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スピリチュアル界の「ひろさちや」

私もちょっと曲がり角に来た感じ・・

簡単に言うと、この辺で世間のしがらみから半歩ひいた「半隠居」と言うか、仕事を減らして自分の時間を作り、執筆やワークなどの方に重点を置いた生活にシフトしようと考え始めている。時間だけでなく、心の余裕というか、そういうものが必要だ。

私もこのままだらだらと今の生活を続けているより、そろそろ「第二の人生」をスタートさせるべく準備を始める時期だ、との結論に達しつつある。

ほとんど本を書くような時間とエネルギーの取れない状態がつづいているので、生活をシフトすることでそれを可能にし、少しずつライターとしての仕事を積み上げてみたい。

めざすところはいってみれば、「スピリチュアル界のひろさちや」か?(笑)

これから数年のうちに、今は一部の人のみに知られている「スピリチュアル」――つまり、宗教性の新たなあり方というものが、これまではそういうものに無関心だった一般の人々に浸透して行きはじめると思う。それが始まったらかなりの勢いで伸びるだろう。

その際、そういう世界観、パラダイム、生き方を、できるだけわかりやすく語る「啓蒙家」が必要になるはずだ。「ひろさちや」というのはそういう比喩である。

私ももう、書きたいことを書きたいように書くような本はやってしまったので、そういうのはもういいかと・・(時期が来たら書くかもしれないが)。それよりも、後世に残ることなどまったく考えず、ただ今において、多くの人に伝える、そういう方向の語りにシフトしていきたい。

とはいっても、自分がひっぱろうとなどというたいそうなことを考えているわけでもなく、ただ、そういう種類の人々の一人になるということだ。そして、もはや思想における「独創性」などというのもどうでもいいだろう。重要なことはすでに言われているのであって、新たに発見するものなど何もないからだ。アイデアが独創的かどうかより、「どれだけ深く理解したか」ということが重要なのだ。

コース・イン・ミラクルズはよい波動

私は The Course in Miracles を持っていることを思い出し、テキストを少し読んでみた。するとかなりいい波動である。「平和」の波動というか、神への信頼をひたすら説いている。これはたしかに高次元が書いていると思う。

『神の使者』はどうだったのか? 『神との対話』に対抗するような表現とか、マリアン・ウィリアムソンはどうの、ディーパック・チョプラはどうのと、高次元存在とは思えないような言葉が多かったが・・・

まもなく大内博氏によるテキストの邦訳が出版される。が、これはやはり原文で読みたいので、しばらく訳書は買わないかもしれない。訳書はなんと900ページ以上だそうである。

自然科学のポジションと霊性

自然科学に霊性のヒントを求めて、物理学の本などを熱心に読む人がいるが、それについて私の考え方はどうなのかというと・・

自然科学はけっして虚妄ではない。ある程度、私たちの世界の構造を解明している部分もある。もちろん不完全ではあるが。

ただその認識はけっして、宇宙そのものの認識には達しないであろうと思う。自然科学が見ているのは、むしろ、私たち「地球的ゲシュタルト」を持つ生命体の「認識構造」ではないだろうかと私は推測している。

つまりこの物質的地球に生きるにあたって私たちがあらかじめ合意している、共通の認識構造があり、それが人間的現実というものが共有され、あたかも客観的であるかのように感じられているという事態を作っていると思うのだが、その認識構造を見ているのではなかろうか。従ってそれは私たちが地球的現実を離れたら通用しなくなるものだと思う。つまり、ローカルルールなのである。宇宙的法則を解明したわけではない。自然法則として発見されているのはすべてローカルルールだと思う。そしてこれは『魂のロゴス』や『スピリチュアル哲学入門』にも書いたと思うが、地球界を超えた上位次元の存在はこうしたローカルルールを超越した力を持ち、必要に応じてそれに介入することも、しようと思えばできるであろう。私たちも自分の中にある、地球次元を超えた力を呼び覚ませばこのローカルルールを超越できるわけであって、それが超感覚と言われるものである。

ただ先端的な物理学者などがある上位次元からインスピレーションを受け取って、より奥深い宇宙への直観を理論として表現するという可能性はあるし、そういうこともおそらくおこなわれているであろう。それを見て面白いと思うのは、そのイデーに刺激されるからであって、その理論が宇宙の実相を捉えているからではない。あるヒントが隠されている、という程度のものだろう。それでもそういう営みが人間界に存在する意義はあるだろう。だいたいこういう感じが私の立ち位置である。

本格的に宇宙の構造に迫っていくためには、人間次元を超える高次元知覚が開かれて、それによって探究するのが本道であろう。

『神の使者』その2

さてその後さらに読み進めたが、私はこの対話が実際に行われたのではなく、作者の創作であることをほぼ確信している。ただ、これは直観的なものであって証明はない。

結論からいえばこの本で述べられている霊性思想は私とは立場の違いが大きすぎて、受け入れることはできなかった。私は『奇跡のコース』を読んではいないので(セレクションの本は読んだが)、もし『奇跡のコース』がこういう思想だとするとそれも私には合わないことになる。

ただ、こういう違うものに接することによって、改めて私の霊性についての考えはどういうものなのか、確認することはできたので、そういうメリットはあったと思う。

簡単にいえばこの本は「世界とは幻想である、早く目覚めなさい、そのための方法は『コース』に書いてある」という主張をしているものである。

これは私たち東洋文化にいる人間からすればよくある主張であって、結局のところゴータマ・ブッダの仏教とはそういうものだし、禅もその本質を受け継いでいる。『コース』はそのための方法として聖霊の導きを重視するが、そういう思想も『バガヴァッド・ギーター』にほとんどそのままある。

しかしキリスト教神学としてはこれはかなり革命的な主張なのである。こういう本を読むときは、そういう神学思想の背景を理解するといいだろう。

どういうことかというと、伝統的なキリスト教神学――プロテスタントは知らないが、カトリックや正教系のものであると、キリストが「神でもあり人でもある」という二重性を持っていることが、キリスト教の鍵だと理解している。神性を持ちながら同時に人性も持っていることがなぜ重要かというと、そのためにキリストが媒介となって、神のエネルギーがこの地球界に流れこむことができるからである。それによって、この地球世界そのものが霊化、聖化され、ついには地上に神の国が実現する・・・これがキリスト教神学の基本的な方向性なのである。(もちろん「神のエネルギー」とかいうのは私の用語法であるが。また、近年ではこうした「地上世界の聖化」というイデーを捨て、ひたすらそれを「内面の変化」としてのみ解釈する神学も多くなってはいる。私はそれを一つの堕落ではないかとも考えるが)

ところが『神の使者』の神学は、この地上に神の国が実現するなどまったくの迷妄であって、イエスはいっさいそんなことは言っていない、と断言する。イエスが言っているのはひたすらに、エゴを転換し、世界という幻想に目覚め、世界への従属から離脱することだという。地上世界は一切価値がない虚妄の世界なのである。

このように地上の価値を否定し、それを聖化するなどありえないという考え方は、インド系の霊性では珍しいことではないが、キリスト教文化圏ではかなりの異端であって、それは通常「グノーシス的」だという批判を浴びることが多いのである。とりわけこの『神の使者』は、神は世界の創造に一切かかわっていないと断言するので、これは完全にグノーシス主義的だという表現が妥当する。

私自身ははじめ、こうしたインド系の霊性をかなり学んで、そこでは「修行によって幻想から離脱する」ことがめざされるので、いろいろな修行もしてしまったのだが、キリスト教神学を勉強していき、その影響を受けるにつれて、そうしたインド的、現世離脱的な霊性から離れてきた。そこで、『神の使者』(あるいは少なくともこの本が描くところの『コース』)は、ちょうど逆のベクトルを示していることになるのだ。

いま一部で言われているところのアセンションというのは、地球全体の波動が上昇していくということだから、たとえそれが2012年に一気に起こるわけではなく、ゆっくりとした変化であるとしても、この地上世界がある程度聖なる世界に近づいていくという可能性を認めているわけである。これはキリスト教神学的なイデーなのである。

で、本当にアセンションとも言われる地上世界の次元変化があるのかと言えば、その可能性もあるとは思える。しかしもちろん神の次元に行けるわけではなく、この宇宙に無数の次元がある中での、階段を一つ上るような感じだろう。神にまで行く経過では、いつか地球を去って別の領域へ移行することも当然あるだろうと思っている。その意味で私は、キリスト教の言うように最終的な完成がこの地上にありうるとは思っていない。部分的なことを全体と取り違えていると思う。ある程度は次元上昇はする、しかし地球としての限界はあって、それ以上は別の宇宙領域でやっていくものだろうと理解している。

しかしまた、ここでは、「現実には無数のバージョンがあり、何を選択するかという問題である」というテーマもかかわってくるようだ。これについては機会を改めて考察してみたい。

ともあれこういうふうに、私の思考を刺激する効果はあったということで、2700円を損したとは思わないが、この本それ自体としていえば、私はそれほど波動の高い本とは思えなかった。『神との対話』とはだいぶ落差があるし、作者の自演もかなり見えてしまう感じなので、それほど気持ちいいというほどでもない。かくして、私は半分くらいでリタイアすることとなった。ただ私にはあまり合わないが、ある状況、ある人にとってこれが役立つメッセージを含んでいることは否定しないので、私が何と言おうとも、自分がいいと思ったらいいということである。私たちはそれぞれ違う現実のバージョンに生きているのであるし。

ただ、対話そのものの全部が創作ではなく、それのもととなる霊的存在との交渉があったという可能性は否定はしない。その場合、その存在はおそらく、キリスト教初期のややグノーシス的影響のつよい一派に関係していた霊的存在のグループではないかとも推測できる。もともとこの時期のキリスト教はそういう考え方が一部として入っていたことは事実であり、私が上に述べた神学思想はその時期にはあまり発達していなかった。それを後世の創作といえばいえる。

私はこの前、本当のマスターであろうとなかろうとメッセージが問題だ、と書いたし、巷でもそんな言い方をよく耳にするが、やっぱりそれは違うかもしれないと思い直す。大事なのは言葉の意味だけではないのだ。そこにこめられたエネルギーの質の高さなのである。本当のマスターでなければありえない波動というものがある。そういうものが本の中にこめられているかどうかは、かなり本質的なことなのだ、と考えた方がいいように思える。

レナード『神の使者』について

ゲイリー・R・レナードの『神の使者』(原題: The Disappearance of the Universe)という本を読み始めている。

日本語版が出て3年たつみたいだけど、今まで全く気づかなかった。

500ページもある分厚い本だが、著者の目の前に二人のアセンデッド・マスターが出現して語った内容を記したもの、となっている。つまり一種のチャネリング本である。

しかし、100ページばかり読み進めたところで、私は、これが本当にチャネリング本であるのか、疑いを抱いた。これはそういう形式を使って著者が創作したものではないかとも感じられた。

断っておくが私はアセンデッド・マスターというものも宇宙にはいるだろうと考えているし、そうした存在が肉体を示現して人間と語る、という可能性が存在することも否定していない。現に、ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、ヨガナンダの師匠が死後、物質化して出現した話が語られている。私はこれは真実だと思っている。

しかし『神の使者』について疑いを感じたのは、どうも、そういうマスターのエネルギーとは違うものが感じられたからだ。『神との対話』は、本物のチャネリング本だと思う。ただ、その言葉を言っているのが神なのか天使レベルなのかは別として(どちらでもいいことかもしれないが)。『神の使者』はなんとなく自由さがない。高次元存在特有の軽さが欠けている。

この本は、イエスを中心に語られていて(本の中ではJと呼ばれているが)、その教えは現代においては『奇跡のコース』という書物に完全に現れている、という立場をとっている。

この『神の使者』の世界観は伝統的なキリスト教とは違っており、ほとんどヴェーダーンタの非二元論哲学に近く、また、神が世界を創造したのではないと断言する。その意味ではグノーシス的な色彩を帯びる。またキリスト論においてはかなりドケティズムに近い立場をとっている。

そういうわけでこの本は、著者が長年をかけて研究し、到達した思想を、こういう形式を借りて表現したものではないかと感じられる。『魂のロゴス』が三人の対話になっているようなものである。

だからといってこの本が駄目だと言っているわけではなく、あくまで、これが本当にチャネリングなのかどうかということは気にせず、あくまで内容で判断すればいいことだと思う。今のところは『奇跡のコース』への風変わりな入門書、解説書として考えておけばいいのかなあ、というところだ。

しかしまだ2割くらいか読んでいないので、今後読み進めていけば考え方が変わるかもしれない。

とりあえず途中経過である。

想像力と現実の創造

無数のバージョンの現実があり、無数のバージョンの自分がある。

このことをよく考えていくのが、霊性思想の分野における現在のテーマだ。

無数のバージョンの世界とは・・?

自分の本体が魂であり、それはもっと高次の次元にあることを受け入れるならば、そこから展開される無数のバージョンの自分があることも理解はできる。

そしてまたよく言われているのが、「想像したことはすなわち現実である」というテーゼだ。

ギリシア哲学では最初から「思考と存在は同一である」という命題がある。つまり、考えたことは存在するということだ。つまり、存在を想像するということと、考えるということは同一なのだ。

この命題を私はずっとよく理解できなかったが、考えてみると、これは「創造主」のポジションに立てば当然であると気づいた。創造主にとっては想像すること(考えること)はそれを存在させることと等しいのである。

そして、私が現実を創造するというのも、その創造の原理そのものは、創造主と全く同一なのである。というより、そもそもその創造の力は、創造主から分与されることで私が持っているわけである。従って私もまた、考える、想像することによって現実を創造しているのである。

私はつねに想像している。それによって創造している。つまりイマジネーションとは創造の原動力なのだ。

とすれば、また、イマジネーションをしかるべく使っていくことによって、私はより意識的に自分の現実を創造することもできるはずなのである。

問題は、より意識的に創造をしていくということではないだろうか。「何を」創造するかである。

物質界にいることの問題点は、「自分が現実を創造しているということを忘れやすい」ということであろう。

ただもちろん、地球物質界特有の共同意識というものはあって、いわばその「お約束」に合意しているからこそ、ここで生活していることも事実である。

であるので、そのお約束をかなり無視した現実を創造すると、この世界に生きるのが困難になるという面はあるだろう。具体的にいえば、他の人からは気が狂ったと見なされて病院に収容されたり、薬漬けにされる可能性が高い。決して間違った現実を創造しているわけではなく、あくまでその現実のバージョンが共同意識のバージョンと違いすぎて「共約不可能」になってしまったということである。

だから、共同意識と違うバージョンを作ってもいいのだが、ある部分では共同意識のバージョンに「戻ってこれる」能力を担保しておくことも、あっちへすぐに移行するつもりがないのなら必要になってくる。

その気になれば、人間がみな手を四本持っている(インドの神様のように)という現実を創造することも可能だ。でも実際にそのような現実が現れてきたらどうか。これまでの現実とあまりに違いすぎるので、たぶん私は、違う世界に来てしまったと感じることだろう。つまり、この前の世界においては私は死んだのである。寝ているうちか何か、気づかないうちに死んでしまったのである。つまりその前にいたバージョンにおいては私は死んでしまいその世界からいなくなるという現実が創造されたのだ。

しかしもちろん、時には手が四本の世界に行って、また手が二本の世界に戻ってくることもできる。二つの現実のバージョンを行き来できるということならば、これはシャーマンになったということを意味するだろう。

また、現実は自分が創造しているとはいっても、他の人(意識体)と現実創造をシンクロさせているという部分もかなりあるだろう。そうでなければ社会は成り立たない。物質界に生きるについてはある程度の合意が存在しているはずだ。

いろいろ考えるとおもしろいが今回はこのくらいにしておこう。

自分の現実

なんていうか、スピリチュアルな、霊的な生き方のいちばんスタートというのは「自分に起きることにすべて責任を持つこと」だというふうに、最近感じられている。

つまり「自分の現実は自分で創造している」ということを徹底して受け入れるということだ。

そうなるといっさい、人のせいにはできない。人の悪口とか言っているようではスピでもなんでもない。それは、自分のエネルギー(現実創造の力というか)のあり方が違っていれば、そのような愉快でないことが起こることはなかったはずだからである。人に何か変なことをされたという現実を創造してしまったのは自分である。(なおこれは、犯罪者を罰しなくてもいい、というようなこととは関係ない。話をそういう方向に持って行かないようにしたい)

そこで、そういう考え方の前提として、現実にはたくさんのバージョンがあり、どのバージョンを選ぶかは自分で決定している、という見方をとる必要があるということになる。

自分の好きではない現実が現れてきたときには、自分のなかの何がそういうものを引き寄せたのか、考えてみる必要がある。むしろ、そのためのチャンスとして受け取るという姿勢が望ましい。

そう考えてみると、「人人唯識」といわれるのはある意味で本当なんだな、とも感じる。つまり自分の世界はすべて自分で作っているわけだ。(ただこれは、他者というものは一切ない、という意味ではない)

2007年10月のこと

このブログを少し読み返してみたら、2007年10月頃の記事が異常にハイテンションであることに気づいた。この頃にエネルギーの高まりがあったことは事実のようだ。今にして思うと、この年の10月20日に重要な出会いがあり、大きな転換があった。その意味は後でわかることになったのだが・・ 私はそれを記念して買い換えた車のナンバーを「1020」にしたくらいである。この日よりしばらく前からエネルギーが異常に昂進しているのは、これがあらかじめ計画されたことがらであることを物語っているだろう。偶然はないのである。

それにしても

それにしても、このブログの過去ログを自分で読んでいると、つい読みふけってしまう(笑) とても自分が書いたもの、考えたものとは思えない。人間は日々に更新されつづけ、変化し続けるのだから当然であるが。いろいろ参考になるところも多いし、すっかり忘れていた問題意識などを思い出すのも貴重だ。

もっぱら自分のためかもしれないが、過去ログから思想関係の記事を抜粋して一冊の本にまとめてみようかと時々考える。オンデマンドで出版すれば安くできるし奇特な人が買うこともできるので、検討してもいいだろう。

これからのテーマとしては、さきほども書いたパラレル・リアリティのことと、もう一つは宇宙文明や宇宙への「開国」という問題だ。そろそろ「コンタクト」の問題をまじめに考えねばならない時期に来ていると思う。後の時代は、私のことを先覚者として記憶するであろう・・・なんちゃってね(笑)

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