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『神の使者』その2

さてその後さらに読み進めたが、私はこの対話が実際に行われたのではなく、作者の創作であることをほぼ確信している。ただ、これは直観的なものであって証明はない。

結論からいえばこの本で述べられている霊性思想は私とは立場の違いが大きすぎて、受け入れることはできなかった。私は『奇跡のコース』を読んではいないので(セレクションの本は読んだが)、もし『奇跡のコース』がこういう思想だとするとそれも私には合わないことになる。

ただ、こういう違うものに接することによって、改めて私の霊性についての考えはどういうものなのか、確認することはできたので、そういうメリットはあったと思う。

簡単にいえばこの本は「世界とは幻想である、早く目覚めなさい、そのための方法は『コース』に書いてある」という主張をしているものである。

これは私たち東洋文化にいる人間からすればよくある主張であって、結局のところゴータマ・ブッダの仏教とはそういうものだし、禅もその本質を受け継いでいる。『コース』はそのための方法として聖霊の導きを重視するが、そういう思想も『バガヴァッド・ギーター』にほとんどそのままある。

しかしキリスト教神学としてはこれはかなり革命的な主張なのである。こういう本を読むときは、そういう神学思想の背景を理解するといいだろう。

どういうことかというと、伝統的なキリスト教神学――プロテスタントは知らないが、カトリックや正教系のものであると、キリストが「神でもあり人でもある」という二重性を持っていることが、キリスト教の鍵だと理解している。神性を持ちながら同時に人性も持っていることがなぜ重要かというと、そのためにキリストが媒介となって、神のエネルギーがこの地球界に流れこむことができるからである。それによって、この地球世界そのものが霊化、聖化され、ついには地上に神の国が実現する・・・これがキリスト教神学の基本的な方向性なのである。(もちろん「神のエネルギー」とかいうのは私の用語法であるが。また、近年ではこうした「地上世界の聖化」というイデーを捨て、ひたすらそれを「内面の変化」としてのみ解釈する神学も多くなってはいる。私はそれを一つの堕落ではないかとも考えるが)

ところが『神の使者』の神学は、この地上に神の国が実現するなどまったくの迷妄であって、イエスはいっさいそんなことは言っていない、と断言する。イエスが言っているのはひたすらに、エゴを転換し、世界という幻想に目覚め、世界への従属から離脱することだという。地上世界は一切価値がない虚妄の世界なのである。

このように地上の価値を否定し、それを聖化するなどありえないという考え方は、インド系の霊性では珍しいことではないが、キリスト教文化圏ではかなりの異端であって、それは通常「グノーシス的」だという批判を浴びることが多いのである。とりわけこの『神の使者』は、神は世界の創造に一切かかわっていないと断言するので、これは完全にグノーシス主義的だという表現が妥当する。

私自身ははじめ、こうしたインド系の霊性をかなり学んで、そこでは「修行によって幻想から離脱する」ことがめざされるので、いろいろな修行もしてしまったのだが、キリスト教神学を勉強していき、その影響を受けるにつれて、そうしたインド的、現世離脱的な霊性から離れてきた。そこで、『神の使者』(あるいは少なくともこの本が描くところの『コース』)は、ちょうど逆のベクトルを示していることになるのだ。

いま一部で言われているところのアセンションというのは、地球全体の波動が上昇していくということだから、たとえそれが2012年に一気に起こるわけではなく、ゆっくりとした変化であるとしても、この地上世界がある程度聖なる世界に近づいていくという可能性を認めているわけである。これはキリスト教神学的なイデーなのである。

で、本当にアセンションとも言われる地上世界の次元変化があるのかと言えば、その可能性もあるとは思える。しかしもちろん神の次元に行けるわけではなく、この宇宙に無数の次元がある中での、階段を一つ上るような感じだろう。神にまで行く経過では、いつか地球を去って別の領域へ移行することも当然あるだろうと思っている。その意味で私は、キリスト教の言うように最終的な完成がこの地上にありうるとは思っていない。部分的なことを全体と取り違えていると思う。ある程度は次元上昇はする、しかし地球としての限界はあって、それ以上は別の宇宙領域でやっていくものだろうと理解している。

しかしまた、ここでは、「現実には無数のバージョンがあり、何を選択するかという問題である」というテーマもかかわってくるようだ。これについては機会を改めて考察してみたい。

ともあれこういうふうに、私の思考を刺激する効果はあったということで、2700円を損したとは思わないが、この本それ自体としていえば、私はそれほど波動の高い本とは思えなかった。『神との対話』とはだいぶ落差があるし、作者の自演もかなり見えてしまう感じなので、それほど気持ちいいというほどでもない。かくして、私は半分くらいでリタイアすることとなった。ただ私にはあまり合わないが、ある状況、ある人にとってこれが役立つメッセージを含んでいることは否定しないので、私が何と言おうとも、自分がいいと思ったらいいということである。私たちはそれぞれ違う現実のバージョンに生きているのであるし。

ただ、対話そのものの全部が創作ではなく、それのもととなる霊的存在との交渉があったという可能性は否定はしない。その場合、その存在はおそらく、キリスト教初期のややグノーシス的影響のつよい一派に関係していた霊的存在のグループではないかとも推測できる。もともとこの時期のキリスト教はそういう考え方が一部として入っていたことは事実であり、私が上に述べた神学思想はその時期にはあまり発達していなかった。それを後世の創作といえばいえる。

私はこの前、本当のマスターであろうとなかろうとメッセージが問題だ、と書いたし、巷でもそんな言い方をよく耳にするが、やっぱりそれは違うかもしれないと思い直す。大事なのは言葉の意味だけではないのだ。そこにこめられたエネルギーの質の高さなのである。本当のマスターでなければありえない波動というものがある。そういうものが本の中にこめられているかどうかは、かなり本質的なことなのだ、と考えた方がいいように思える。

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