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等距離外交ではない

心理療法や教育という現場において霊性という視角を取り入れていこうという方向がある。それぞれ、トランスパーソナル心理学、そしてホリスティック教育学といわれるものである。

これらは、その性質からして、既存のいかなる宗教にも関わるわけにはいかない。そこで、宗教と霊性とをはっきり切り離して、つまり、霊性というものを宗教から抽出しようという方向になる。

それはやむをえないところだろうと思うが、こういうアプローチの限界というのもあって、それは、つまるところ各宗教の持っていた世界観、世界ヴィジョン、「宇宙のグランドデザイン」というものを採用することができず、共同のものとして抽出できるのは結局「体験」になってしまうということである。そこで、体験だけでは皆同じはずだ、という扱い方になる。

その結果、霊的体験というものがあるということは言えるようになる。だが、世界観的には共通なことを取り出しにくい。ということは、近代の世俗的な世界観に代置するようなものが生まれにくい。

それを「棲み分け主義」を使って、心理学や自然科学と統合した理論を作るというやり方もあるが、そもそもそのように心理とか自然という領域を独立したものと見なしてよいのか、と感ずる。それは本当にグランドデザインになるのだろうか。

こういうことを書くのは、キリスト教-プラトン主義の思想系列と、仏教の思想を比較してみて、「どうしてもこの統合は無理だ」と感じたからである。仏教があらゆる「イデア性」を否定してしまうのは、どうしてもプラトン系思想とは融和しない。仏教では世界観を作れない。これは、仏教はグランドデザインを提供するという役割よりも、ともかく自我実体視の幻想を離れることを重視して、ひたすらに実体がないことばかり強調する「インド的唯名論」の流れに位置しているからである。唯名論というのは基本的に霊的世界観は作れない思想である。

ただ、インドの正統派の仏教ではどうしても無理なのだが、これが日本くらいまでに来ると、かなり有神論的な宗教になってきていると思う。だから、空海の真言密教や、天台本覚論などは、もうかなりテオファニーの思想になってきていると思う。これだとプラトン系の思想と調和できる。

「色即是空」は、インドの仏教からすれば「すべて存在者には実体はない」という思想を言っている、としか解釈できない。ところが東アジア的な仏教になると「存在世界はすなわち超越である」というテオファニーの思想として解読してしまう。サンスクリットではそうは読めないが漢文だとそうも読める。最近のチベット人が「空性」ということばで語っているのも、「実体はない」ということ以上の、ある超越的な地平であると思う。

ここで言っておきたいと思ったのは、私の言う普遍神学というのは、すべての宗教に対する等距離外交ではありませんよ、ということだ。世界観的な方面に踏み込む限り、すべてが正しいということはありえない。何らかの形で、これは採用するがこれは採用しない(つまり方便的な教え、「未了義」として理解する)という作業をのがれることはできない。つまりこれは昔で言えば「教相判釈」である。あえてそういうことに踏み込むということである。この意味で、霊性哲学は、心理学や教育学などにおける霊性の議論とは違うものだということを理解願いたい。

また私は「体験レベルではどれも同じ」という主張にも少し疑問を持っている。同じ部分もあろう。しかし、その宗教の持っている基本的な方向性、世界観は、あるエネルギー的な性質を持っており、そこに属している人にどういう体験が起きてくるか、それをある程度規定していく側面もかなりあると思う。その意味で私は、「諸宗教は体験レベルでは同一である」という主張に対しては、現在では、「そういう面もあるが、そうでないところもある」と考えている。どういう世界ヴィジョンを持っているかは、その人の「道」をかなり違うものにするところがあると思う。

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