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想像力と現実の創造

無数のバージョンの現実があり、無数のバージョンの自分がある。

このことをよく考えていくのが、霊性思想の分野における現在のテーマだ。

無数のバージョンの世界とは・・?

自分の本体が魂であり、それはもっと高次の次元にあることを受け入れるならば、そこから展開される無数のバージョンの自分があることも理解はできる。

そしてまたよく言われているのが、「想像したことはすなわち現実である」というテーゼだ。

ギリシア哲学では最初から「思考と存在は同一である」という命題がある。つまり、考えたことは存在するということだ。つまり、存在を想像するということと、考えるということは同一なのだ。

この命題を私はずっとよく理解できなかったが、考えてみると、これは「創造主」のポジションに立てば当然であると気づいた。創造主にとっては想像すること(考えること)はそれを存在させることと等しいのである。

そして、私が現実を創造するというのも、その創造の原理そのものは、創造主と全く同一なのである。というより、そもそもその創造の力は、創造主から分与されることで私が持っているわけである。従って私もまた、考える、想像することによって現実を創造しているのである。

私はつねに想像している。それによって創造している。つまりイマジネーションとは創造の原動力なのだ。

とすれば、また、イマジネーションをしかるべく使っていくことによって、私はより意識的に自分の現実を創造することもできるはずなのである。

問題は、より意識的に創造をしていくということではないだろうか。「何を」創造するかである。

物質界にいることの問題点は、「自分が現実を創造しているということを忘れやすい」ということであろう。

ただもちろん、地球物質界特有の共同意識というものはあって、いわばその「お約束」に合意しているからこそ、ここで生活していることも事実である。

であるので、そのお約束をかなり無視した現実を創造すると、この世界に生きるのが困難になるという面はあるだろう。具体的にいえば、他の人からは気が狂ったと見なされて病院に収容されたり、薬漬けにされる可能性が高い。決して間違った現実を創造しているわけではなく、あくまでその現実のバージョンが共同意識のバージョンと違いすぎて「共約不可能」になってしまったということである。

だから、共同意識と違うバージョンを作ってもいいのだが、ある部分では共同意識のバージョンに「戻ってこれる」能力を担保しておくことも、あっちへすぐに移行するつもりがないのなら必要になってくる。

その気になれば、人間がみな手を四本持っている(インドの神様のように)という現実を創造することも可能だ。でも実際にそのような現実が現れてきたらどうか。これまでの現実とあまりに違いすぎるので、たぶん私は、違う世界に来てしまったと感じることだろう。つまり、この前の世界においては私は死んだのである。寝ているうちか何か、気づかないうちに死んでしまったのである。つまりその前にいたバージョンにおいては私は死んでしまいその世界からいなくなるという現実が創造されたのだ。

しかしもちろん、時には手が四本の世界に行って、また手が二本の世界に戻ってくることもできる。二つの現実のバージョンを行き来できるということならば、これはシャーマンになったということを意味するだろう。

また、現実は自分が創造しているとはいっても、他の人(意識体)と現実創造をシンクロさせているという部分もかなりあるだろう。そうでなければ社会は成り立たない。物質界に生きるについてはある程度の合意が存在しているはずだ。

いろいろ考えるとおもしろいが今回はこのくらいにしておこう。

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