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即身成仏の可能性を信じる

空海の密教思想について調べているが……気がついたのは、密教学者が、「空海の言う即身成仏とは何であるのか」ということについて、はっきり語っていないことだ。とある、本をたくさん出している有名な学者は、「それには諸説あってはっきりしていない」などと言う。諸説あろうがなかろうが、自分はこう思うということをはっきり言うべきだと思うが、言わない。他の学者も、即身成仏とは何なのか、どうも根本へくると口ごもる。そういう感じが見られた。

しかし、空海の書いたものから論理的に考えるならば答えは一つしかないはず。即身成仏とは「大日如来と一体になること」以外ではない。そして大日如来とは宇宙そのものであり、つまり「自分が宇宙になる」ことが即身成仏であるはずである。それ以外の答えがあろうとは思われないし、単純明快だと思うのだが……というのも、プロティノスの言う「一との合一」ということと、それは本質的に同じことを述べている思想であり、きわめてはっきりしていると思うのだ。宇宙になること、それは言いかえれば、神になること。「神化」である。

これは文字通り、宇宙、神ということだ。その点は一銭もまからない。つまり、この宇宙全体――むろん、地球以外の世界領域も含めて――が、すべて自分にほかならないこと、その意味で、宇宙にはただ一人自分しかないということ、宇宙のすべてのことは、自分の中にあるものとして、完全にわかるという「全知」を持つこと――それが密教でいう「法界体性智」の世界だ。(だから、この全知に達すれば当然ながら普通に言う「超能力」はすべて含まれてしまう。宇宙のすべてがわかるのだから何でも不可能なことではない。そのレベルに達するのが成仏ということだ。こういう「神通」の理解は、仏教でも、ヨーガ・スートラでも同じはずである)

密教学者たちも、論理的に考えればそうであることはわかっているのだが、「いやまさか、そんなぶっ飛んだことが本当にあるとは……」という、ためらい、及び腰があるということのようなのだ。

はっきりしていることは、空海は「誰でも密教の修行をすればすぐに即身成仏できる」と説いたが、空海以後、それを達成した人は一人もいないということだ。

つまり、「誰でもすぐになれる」というのは空海一流のプロパガンダなのである。実際には、よほど過去生で修行を積んでいるか、あるいはもともと解脱している世界からわざわざ物質界にやって来たという菩薩でない限り、ちょっと修行をしたから大日如来と一体になれるはずがないのだ。空海が本当に悟りを得たのなら、そういうことくらいはわかっているはずで、「誰でもできる」と書いたのは、何とかして密教の修行をやってもらうためにそういう宣伝文を書いたのだ、と理解する方がいいように思う。いいかえれば、それだけこの修行はすごいのだと空海は思っていたわけで、何とかしてそれを広めたいと、戦略を考えたのだ。空海の書いたものは全部プロパガンダであり、言うならば「受け」をねらっていたと、私は見ている。布教的戦略による文書である。

即身成仏が本当にできるのか、できないのか、という問題なのではなく、「ごくまれには、できる人もいる」というのが本当のところではないだろうか。できるのかできないのかという問題設定がおかしい。人間は過去生のカルマによってここにあるのだから、それを考えに入れずに「人間一般」を設定してもしかたがないのだ。大部分の人はぜったいにできない。一歩ずつ階段を上がるしかない。しかし、優れた師匠についてよい修行法をすればぐんと早くなる。だからこそ空海は何としても密教修行をやらせたかったのであると思う。即身成仏はできない。しかしその善業は未来生へとつづくのである。

また思ったことは、仏教の学者はだいたい、仏教はヒンドゥー教とくらべて優れているということを言いすぎることだ。しかしインドでできた宗教思想を全体としてながめてみれば、仏教とヒンドゥー教は一長一短なのだ。それぞれに優れているところとうまくできてないところがある。そもそも空海の思想は仏教といえば仏教だが、限りなくインド的な思想に近いことも事実である。仏教重視の姿勢が強いために、日本ではヒンドゥー的な霊的伝統への優れた解説書が少ないということもある。

たしかに即身成仏、大日如来そのものになるということはとんでもない、ぶっ飛び思想である。しかしそういうぶっ飛び思想は、プラトン主義もウパニシャッドもみんな言っているのである。「神化」のイデーはあくまで絶対であり、宇宙の全知と同一化しない限りそれは究極に達したとは言われない。これは常識からいえばありえないことであるが、それは「信仰」として受け入れるしかないのである。なぜそのイデーが真実であるのかわかるのか、といえば、それは「魂における知」として直覚的にわかるしかない、という意味である。そういう「信の力」が求められるのである。

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