」の人々は、そういう入門向け本であることを念頭に置いていただき、自分に合うかどうかだけでこの本の評価をしないようにお願いしたい。

即身成仏の可能性を信じる

空海の密教思想について調べているが……気がついたのは、密教学者が、「空海の言う即身成仏とは何であるのか」ということについて、はっきり語っていないことだ。とある、本をたくさん出している有名な学者は、「それには諸説あってはっきりしていない」などと言う。諸説あろうがなかろうが、自分はこう思うということをはっきり言うべきだと思うが、言わない。他の学者も、即身成仏とは何なのか、どうも根本へくると口ごもる。そういう感じが見られた。

しかし、空海の書いたものから論理的に考えるならば答えは一つしかないはず。即身成仏とは「大日如来と一体になること」以外ではない。そして大日如来とは宇宙そのものであり、つまり「自分が宇宙になる」ことが即身成仏であるはずである。それ以外の答えがあろうとは思われないし、単純明快だと思うのだが……というのも、プロティノスの言う「一との合一」ということと、それは本質的に同じことを述べている思想であり、きわめてはっきりしていると思うのだ。宇宙になること、それは言いかえれば、神になること。「神化」である。

これは文字通り、宇宙、神ということだ。その点は一銭もまからない。つまり、この宇宙全体――むろん、地球以外の世界領域も含めて――が、すべて自分にほかならないこと、その意味で、宇宙にはただ一人自分しかないということ、宇宙のすべてのことは、自分の中にあるものとして、完全にわかるという「全知」を持つこと――それが密教でいう「法界体性智」の世界だ。(だから、この全知に達すれば当然ながら普通に言う「超能力」はすべて含まれてしまう。宇宙のすべてがわかるのだから何でも不可能なことではない。そのレベルに達するのが成仏ということだ。こういう「神通」の理解は、仏教でも、ヨーガ・スートラでも同じはずである)

密教学者たちも、論理的に考えればそうであることはわかっているのだが、「いやまさか、そんなぶっ飛んだことが本当にあるとは……」という、ためらい、及び腰があるということのようなのだ。

はっきりしていることは、空海は「誰でも密教の修行をすればすぐに即身成仏できる」と説いたが、空海以後、それを達成した人は一人もいないということだ。

つまり、「誰でもすぐになれる」というのは空海一流のプロパガンダなのである。実際には、よほど過去生で修行を積んでいるか、あるいはもともと解脱している世界からわざわざ物質界にやって来たという菩薩でない限り、ちょっと修行をしたから大日如来と一体になれるはずがないのだ。空海が本当に悟りを得たのなら、そういうことくらいはわかっているはずで、「誰でもできる」と書いたのは、何とかして密教の修行をやってもらうためにそういう宣伝文を書いたのだ、と理解する方がいいように思う。いいかえれば、それだけこの修行はすごいのだと空海は思っていたわけで、何とかしてそれを広めたいと、戦略を考えたのだ。空海の書いたものは全部プロパガンダであり、言うならば「受け」をねらっていたと、私は見ている。布教的戦略による文書である。

即身成仏が本当にできるのか、できないのか、という問題なのではなく、「ごくまれには、できる人もいる」というのが本当のところではないだろうか。できるのかできないのかという問題設定がおかしい。人間は過去生のカルマによってここにあるのだから、それを考えに入れずに「人間一般」を設定してもしかたがないのだ。大部分の人はぜったいにできない。一歩ずつ階段を上がるしかない。しかし、優れた師匠についてよい修行法をすればぐんと早くなる。だからこそ空海は何としても密教修行をやらせたかったのであると思う。即身成仏はできない。しかしその善業は未来生へとつづくのである。

また思ったことは、仏教の学者はだいたい、仏教はヒンドゥー教とくらべて優れているということを言いすぎることだ。しかしインドでできた宗教思想を全体としてながめてみれば、仏教とヒンドゥー教は一長一短なのだ。それぞれに優れているところとうまくできてないところがある。そもそも空海の思想は仏教といえば仏教だが、限りなくインド的な思想に近いことも事実である。仏教重視の姿勢が強いために、日本ではヒンドゥー的な霊的伝統への優れた解説書が少ないということもある。

たしかに即身成仏、大日如来そのものになるということはとんでもない、ぶっ飛び思想である。しかしそういうぶっ飛び思想は、プラトン主義もウパニシャッドもみんな言っているのである。「神化」のイデーはあくまで絶対であり、宇宙の全知と同一化しない限りそれは究極に達したとは言われない。これは常識からいえばありえないことであるが、それは「信仰」として受け入れるしかないのである。なぜそのイデーが真実であるのかわかるのか、といえば、それは「魂における知」として直覚的にわかるしかない、という意味である。そういう「信の力」が求められるのである。

スピリチュアルにおける「軽さ」と「重さ」

前に、「スピリチュアリティ宗教学者」がスピリチュアリティの定義として「見えない次元と関わること」ということをあげていた、と書いたと思う。私に言わせれば、この定義にははなはだ問題がある。ここには興味半分でオカルト的なことに関わることもみんな入ってしまう。そこには魂の完成とか、倫理性の要素がまったく欠如しているのだ。こういうカテゴリーを立てた上で現象を観察しようとすると、どうしても「プチ・スピ」的な、カジュアルなかかわり方のものばかりが視野に入ってくることになりやすい。その結果、「スピリチュアルには倫理性が欠けており危うさが含まれる」という結論を出したところで、それはそもそもその出発点に内包されていたものではなかろうか。

これは、「スピリチュアル」をカジュアルなものとして、伝統的な「宗教」とは切り離されたものだと考えたい、という思想に由来している。「スピリチュアリティ派」にはそういうメンタリティーがあるようなのだ。

私は、急に霊的なプロセスが始まって、しまいにはヒーラーになってしまうような人の例をいくつか見聞しているが、これらは、伝統的な宗教やシャーマニズムにおける「召命体験」とほとんど同じものである。その内的変容のプロセスはかなり劇的である。その中で神への信仰も試され、自己の中にある不純な部分も強制的に浄化されていくのである。

そういうケースに触れず、ロハス的なものばかり取り上げてもそれは一面的というものである。それでスピリチュアルは軽い、と結論したところで、それはそういう軽いものばかりしか見ようとしない観察者の問題でもあるのだ。

たしかに、霊的な道に入る入口のところが、伝統的な宗教とは違ってロハス的なものというのが出てきた、というところは否定しない。しかしそこから無限にディープなものになりうるのである。

現代において、霊的な道の歩みというゲームのルールが、幾分変更されているのは事実だと思う。だがそれを全面的に描こうとした人はまだいないと思う。

私は、軽いものも理解しないわけではないが、中核はなかなか重いものがあるのだ(笑) 高校時代にドストエフスキーを読破した私である。もちろん、そういう高橋和巳的な重さ・まじめさ(あえていえば暗さ)を称賛するわけではないし、時代遅れであることは知っているが、だからといって軽いものばかりでいいというわけでもない。越智啓子的な存在も必要であろうが、それは一つの役割であって、そればかりでも全体が成り立つわけではない。

村上春樹の『海辺のカフカ』は、世界の不可思議さについての小説だと思うけれど、軽いわけではないですわね。その中核には何かどっぷりと暗いものが横たわっていると思う。

要するに、重いものがあることをわかった上で、あえて戦略として軽さを選ぶというのなら尊敬すべきことだが、初めから軽さの世界しか目に入っていないというのはどうも・・・ということなのだ。

だから、もしスピリチュアルということを定義したいのであれば、そういう中核にある重さをも包み込むだけの広がりのあるものにしてほしい、と思うわけである。

というわけで、スピリチュアルの「重い定義」をたとえば提案するとすれば、「魂の最高の完成へ向けての道に自己が位置づけられていることの自覚」、つまり、仏教でいう「発菩提心」的なものを重視するべきではないだろうか。つまり定義から倫理性の要素を抜かしてしまうとオカルトとの区別がつかない。倫理性を無視して、ただ興味本位で「あちら側」と関わろうとする行為がオカルトなのだ(ここでいうオカルトは、シュタイナーなどが言う意味とは異なる)。

そういう意味で、カジュアルな定義から出発して「スピリチュアルはカジュアルだ」という結論に終わってしまうスピリチュアル論自体に「危うさ」がひそんでいる。真正の宗教性と興味本位のオカルトを区別する道をはっきりするのが、宗教学者の存在意義ではないだろうか。

気がつくと

植草さんのブログからここへのリンクが張られてますよ(^^; 

まあこれは驚くことではなくて、ココログのアクセス解析を見れば、どこのリンクから飛んで来たのかみなわかるのだから・・ 植草さんはそれをチェックして、自分に好意的なブログはどんどんリンクをのせているのだろう。

でもここのところ、植草氏のブログは私の思っていることとほとんど一致しているので気分がよいのだ。こことムネオさんのブログは毎日読んでおりますぞ。政権交代をしてムネオさんも連立与党に入ってもらいたいものですなあ。

ミルバンクには『神学と政治』という本もある(まだ読んでいないが)。神学思想は資本主義批判に踏み込まざるを得ない。そして、マルクス主義崩壊後に改めて新しい社会主義のあり方を考えるというのも思想的課題としてあるはずだ。ポストモダン的な資本主義の脱構築という思想があったけれども、ラディカルな神学という立場からはどうなるか、である。このテーマは、今はやっている余裕がないのだが、いずれは取り組みたいところだ。

「佐藤優ショック」の後、私も、いろいろ考えるようになったのだ(笑)

あっという間に一日が過ぎ・・

毎日、読みたい本を読み、考えるだけ考えているので、なかなか楽しい日々である。

今は、「新プラトン主義とテウルギア」、「空海の密教」、「ラディカル・オーソドキシー」の三つのテーマを平行して進めている。これに付随して、「井筒俊彦の形而上学」、「アウグスティヌス的テーマの展開」などのサブテーマがある。もちろんそれをある程度全体としてまとめるヴィジョンは徐々にできている。次の本では、いろいろ新しいアイデアを出せると思う。ブログに安易に書くのは、やめておく。

テウルギアとヒエラルキア

後期新プラトン主義の「テウルギア」について情報取得中。テウルギアというのは神々とつながるためのワークのようなものだ。これは空海の密教とかなり近いと思っている。テウルギアを研究する学者と違って、私には「リアル」な世界が展開されているので、とても興味深い。

近代は、なぜ「神々のリアルさ」がわからなくなったのだろうか。つまり、「非物質的な存在者」のことを否定するようになったのだろうか。それにはいろいろ理由がある。

その一つはおそらく、後期新プラトン主義からディオニュシウスへとつづく「ヒエラルキア」の世界観が否定され、内面的な自己(主観性)が直接神と向き合うという哲学的構図が優位を占めた、ということがありそうだと見ている。アウグスティヌス-デカルトの路線である。結局、現代の神学に至るまでほとんどはそれだ。ラーナーやバルトだって典型的なものだ。

ヒエラルキアを肯定する霊的思想こそが本物だと私は考える。そういうパラダイムを復興することが大きな目的である。

エネルギーレベルの差を実感

昨晩は、かなり久々で音楽を聴いた。ベートーヴェン、ブラームスだったが、名曲というのはこれほど波動が高いものか、と改めて思った。しばらく聞いていなかったらそれだけで波動が下がっていったのかもしれない。逆に、忙しくても聞く時間を毎日作ることは「ワーク」にもなるのだ、と思う。名曲をつねに聴いていればある程度以下には下がらなくなる。

ところが、波動を下げるのはどうもネットサーフィンというものである。これはエネルギー的によくない。くだらないと言っては悪いが、ことばによいエネルギーが入っていないページが多いので、ネットを見るときはある程度信頼できる場所だけに限定するべきだろう。スピリチュアル系とうたっているページでもたいへん波動の悪いものがある。Wikipediaもかなり偏向した記事があるので危ないと思う。

「正しいこと」(と信じていること)を言うのだからそれでいいというのではなく、「言い方」がひじょうに大事である。言い方とは、エネルギーの問題なのである。

私がネットを見るのはほとんどショッピングだったりするが…。

戦う時

植草氏のブログ記事「天下りと企業献金を断てない金権体質の自民党

基本的にこの考え方に賛成する(私は、このブログが政治的に中立であるべきだとは考えていない。私は公務員でもないし、そうした意見発表を抑制すべき立場にはない)。

ただ、これが政権中枢の指示による「国策捜査」であるか、あるいは、前後を見ない検察の暴走であるのか、どちらの可能性もあるかなと思っている。

この文中にあるように、小沢氏は今回の件では徹底的に戦う意志を固めたようだ。やはりそう来なくてはいけない。鳩山氏もこれに同調するようだが、問題は、民主党内にも反小沢勢力があって、この機会に追い落としをねらうなどという動きもあることだ。これが話を面倒にしている。民主党が一丸となって検察の不当性を国民に訴えていかねばならないと思うが。民主党にとっては試練である。これでつぶれるようなら、政権を取ったとしても長続きはしないであろうし。

こちらの記事も注目である。

小沢一郎というパラドックス ??検察は大久保秘書をどう起訴に持ち込むのか?(内憂外患)

きょうの雑感

この前「しばらく実のある話は書きにくいかも」と書いたら、そのとたんにアクセス数がガコ~ンと減った。正直なものである(笑) とはいっても、そうは言いつつ書いてしまうのが私であるということも事実だが。私としては、「ブログに書いた思想をまとめたもの」が本だ、とは言われたくない、というのが本音のところで、そもそもまったく力の入れ方が違うのだから。個々の考えの断片は、ブログのどこかを見れば触れているかもしれないが、それを全体として構成する、ということにいちばん力を注ぐものである。一つのシステムとして成り立つか、という観点から考えている。

さて、ラディカル・オーソドキシーのジョン・ミルバンクであるが、きわめて刺激的であると同時に、少し限界も感じられてきた。彼の思想的プロジェクトの全体が、ポストモダン的なのだ。彼が批判しているジャン=リュック・マリオンに近いところもある。その結論の部分をキリスト教の方へ持って行っているという見方もできなくはないかもしれない。

しかし、ミシェル・アンリはどうも英語圏では人気がないらしい。最近はマリオン一辺倒である。ラディカル・オーソドキシーの思想は身体性を重視するのだから、マリオンよりアンリの方が適合性があるとも思われるのだが。

と、これを書いているといくらでも時間が過ぎていきそうなので、きょうはこのへんで自粛しておこう(笑)

エネルギー配分の問題

最近はすっかり研究モードで、時間があるときはほとんど文献に向かっているか何か書いているかなので、少しは休みを取らねばならない。

そこでやっている具体的なことは、あんまりこちらで書いているとエネルギー漏れのような現象を起こすので、禁欲することにする。集中するためにはそういうエネルギー配分も必要である。

こういうブログをしていてこわいのは、「いつもブログを読んでいるから、本は買わなくていいや」と思ってしまう人が出てくることである。あくまでこちらは、本を読んでもらうための導線のようなつもりで書いているのであるが・・

また、私が興味を持ったことをそのままナマにここに書くと、書き方がむずかしくなって理解する人が少なくなり、また、「どうもむずかしそうだ」とますます買う人が少なくなるということにもなりかねない。ということなので、かみくだいて書く必要があるが、それはまたかなりエネルギーを要することなのである。

つまり、何が言いたいのかというと、しばらくの間、あまり実のあるような話はしにくいかな、と思っているということだ。

「これおもしろいなあ」と思っても、ぐっとガマン・・である(笑) そうはいっても、耐えきれずにちょろちょろ書いてしまうであろうが。

佐藤優の『獄中記』

佐藤優の『獄中記』という本を借りてきた。これは彼が東京拘置所で読んだ本の話や手紙などを中心にまとめられている。彼が拘置所でどういう勉強をしてどう何を考えたのかは興味がある。ところが・・かなり古風なのだ、その読んだ本のラインナップというのが。自分でも「読書傾向は団塊の世代に似ている」ということを言っているが・・ ハーバーマス、廣松渉、柄谷行人、宇野弘蔵とは・・神学ではブルンナーとモルトマンが多い。哲学ではヘーゲルを集中して読んでいる。しかしこれは、自分の好みというよりは、好みではないけれども読んでおかねばと思ったものが多いのだそうだ。そういう禁欲主義は私の中にはないので、彼の性格が出ている。それにしてもだいたい私の大学院時代くらいによく読まれていた本である(宇野弘蔵はそのころも読む人は少なかったが)。それと唯識に興味を持って何冊も読んでいる。これは私もほとんど読んでいる定評ある解説書だった。(廣松渉は私の修士論文の審査員の一人だったが、その頃すでに病気で休んでおり、読んだ上でコメントを送ってきた。ぜんぜん専門が違うのでかなり無責任というかどうでもいいことを述べていたコメントではあったが、それでも全部を読んだことは確からしく、「面白かった」とは言ってあった)

で、こういう彼の頭の中がどうなっているのかは、断片的な記述なので、どうもよくわからなかった。裁判や外交、政治の話も多いので、混沌としている。あちこち拾い読みしているとそれなりに面白いが、彼の思想として全体を知るには、別の本を見なければならないようだ。

あと、東京拘置所の食事はそうとうにおいしいのだそうで、毎回メニューが記録されている。この食事は、すでに判決を受けている受刑者(拘置者ではなく)が作るのだそうだ。

それからドイツ語とかラテン語など語学も勉強している。数学の教科書も持ちこんでいるがこれは本文にあまり記述がない。その教科書というのがわれらが母校でも使っていた啓林館版だというのもおもしろいが・・(うちの高校は数学に力を入れていた)。

それにしても、ルサンチマンに感情のエネルギーをとられることなく、自分の置かれた状況で最善のことを冷静に実行していく姿はやはり印象的で、こういう強さというのは昔からあったのかな、という感想がある。あるいは(自分でも少し書いているが)、イエスは不当裁判により断罪された政治犯であり死刑囚であったわけだから、こういうことが起こってもそれは彼の価値観を揺るがすことではなく、むしろ「貴重な経験」ととらえる余裕を生み出しているのかもしれない。

一人の人間の生として、ひじょうに興味を覚えるのものがある。

市場原理主義のイデオロギー

市場原理主義の背後には明確な人間観・世界観が存在する。それは基本的に人間は「個」であって、その個どうしは対立し、敵対するのが自然な状態だということだ。これは自然観ではデカルト・ニュートン主義に対応する。政治思想ではホッブズに代表される。つまりこれはきわめて「モダン(近代)」の世界観である。

グローバリズムなどと言っているが、これは一つの形而上学を基底としているのである。たぶんそこには、ネオダーウィニズム的なものもある。こうした個による競争は、結果として進化を生むという「信仰」があるのだ。

これは徹頭徹尾、無神論的、つまりニヒリズムの世界観であるとも言えよう。

これに対して、「人間とは基本的に<一つ>であり、調和の状態にあることがノーマルであり、争いが起こるのはアブノーマルな状態である」という思想もある。つまり、すべての人間はある意味でつながって統一体をなしており、その中の多様な表現として個人というものが成立している、という見方である。この統一性は、肉体レベルの知覚では見えないものだ。

日本は本来、こういう考え方をする文化だったのではないか。利害の対立があっても、深刻な争いにならないように調停するよう努力するものだった。

本来、原始社会では、そのような「調和」が第一に重視され、あまり格差が大きくなりすぎないような配慮がされた。これが人類学の教えるところでもある。これは、原始社会では、すべて物質的な次元にも霊的なエネルギーが浸透しているという世界観を持っていたことと密接な関係があるのだ。

このことを説明するとたいへん長くなるので、ブログ記事という枠では説明しきれないが、そういうことである。市場原理主義の原子論的な人間観は、世界からいっさいの「聖性」を剥奪した近代世俗主義イデオロギーという背景において成り立つものである。

したがって、世界に聖性を奪還しようとする思想運動(ラディカル・オーソドキシーもその一つだと思うが)は、必然的に、市場原理主義の政治体制とは相容れない。格差の拡大をある限界内にとどめる「セーフティネット」の充実を重視する政策と親和性が高いのである。

そういう視点から、このブログでも、政治的意見を発表するのをためらうことはしない。もっと世の中に霊性が認知されてほしいと望む人々は、小泉・竹中路線ときっぱり決別する意志を、次回の総選挙において明確に示してほしいと思う。そして、権力に操作されたマスメディアの腐敗を十分に認知し、ネット情報などに注意して欲しい。それから、産経新聞を取るのは即刻やめることをおすすめする。

市場原理主義から、セーフティネット重視の政策にいかに転換するか。もはや、政権交代以外に道はないと私は考えるが、いかがであろうか。

植草氏のブログ記事がわかりやすく整理しているので、一読をおすすめしたい。

市場原理主義VS人間尊重主義

政治と霊性

このブログを読みに来る人は霊性に関心がある人が多いだろう。霊性と政治とはけっして無関係ではない。政治で霊性を高めるということはできないが、人が霊性に基づいた生活をするのを支援する政策と、それに敵対する政策というものはあると思う。

今回は、松本清張の小説で読んだような、巨大利権構造がここまであらわに自分の正体を現しつつあるということにびっくりした。ある意味で彼らは追いつめられているわけである。これは最後の突撃のようなものである。

こういう意味について書いているサイトはたくさんある。たとえば植草一秀氏のサイトなど見るとよいだろう。

記者だってこれが何であるか気がついている人は多いはずだ。だが彼らもサラリーマンである。上の決めたことには逆らえないのだ。

その他いろいろなところで、組織で働いている人は、どこかでこういう利権構造に巻きこまれ、心ならずも意に反したことをせざるを得ないことも多いだろう。私などはお気楽な立場である。

自分の真実に立って生きるということを妨害する勢力がある。その時にどうするか。昼間は巨悪の構造に巻きこまれて仕事をしていて、夜に瞑想をしたからといってそれで霊性的に生きていると言えるのか。これには明確な答えはない。自分はどういう現実に生きようとするのかという問題である。

霊性的に生きるとは自分の真実に立って行動するということを意味すると思う。

巻きこまれているからといってあきらめてはいけない。問題は、どこまで巻きこまれるのか、どこで踏みとどまるか、である。ゼロと10という問題ではない。

幸いに日本は、北朝鮮などとは違って選挙だけはまだ自由が保障されている。

日本を破壊した小泉・竹中路線、その利権に群がるヤカラを権力から追放するため、慎重に選挙権を行使することは、最低でもできることである。

マスメディアは驚くほど操作されている。メディアトップの意向でどうにでもなるのである。そのことをはっきり知って、偏向報道にまどわされないでほしい。

小沢代表は辞めるべきだという数字が高いとメディアは言っているが、そもそも国民の大多数は、政治資金規正法の規定がどうなっているのかという知識を持っていない。この事件についての「理解度」をメディアは調査しない。メディアはこの規定を説明する努力をしていない。説明してしまうと、今回の件で逮捕されたことがおかしいということに国民が気づいてしまうので、都合が悪いのかもしれない。「逮捕されたんだから悪いことをしたんだろう、やっぱり政治家は金に汚いんだ」と思わせておいた方が都合がいいのである。これがテキの思う壺である。

前に書いた田中真紀子のユーチューブはこちら(つづきは別ファイルになっている)

http://www.youtube.com/watch?v=BuMdK8GDXoE

地上で理想の世界を実現することはできないが、「自分の真実に忠実に生きることが妨げられない世界」――天使的世界はそういう場所であるが――それにこの世界を少しでも近づけるために、自分に何ができるのか、それが政治の原点であるべきだと思う。

今日の展開

しかし、予算が使えないという時期に限って、買いたい本がどんどん出てきますな~ 知的刺激を求めようという欲求はとどまるところを知りません(笑)

なぜかアマゾンに在庫があった、ラディカル・オーソドキシーシリーズの『アクイナスにおける真理』という本を買ってしまった。100ページちょっとしかないが5000円という値段。しかし内容的には濃いので、充実感はある。これは、稲垣先生の本などでトマスを勉強してあったからある程度わかるので、それ以前の私ではさっぱり理解できなかったであろう。もっともその時はこれを読もうとは思わなかっただろうが。

原稿は進んではいないが(笑) 今回は多少、形而上学の面で新しい展開を盛り込めそうな見通しだ。『入門』の方は、その名の通り入門者を対象にしているので(主に女性)、ハードコアの読者にはあまり新しいことが書いてなかったであろうが(もっとも内容だけでなくエネルギー的な部分も感じてほしいのだが)、次回はもっと踏み込んでいる。ただ私の本は、あくまで形而上学(普遍神学)としての展開から実践面への考察をおこなうものなので、初めから「神秘学」として作られているシュタイナーみたいなものを期待してもらうとちょっと違うと思う。

危険な状況

ムネオさんのブログにこういうお知らせがあった。

明後日15日19時30分から、フォーラム神保町緊急開催シンポジウム「青年将校化する東京地検特捜部・小沢第一秘書逮捕にみる検察の暴走」が開催される。二木啓孝氏のコーディネートで、ジャーナリストの魚住昭氏、田原総一朗氏、作家の佐藤優氏、宮崎学氏、弁護士で元東京地検特捜部長・最高検検事の永野義一氏、元参議院議員の平野貞夫氏らのそうそうたるメンバーが集まり、西松建設献金事件について議論を交わす会であり、私もゲストで呼ばれている。
 私の想い、考えを伝えていきたい。国策捜査に遭った者としての経験を話していきたい。

たしかにこの「青年将校化」というのは私も感じるところで、ここにかなり危機意識を持っている。

こちらに住んでいると、田中角栄=悪の権化という常識はフィクションであるということもわかる。雪が2メートル以上も積もるような地域に住んでいる人も大都会の人と同じ税金を取られているということを考えてもらいたい。各地方に利益を再分配するという政治的しくみをぶっ壊した新自由主義経済思想が何をもたらしたのか? 日本人は本当に弱肉強食の国に生きたいのか。こういうことにみな気がついてきたので政権交代の機運が高まったのだ。私は、霊性ともっとも親和的な政治体制は、北欧型の高負担高福祉国家だと思うが、こういう政策を打ち出している政党がないのが残念なところだ。

それはともかく、与党や政府の人間は国策捜査などないと言うが、それは立場上そう言うにきまっていることで、本音ではない。国策捜査はありえないとすれば佐藤優氏の本はすべて嘘であるということになるが、そんなはずはないのである。私は高校時代の彼しか知らないが、その人間性は知っているつもりである。自分が生きるということについて非常な純粋さをもった人間であって、自己利益のために嘘を作り上げる人ではないのだ。

国民が前ほど検察に振り回されなくなったのは、例の冤罪の映画もあったのだと思う(政府に批判的な評論家が痴漢で検挙されたというのもひじょうに怪しい事件である)。

私は若い頃かなり松本清張の小説を愛読していたので、権力というのはそういうものだろうという印象はその時から持っていた。私の青年期にはマルクスも影響力を持っていたので、社会の矛盾ということを考える機会も多かった。佐藤優の「神とマルクス」という思想的テーマは、当時私も共有していたものである(この話はまたいずれ)。

神学的な側面から言うと、この地球上に生きるということは、この世界が「神の国」と言われる状態にむけていかに近づいていけるか、そのために努力するという意味でもある。しかしそのためには、徹底的なリアリズムを持ってこの現実世界、現実の人間が持っている悪、業を認識しなければいけない。そういう現実の中で、時には権謀術数もいとわず、冷徹さを保持しつつも、究極の理想を実現しようとすることが必要だと思うが、政治の世界はこれが凝縮して表現されているように思う。

等距離外交ではない

心理療法や教育という現場において霊性という視角を取り入れていこうという方向がある。それぞれ、トランスパーソナル心理学、そしてホリスティック教育学といわれるものである。

これらは、その性質からして、既存のいかなる宗教にも関わるわけにはいかない。そこで、宗教と霊性とをはっきり切り離して、つまり、霊性というものを宗教から抽出しようという方向になる。

それはやむをえないところだろうと思うが、こういうアプローチの限界というのもあって、それは、つまるところ各宗教の持っていた世界観、世界ヴィジョン、「宇宙のグランドデザイン」というものを採用することができず、共同のものとして抽出できるのは結局「体験」になってしまうということである。そこで、体験だけでは皆同じはずだ、という扱い方になる。

その結果、霊的体験というものがあるということは言えるようになる。だが、世界観的には共通なことを取り出しにくい。ということは、近代の世俗的な世界観に代置するようなものが生まれにくい。

それを「棲み分け主義」を使って、心理学や自然科学と統合した理論を作るというやり方もあるが、そもそもそのように心理とか自然という領域を独立したものと見なしてよいのか、と感ずる。それは本当にグランドデザインになるのだろうか。

こういうことを書くのは、キリスト教-プラトン主義の思想系列と、仏教の思想を比較してみて、「どうしてもこの統合は無理だ」と感じたからである。仏教があらゆる「イデア性」を否定してしまうのは、どうしてもプラトン系思想とは融和しない。仏教では世界観を作れない。これは、仏教はグランドデザインを提供するという役割よりも、ともかく自我実体視の幻想を離れることを重視して、ひたすらに実体がないことばかり強調する「インド的唯名論」の流れに位置しているからである。唯名論というのは基本的に霊的世界観は作れない思想である。

ただ、インドの正統派の仏教ではどうしても無理なのだが、これが日本くらいまでに来ると、かなり有神論的な宗教になってきていると思う。だから、空海の真言密教や、天台本覚論などは、もうかなりテオファニーの思想になってきていると思う。これだとプラトン系の思想と調和できる。

「色即是空」は、インドの仏教からすれば「すべて存在者には実体はない」という思想を言っている、としか解釈できない。ところが東アジア的な仏教になると「存在世界はすなわち超越である」というテオファニーの思想として解読してしまう。サンスクリットではそうは読めないが漢文だとそうも読める。最近のチベット人が「空性」ということばで語っているのも、「実体はない」ということ以上の、ある超越的な地平であると思う。

ここで言っておきたいと思ったのは、私の言う普遍神学というのは、すべての宗教に対する等距離外交ではありませんよ、ということだ。世界観的な方面に踏み込む限り、すべてが正しいということはありえない。何らかの形で、これは採用するがこれは採用しない(つまり方便的な教え、「未了義」として理解する)という作業をのがれることはできない。つまりこれは昔で言えば「教相判釈」である。あえてそういうことに踏み込むということである。この意味で、霊性哲学は、心理学や教育学などにおける霊性の議論とは違うものだということを理解願いたい。

また私は「体験レベルではどれも同じ」という主張にも少し疑問を持っている。同じ部分もあろう。しかし、その宗教の持っている基本的な方向性、世界観は、あるエネルギー的な性質を持っており、そこに属している人にどういう体験が起きてくるか、それをある程度規定していく側面もかなりあると思う。その意味で私は、「諸宗教は体験レベルでは同一である」という主張に対しては、現在では、「そういう面もあるが、そうでないところもある」と考えている。どういう世界ヴィジョンを持っているかは、その人の「道」をかなり違うものにするところがあると思う。

怪しい事件をウォッチ

この西松の強制捜査事件についてはかなり関心を持ってウォッチしているのだが、

8年前、メディアスクラムとも言うべき総バッシングを受けた私である。その経験からして、検察のリークは相変わらずだが、国民は権力側と一定の距離感を持って事態を見守っている様に思える。8年前の劇場型・ワイドショー型の報道が少なくなっただけでも、少しはバランスが取れてきたと考えるのは早計か。(ブログ3月9日〕

ムネオさんがこのように書いているが、たしかに、今回も検察リークを報道はするものの、バッシング一辺倒ではない。

また、ユーチューブの動画に、田中真紀子が出演したテレビ番組のクリップがあった。なかなか説得力のある演説でしたね。話の中には出さなかったけれども、「いつもこんな本を読んでましてね」と本を持ってきて何気なく見せるが、そのタイトルには「CIA」とあった。どういう意味かわかりますかね? ま、一度ごらんください。

田中真紀子見直しました。やっぱり次回も一票入れようと思います(笑)

小沢批判ばかり書いているメディアもあるが、それがどういう新聞社なのか、その傾向性は誰しも知るところである。

さて、どう動くか。小沢一郎突っ張りきれるか。目が離せませんね。ここまでは「仕掛け人」の思惑通りにはいってないように見えるけれども。

私はノンポリではないんですよ。日本の現状を変えないとね。

ラディカル・オーソドキシーのラディカルさ

ラディカル・オーソドキシーはかなりいけそうですね。さっそくもっと文献を集めようと思ってWebcatを見たら、いくらキーを叩いても所蔵している図書館は数えるほどしかない。これって超マイナー? このブログを見てラディカル・オーソドキシーというものを知った人が数百人くらいいるわけだが、もしかすると、それ以前に日本でこれを知っていた人の数は、それよりも少ないかもしれない。そんなものである。

しかも、いま、年度変わりで研究費執行が停止されているので、本を買うのは自費になってしまう。これが痛いですね。

で、どこがラディカルなのかというと、これはまったく方向性は正反対だが、ひところのマルクス主義とある意味で似ているラディカルさなのである。どういうことかというと、「客観的・中立」と思われている近代的な知の体制すべてが、「世俗主義」というイデオロギーによって成り立っているという批判をする。つまり、イデオロギー闘争を挑み、知の世界における全面的変革をめざしていることになる。こう言っちゃうとことばが悪いが、そういうものである。(イデオロギーということばは使わないが、ここではわかりやすくするためにそういうふうに説明しておく)

自然のことは自然科学、社会のことは社会学・・といった知の体制を認めない。それはすべて近代によって作り出された世俗的な地平を前提としているが、その地平そのものにイデオロギー性が内在しており、それは「客観的」ではなく、一つの神学(世俗主義という神学)を暗黙に含んでいる、というわけだ。

そのイデオロギーの根源を存在論の次元でさぐっていくと、スコトゥスに行き当たる、というのがその主張である。

世俗主義は一つの「物語」であって真理でもなく客観的でもない。そう認めさせる。その上で、「よりよい物語」としてキリスト教を対置させる。そういう戦略である。その結果、論理だけでなく典礼(サクラメント)も重視される。何がよいかというのは論理や証明というより美的・倫理的な問題ともなる。

で、私は考えてみた。日本における神学的思考の状況はどうなのか。仏教の遺産には、すばらしいものがたくさんある。華厳、如来蔵思想、唯識・・・等々。しかし、さしたる現代思想的勢力にはなっていない。それはなぜかといえば、こういう仏教系のものは、近代主義に戦いを挑むという要素がなかったのだろうと思う。それはなぜなかったのかというと、仏教には、キリスト教のような「エクレシア」(教会論)が欠如していたことによるのではないか。

今の日本では、組織宗教というものがひじょうにダーティーに見られている。「いかなる宗教とも関係ありません」と一生懸命言っている人も多いし、宗教に関係しているということ自体がとんでもなくダーティーだというようなイメージがある。これはキリスト教圏ではまったく考えられないことだ(もちろんインドやアラブでも)。

例の「スピリチュアリティ宗教学者」のグループも、彼ら自身がそういう「宗教嫌いのプチスピ好き」というメンタリティーを持っていて、その結果、自分の好みに合うような現象をたくさんとりあげているという面もあるように感じている。

で、私は「パブリックスペース」ということを考える。ラディカル・オーソドキシーの目標は、パブリックスペース自体に「神」を取り戻していくことにある。世俗的イデオロギーがパブリックスペースを支配している状況に、革命――といって悪ければ政権交代――を挑む。こういう姿勢がはなはだ刺激的なのである。

つまり、パブリックスペースをめぐって戦うということは、野党が政権交代をめざして与党を打倒しようとするようなものである。そのように影響力の増大をめざしてがんばるというところが、キリスト教的なカルチャーだ。けっして「内面の世界」に場所を与えられて安住するのではない。

これは、ファンダメンタリズムではないので誤解しないようにお願いしたい。ミルバンクは他宗教の存在も認めている。

そういうわけで私の活動にもたいへん示唆的だと思われたのであった。仏教など東洋的な遺産をも背景として、このようなラディカルな神学を展開できないものかといろいろ考えてみたい。

メディアリテラシー(おまけ)

「小沢辞めろ」コールはマスコミの怠慢 山口一臣

は、私の言いたいことを言ってくれたので、気分がよい。

私は久々に頭に来ている。検察、マスコミと、メディアリテラシーの低すぎる国民に対してである。

何が正しいのかを、世論による多数決で決めるようになったら終わりである。ポピュリズムによる私刑がまかり通る国になるのか。

一度、バッシングの対象になってしまったら、どんなことがあっても逃れられない。抹殺される。今の日本はそういう国になっている。メディアリンチに乗っかることで日頃の憤懣をはらすような人が少なくないのだ。バッシングの対象ができると視聴率などメディアの人気は上がるという構造があるので、メディアは次なるバッシング対象を探そうとしている。

「逮捕されたから悪いことをしたにちがいない」という考えをしてしまう国民が大多数だというのが大いに問題で、それについてはメディアに大いに責任があるというのが山口氏の論点だろう。

新聞記者の中でも、『国家の罠』みたいな本は読んでる人はいるだろうし、検察の実体や、いろいろなことがあることはわかっているはず。だけれども大新聞みたいなところでは、一定の方向へ動いて行かなきゃいけないところがあって、思っていても書けないこともあるのだと思う。そういう憤懣を持った記者たちがムネオさんのところみたいな場所へ行って書けない話を漏らすのかもしれませんな。マスコミに出てくるのはすでに統御された情報で、ある方向がすでに決められているものだ。

いろいろな情報が飛び交うが、その情報源はどういう人物であるのか、よく確かめる必要がある。何かのためにする情報操作かもしれない。すぐに飛びつかないことだ。

日本はひじょうに危ない国になりつつある気がする。

こんなことを書くのは、元同級生・佐藤優氏の悲運について読んだことの余波かもしれないが、またこれから思想談義に話を戻したい。

衝撃の事実とは ~佐藤優氏のこと

で、佐藤優氏の『国家の罠』である。

4101331715 国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
佐藤 優
新潮社 2007-10

これはとても素晴らしい本である。図書館にも必ずあるものなので、ぜひとも一読を勧めたい。

私が感心したのは、国策捜査の犠牲になったからといって、それに対するルサンチマンがまったくないことだ。彼は権力というものをよく知っているので、どの国にもそういうものがあることを熟知している。たまたま自分がその巡り合わせになったということを、特に恨むことがない。そういう厳しい状況にあっても、自分の置かれた状況を冷静に分析して、最善の行動をしようとする。その知力と胆力は並みの人ではない。今は評論家として活躍しているが、政治家の素質もあるのではないだろうか。そのうちに政界に出るかもしれないと思う。

それからあと、佐藤氏と西村検事のやりとりというのがひじょうに面白く、「ドストエフスキー的」と評した人がいるのもわかる気がする。絶対的に敵対する関係の中で、裏では人間として認め合っている二人に交わされた会話――このような人間ドラマは小説でもなかなかない。

そもそも私が彼に興味を抱いたのは、同志社大学神学部修士課程修了という経歴であった。獄中でも神学の本を読んだりしている。信仰の話はこの本には出ていないが、根底で支えているのは信仰なのかもしれないな、という感じもする。

で・・・衝撃の事実とは何か? すでに推察した人もいるかもしれないが、

「彼は、高校の同級生であった!」

・・という、事実である。「あれ、同じ高校だ?」と経歴を見て思って、調べると学年も同じ。さて・・こんなやついたっけ? と考えると「あっ!!」と気がついたというわけ。写真を見るとたしかにその面影がある。当時はもっと髪が長かったが。佐藤優なんて名前はどこにでもいそうなので、今まで一回も結びついていなかったのだが。

実は、そいつと一緒にある面白いものに出ていて・・・

というわけで、ここから、その当時――1977年(古い・・)の思い出話に突入してみたいところだが、それはまた後日・・本日はこれにて。

思いつきメモ~ラディカル・オーソドキシーなど

ひさびさにお仕事の話(笑) 原稿はまだ当分かかりそうで、春休みに終わるのかといったら厳しいだろうか。今回は、もう少し仏教にも接近したい。このあいだから如来蔵思想について改めて注目し、勝鬘経、涅槃経、宝性論などを読む。涅槃経の全訳が出ているのだが、これを買うかな~と検討中。西洋ものではエリック・パールによるディオニュシウスの本にえらく感心し、仏教思想との類似もかなり見えてくる。簡単にいうとディオニュシウスとプロティノスはほとんど同じなんだという主張で、これまでのプロティノス理解が単純すぎたという内容で、まったく我が意を得たりであった。このパールの本に紹介されていたウェイン・ハンキーという人の論文にかなりはまって、最近の神学の一部に、新プラトン主義との接近という動きがあることを知る。それはハイデッガーのオントテオロジーの問題や、それにつながるマリオンの現象学的神学とも関連している。そこで今、ラディカル・オーソドキシーというポストモダン神学について調べている。ハンキーの立場はこれとは微妙に異なるが、全体としてはある方向に向かっており、それは「テオファニーの神学」ではないかと思われる。私はそれは、仏教では華厳思想に近づいてくるのではないかと思う(空海の思想も根幹は華厳であり、それに真言の行法を上に置いたものだ)。全体として世界をどう見るかというヴィジョンにおいてかなり共感できるものを感じた。新プラトン主義の再評価ということもポイントである。ラディカル・オーソドキシーでは特に後期のプロクロス、イアンブリコスなどの「テウルギア的新プラトン主義」を評価し、リトゥルギア(礼拝)の意味を強調する。これも密教の復興というテーマと重なって見える。これをインド思想でいうと、正統派のシャンカラなどではなく、ラーマーヌジャや、あるいはカシミール・シャイヴィズムの思想に近いものがあると思う。シャイヴァ・シッダーンタのことも知りたいがなかなか文献がない。

ラディカル・オーソドキシーでは近代の世俗的世界観への転回について、スコトゥスの「存在の一義性」を分岐点としている。オントテオロジーと世俗化は盾の両面である。私はこれをオッカムとしていたが、存在の一義性という概念がオッカム思想を可能にしたのだから、スコトゥスから始まるといってもまちがいではないだろう。この主張にはある程度、稲垣先生やまたデュプレなどとも共通した問題意識が感じられる。アウグスティヌスの再評価もポイントで、トマスなども徹底的にアウグスティヌス的に読むがこれはちょっとやりすぎだろうか。これってガンのヘンリクスじゃないの?と思わせるほどだ。しかしアウグスティヌスというのは要するに、人間の知性は神の照明を浴びているという思想だ。それがかんじんの点である。トマスを「トマス主義」が考えるよりも新プラトン主義的だというのは、山田晶先生のエッセの研究などを考えると、まちがってはいない。

またラディカル・オーソドキシーに共感するところは、「近代的学問」が成立する前提として「世俗的空間」の成立があるという見方だ。この世俗的空間というものは「客観的」ではなく、それ自体に形而上学的前提を含んでいるという。これは私からしても当然の主張だ。この前書いた例では宗教社会学者などが「宗教とは人間が作った文化だ」などという枠組みを持つというのも、世俗的空間という近代的学問前提を自明とした地点から見ているわけで、これ自体は反神学的な一つの思想的選択をすでにしているということになるわけだ。つまりラディカル・オーソドキシーは「自然界のことは自然科学に任せてよい」というような、独立した自然という領域を認めない。そういう考え方から自然科学と折り合いをつけようというブルンナーやティリッヒなどの神学を批判する(私にいわせるとウィルバーもこうした「折り合い主義」である)。自然科学が提示するのは自然に対する「一つの見方」にすぎず、自然を見る唯一の権能をそれが保持しているわけではない。自然に対する神学的な見方というものも神学は包摂するものである。つまり「棲み分け主義」の明確な否定がある。

キリスト教神学の強みは何といってもエクレシア(教会論)である。ニューエイジ以降の精神性についてキリスト教から批判する最大のポイントもそこにある。エクレシアがなくてどうしてその正統性が担保されるのかということだ。個人だけで探求することは容易に迷いの道へ入る危険が高い、集団による指導というものが不可欠だということだ。これは確かに的を得ている。霊性哲学は何らかの形で組織論を考えねばならない。やはりその場合は見田の「交響体」などをベースにすることになるのか。

メディアリテラシーその2

内憂外患のサイトでは、田中良紹氏は国策捜査説を取っている。

また、山口一臣氏は次のように書いている

いまここで、民主党の小沢一郎代表の秘書を逮捕することが、
どの程度、国民の利益になるのか。
国民がこれだけ日々の暮らしに苦労しているご時世ですから、
検察庁といえども、費用対効果について、
きちんと説明する義務があると思います。

これももっともな意見だろう。

国策捜査でないとしたら、特捜は自分がこれだけの権力を持っている、ということに酔っているのか・・ 山口さんは、国策捜査というより、その動機はもっとくだらないものだったのではないか、と言っているのだが・・

別の記事で、田中氏が書いているが、こういう政治資金に関する法律は、完全に守ることが困難な法律で、自動車の最高速度は60キロで走れというのと似ているのだという。みなそれを守っていないが、警察はほとんどつかまえない。しかし、たまに捕まえる。つまり、みんなが守れない法律を作っているということは、つかまえるかつかまえないかということを、警察や検察という官僚が自由に決められるということで、彼らに絶対的な権力を持たせることにつながる。だからこういう法律は官僚支配のためのものだ、という趣旨である。なるほどなあ、と思った。なかなか勉強になります。

ただ、今回の小沢氏秘書は、規正法に従って適正に記載している。会社からの献金だったら政党支部で受け取ればいいという小沢代表の説明はその通りなので、規正法というものを知っていればこの説明でおかしいことはないのだ。問題は西松のダミー団体だったという事実を認識して、共謀していたかということである。そのように西松は言っているぞ、という検察からのリークがメディアに流れている、という状況である。

政治の世界というのは、人間世界というものを理解する上ではとてもよい教材である。人間の闇とか悪を熟知しつつ、冷徹に状況を判断しつつ、しかし自分の理想を実現しようとするときにいろいろなドラマが生まれる。それを佐藤優の『国家の罠』を読んで感じた。私もどちらかといえば世間から外れている人間であるから、こういう世界のことをたまに見聞するのもよい勉強になるのである。

ということなので、ここでは、ある特定の政治的立場を表明しようというわけではない。私は政治の世界を、人間世界について学ぶための教材としてとらえているところがあるのだ。

「衝撃の事実」の話はまだ今度(笑)

メディアリテラシー

いや、ここではあまり政治経済のことは語らないようにしているが(私は単に一市民レベルの知識しかないわけだから)どうもね・・ というのが西松建設をめぐる問題だ。

どうも怪しい。ジャーナリストの中には「国策捜査」ではないかと言う人もいる。あの官房副長官の発言は何であろうか。その後すぐに、自民党議員の立件という話が出たのも、いかにもこの失言に慌てたような動きである。翌日の共同通信配信記事では、元検察官で今は天下り団体理事長をやっているような人が「識者」として、「検察に政治力が働くことはいっさいない」などという記事を出している。これを典型的な「チョウチン記事」という。新聞が日頃ばかにしている天下り理事長の記事をすぐに出すとは、何かあったのかと疑ってしまう。

こちらのニュースサイト http://news.www.infoseek.co.jp/special/j-is/

鈴木宗男さんの「ムネオの日記」も注目している。

そもそもメディアに出るものはほとんどが検察のリーク情報である。それは検察がメディアを誘導して世論を有利にするための行為で、そのまま信じてはいけないというのはメディアリテラシーの常識である。でも日本国民のほとんどはそういうメディアリテラシーなど知らない。

世論調査で、小沢代表の風当たりが強い。しかし、ふつうの、そのへんのおじさん、おばさんのレベルというのはどういうものか考えてみればわかる。政治資金規正法のしくみというのはどういうもので、今回の小沢氏秘書のどういう行為が違法とされたのか、それに対する小沢代表の説明の論点はどういうことであったか、それを質問されてちゃんと答えられる人はいったい何%いるのか? それが答えられないのに「辞任すべきだ」とか「説明に納得しない」などと答えることはできないはずだが、世論調査で小沢代表に否定的なことを言った人の大部分はそんなレベルであると思う。政治資金規正法というものをまったく知らなくて、何だか騒がれているのでまた賄賂をもらったのに違いないと思い込んでいる人がどれだけいるのか、そういうことも一度調査してみてはいかがであろうか?

情報をリークする方は、国民がそういうものであることは百も承知。マスコミが騒げば、確実に政治家に対するダメージを与えられる。マスコミがたたけば、こいつは悪いやつだとすぐ思い込んでくれるのが国民というものだということをよく知っているのである。こういう戦略が特に得意だったのが小泉さんだ。

今回の件が国策捜査なのか、それとも特捜部の独断なのか、それにはいろいろな意見があるが、政治家が捕まるにあたっては官邸に何らかの連絡があっても不思議ではないと思う。検察はけっして政治的に中立ではない。国策捜査というものは現に存在する。

そういう本はたくさんでている。私は今回の件で国策捜査というものに関心を持って、本を読んでみた。たとえば次のものは検察というものがよくわかる。

4797671742 正義の正体
田中 森一 佐藤優
集英社 2008-03-26

佐藤優さんてのは外務省にいて、鈴木宗男さんと一緒にやられた人だが、これは完全に国策捜査だった。佐藤さんの『国家の罠』という本を読めばわかるが、取り調べの検察官がはっきりと「これは国策捜査だから」と明言したのである(検察は、そんなことは言ってないと反論するかもしれないので、あくまで佐藤氏の記述によれば、であるが)。私も当時は、鈴木宗男って悪の権化ではないかってイメージをマスコミに植え付けられていたので、こわいものである。

ともあれ、国策捜査というものはあるものだということ、検察や警察は自分の作ったストーリーをリークして世論を誘導しようとするので、それにのせられてはいけないこと、などを常識として知っておく必要があるのだ。

検察のリークについて、メディアがいちいち裏付け取材をして報道しているわけではない。そのまま流すだけだ。そのまま流さないと、次のリークがもらえない。そうすると情報がないので、メディアとしては困る。メディアも情報を売ってなんぼの商売である。構造的に警察・検察には弱いしくみができている。

実は、佐藤優さんについては、(私個人にとって)衝撃的な事実が明らかになったのであるが、それについてはまた次の機会に書きたい。

プチ・スピと宗教

磯村健太郎『<スピリチュアル>はなぜ流行るのか』(PHP新書)という本を借りてきた。

これはスピリチュアリティという概念でいろいろやっている宗教社会学者たちとだいたい同じ路線のもののようである。

まずよい点をあげておくと、新しい共同体とあり方、ネットワークという部分を言っていること。見田の「交響体」という概念はなかなかおもしろい。

ただ、全体としては「プチ・スピ」というか、わりとカジュアルなつきあい方をしている人々について語っていて、スピから入ってもはるかにハードコアというか、ほとんど「修行」の世界になっていくような「始まってしまう人々」のことについては語られていない。それはそもそも、スピリチュアルということを「見えない次元とふれ合う」というように理解しているからだろう。伝統宗教を総じて軽く見ているというか、それが秘めている深みというものを意識しているようでもない。見えない世界と戯れるという要素も、プチ・スピのレベルではあるだろうが、根本的には宗教と同じような「霊性進化の道」の現代版として登場している意味も大きいように思われる。そのような、宗教の持っていた可能性についての理解があまり感じられないのは、残念な点であるが、これは宗教社会学の人に共通した限界であると思う。

つまり、「宗教はいやだけどスピは好き」というのはあくまでプチ・スピレベルの反応である。スピも深く進んでくるとひじょうに伝統的な道と似てくると思う。信仰とか全託という要素も不可欠になってくる。そういうハードコアの人々を取材するともっと違った絵が描けるのではないだろうか。たとえば上から「修行」が降りてきて、気がつくとヒーラーになっていたなんて人も多いのである。そういう目線でスピを見るとぜんぜんちがってくる。

昭和時代に大きな新宗教が勢力を伸ばしたときも、都市化で孤独になった人々が心のよりどころを求めて云々…といった「解説」がなされたが、今回はまったく違う社会形態になっているということだ。だからこういうアプローチは、組織論、メディア論として見るべきだろう。それなら宗教社会学の得意分野である。もちろんこのアプローチが、宗教というものの「ある面」を理解しているにすぎないことは、本人たちもわかっていると思う。

まあ、借りて読むくらいの価値はあると思う。社会現象という角度からながめるという目的はある程度果たせているようだ。

私などの立場から見ると、「宗教とは人間が作ったものだ」と言ってしまった瞬間に、決定的に取り逃がされてしまう何かがあるのだ。ここには近代の時代のイデオロギーがあるということは自覚するべきだと思う。宗教社会学も存在意義はあるが、スピ論としてそれしかないとしたらかなりつらいものがある。

ちょっと気分転換

ちょっと気分を変えて、「スピリチュアル哲学研究室」というのを副題にして、メインタイトルを「美しさの中を歩め(2)」にした。やはり、このタイトルは気に入っているというのと、考えてみると、私が「スピリチュアル」ということばをあえて使うのは、あくまで方便であるということを思ったからだ。方便というのは、スピリチュアルという言葉で反応するような層に訴求したいということであって、自分としてはこの言葉自体は好きなわけではないということである。

次作執筆を開始します

最近、研究三昧の日々であるが、そろそろ執筆に入りたい。この期間については、あまり余計なことをしゃべりすぎないよう上から言われているので、こちらのブログであれこれ書きすぎないようにしたい。したがって今後しばらく、お知らせなどを中心とすることになる。

今回は、「光明思想」を中心にまとめたい。仏教で言うと如来蔵思想だが、新プラトン主義も実は光明思想の一つだ、という解釈を最近知って大いに興奮を覚えたところである。宇宙は神の身体である。それを法身説法ともいう。そのような思想は東西共通のものだとかなり納得できてきたので、それを現代風に展開することを考える。そういう前提に立って、最近たくさん出てきているスピリチュアルなワークをどうとらえるのか、伝統的な修行との対比において考察する。それに際しては、地球自体の変化ということを考えに入れ、現在はまったく新しい時代に突入しているのではないかという見通しも語られることになるかもしれない。

このような本の完成のために、よいエネルギーを送っていただければ幸いである。

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