霊性の道における不易と流行
私はナスル先生の霊性思想にほぼ賛同しているのだが、一点だけ、違いがある。
ナスル先生の立場は、ルネ・ゲノンやフリッチョフ・シュオンの流れを受け継ぐものなのだが、「伝統主義」と言われる。あるいは「永遠の哲学」 perennial philosophy という言い方もあり、それをとって「ペレニアリズム」とも言われる。
英語圏ではこれは思想界の一角を占めているのであって、前に紹介したナスル先生の入門的アンソロジーは、その伝統主義思想の本を専門に出している出版社である。そういう会社が成り立つほどの読者があるということだ。日本では伝統主義に立つ有力な思想家がいないということが欠落だというのはすでに書いた(もう一つ、思想的な欠落をあげれば、「いい神話学者がいない」ということも日本の知識界の欠落だ。ジョゼフ・キャンベルの欧米における影響は非常に強いものがあり、霊性の復興に寄与している。日本の神話学者はとても小粒である)。
ということだが、この伝統主義というのは文字通りで、伝統によって受け継がれているものを尊重する、という態度だ。ナスル先生の場合はもちろんイスラムだが、当然ながら他の伝統の霊的な価値も認める。ただ自分はこれだ、と選ぶということである。ここで伝統の中核とは、「伝える」ということだ。トランスミッション、師資相承である。つまり、しかるべき伝統で伝えられたトレーニング・システムをマスターし、師匠となった人から教えを受けて、初めてちゃんとした霊性は伝えられる、という考え方だ。日本で言えば、禅の相伝とか、真言密教の修行体系などをイメージすることができる。そういうものが本物だ、という価値観が伝統主義である。
逆に言えば、そうではないものはちょっとあぶなっかしい、という価値観でもあるということである。
1960年代のフラワー・レボリューションから始まる精神性の運動は、こういう伝統主義的なものというよりは、もっと個人の自由な探究を重視したものである。伝統的に伝えられたワーク方法なども、そういう目的にアレンジしなおされたりする。
これは個人主義、individualism である。個人がベースとなって、霊性の世界を探究するという姿勢だ。ナスル先生は、こういうものをあからさまに批判しているわけではないが、あくまで伝統的なものが好きであることは明らかである。実はナスル先生は、実際に師匠についてスーフィズム(イスラムの神秘主義修行システム)の勉強をしているらしい。
イスラムのコーランももともと神から来たメッセージを書いたものだから、チャネリングなのである。宗祖ができたことを、現代の人間ができないと考える理由もない。コース・イン・ミラクルズも『神との対話』もチャネリングであり、成立原理はコーランと同じなのである。そしてドリーン・バーチューは、いろいろな本で、「あなたも高次元のメッセージを受け取れる」ということを繰り返し書き、それをすすめている。キリスト教の聖職者からすれば異端思想の最たるものであろう。
ここで私の立場を言えば、「不易流行」である。つまり、変わらざるものを尊重はするが、一方で、いまここで出てきているものは何らか出てくる理由があるので、それにも大いなる関心を払っていくべきだということである。実のところ、「流行」のほうも、基本は伝統的なものとあまり変わらない。ただ、その料理の仕方、切り口が新しくなっているということである。ただ、探究は基本的に個人を中心とし、伝統的な意味での「師匠」を持たないという形式になっているところが新しい。
いや、正確に言うとそれも新しくはないのである。このように、自由な個人として霊性を探究するという態度は、ルネサンスの思想家たちに見られたものだ。マウリツィオ・フィチーノなどはその代表である(フィチーノについては『魂のロゴス』にも登場している)。ある意味で、現代の思想状況はルネサンス時代に近いものになっていると思う。ルネサンス時代は、中世には知られていなかったありとあらゆる神秘主義思想や技法、違う宗教思想などがどっと流入し、その中から自分にフィットするものを選びつつ探究を進めるというスタイルが出てきたのだが、それは現代人の霊的探究にかなり似たもののように思われる。
つまり、ある意味では、現代はひじょうに特別な時代であるという認識も必要だ。その意味で、「不易」だけしか目を向けないのでは、かえってうまくいかなくなるのではなかろうか。禅や密教などのシステムで本格的にやろうというのは、すでに専門の僧侶になろうという人にしか合わなくなっている。現実問題としてふつうの社会人が仕事をしながらできるようなシステムにはなっていない。伝統の修行体系は基本的には「プロ仕様」なのである。そのままでは現代人に合わないということは考える必要がある。伝統主義だけでは足りないのである。
だから、そういうプロ仕様の世界から見れば「ライト過ぎて話にならない」ように思われたとしても、それは現代人のための一つの方便としては大いに意義を持っている、ということもかなりあるわけだ。
そういう、伝統だけでは提供しきれない、現代人のニーズに合わせた霊性への道を、「ヒーラー」のような存在が補っている、とも見ることができるだろう。その世界にもいろいろ問題があることは承知の上だが、基本的には存在意義のあるもので、出てくるべくして出ているものだと思う。時代はどんどん変化しているし、人類の置かれた状況は過去に例を見ないものである。新しい伝統を創造するという姿勢が必要である。過去のものはそのエッセンスだけ見て、外的形式はどんどん変えていかねばならない。シュタイナーの人智学にしたって、すでに100年たっているのであり、そのままでは使えない部分もいろいろ出てきている。
つねに、「不易」と「流行」を同時に見ている視点が大事なのである。この意味で、私はナスル先生の伝統主義には一定の留保をするのである。未曾有の時代には未曾有の発想がいる、ということも言えるのだ。なんといっても、人類はこれから、宇宙的存在とのコンタクトに向けて進まねばならないのだから・・(最後にちょっとだけぶっ飛びでした)。