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スピリチュアルにおける「軽さ」と「重さ」

前に、「スピリチュアリティ宗教学者」がスピリチュアリティの定義として「見えない次元と関わること」ということをあげていた、と書いたと思う。私に言わせれば、この定義にははなはだ問題がある。ここには興味半分でオカルト的なことに関わることもみんな入ってしまう。そこには魂の完成とか、倫理性の要素がまったく欠如しているのだ。こういうカテゴリーを立てた上で現象を観察しようとすると、どうしても「プチ・スピ」的な、カジュアルなかかわり方のものばかりが視野に入ってくることになりやすい。その結果、「スピリチュアルには倫理性が欠けており危うさが含まれる」という結論を出したところで、それはそもそもその出発点に内包されていたものではなかろうか。

これは、「スピリチュアル」をカジュアルなものとして、伝統的な「宗教」とは切り離されたものだと考えたい、という思想に由来している。「スピリチュアリティ派」にはそういうメンタリティーがあるようなのだ。

私は、急に霊的なプロセスが始まって、しまいにはヒーラーになってしまうような人の例をいくつか見聞しているが、これらは、伝統的な宗教やシャーマニズムにおける「召命体験」とほとんど同じものである。その内的変容のプロセスはかなり劇的である。その中で神への信仰も試され、自己の中にある不純な部分も強制的に浄化されていくのである。

そういうケースに触れず、ロハス的なものばかり取り上げてもそれは一面的というものである。それでスピリチュアルは軽い、と結論したところで、それはそういう軽いものばかりしか見ようとしない観察者の問題でもあるのだ。

たしかに、霊的な道に入る入口のところが、伝統的な宗教とは違ってロハス的なものというのが出てきた、というところは否定しない。しかしそこから無限にディープなものになりうるのである。

現代において、霊的な道の歩みというゲームのルールが、幾分変更されているのは事実だと思う。だがそれを全面的に描こうとした人はまだいないと思う。

私は、軽いものも理解しないわけではないが、中核はなかなか重いものがあるのだ(笑) 高校時代にドストエフスキーを読破した私である。もちろん、そういう高橋和巳的な重さ・まじめさ(あえていえば暗さ)を称賛するわけではないし、時代遅れであることは知っているが、だからといって軽いものばかりでいいというわけでもない。越智啓子的な存在も必要であろうが、それは一つの役割であって、そればかりでも全体が成り立つわけではない。

村上春樹の『海辺のカフカ』は、世界の不可思議さについての小説だと思うけれど、軽いわけではないですわね。その中核には何かどっぷりと暗いものが横たわっていると思う。

要するに、重いものがあることをわかった上で、あえて戦略として軽さを選ぶというのなら尊敬すべきことだが、初めから軽さの世界しか目に入っていないというのはどうも・・・ということなのだ。

だから、もしスピリチュアルということを定義したいのであれば、そういう中核にある重さをも包み込むだけの広がりのあるものにしてほしい、と思うわけである。

というわけで、スピリチュアルの「重い定義」をたとえば提案するとすれば、「魂の最高の完成へ向けての道に自己が位置づけられていることの自覚」、つまり、仏教でいう「発菩提心」的なものを重視するべきではないだろうか。つまり定義から倫理性の要素を抜かしてしまうとオカルトとの区別がつかない。倫理性を無視して、ただ興味本位で「あちら側」と関わろうとする行為がオカルトなのだ(ここでいうオカルトは、シュタイナーなどが言う意味とは異なる)。

そういう意味で、カジュアルな定義から出発して「スピリチュアルはカジュアルだ」という結論に終わってしまうスピリチュアル論自体に「危うさ」がひそんでいる。真正の宗教性と興味本位のオカルトを区別する道をはっきりするのが、宗教学者の存在意義ではないだろうか。

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