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何でもありの世界

私のやろうとしているのは、研究・解説ということではなくて、新しいものを作るということである。べつに研究・解説を否定するわけではない。

現代的霊性とか、スピリチュアリティとかいう。私は、スピリチュアリティのようにこなれないカタカナ語を使うことはあまり好きではないが。

私がやっていることは宗教に類似した行為であるが、宗教ではない。宗教という枠には入らない新しい文化的形態であると理解している。

その新しい形について、いろいろ宗教学者などの分析も出ている。それにはいちいち触れないで、私の考え方だけを言うと・・

宗教と、今作られつつある新しい「宗教に似ているけど違うもの」の違いというのは、宗教はあくまで「作られた形」に依拠する部分が大きいということ、そして後者は、「意識がすべて」という考え方が基礎にあるということだ。このポイントを指摘したい。

たとえば儀式的なものにしても、「なぜだかわからないが、この型の通りやっていくことに意味がある」というものが受け継がれ、その通りに実践され、それなりの手応え(経験)を得る、というのが宗教のやり方だ。

ところが、新しいものは、その型が効果があるのは、それが効くと信じている、つまり「意識設定している」からそうなるのだ、ということを明確に知っているのである。つまり、自分の意識設定によって、いかなることも可能になるのだという理解をしているのである。

エネルギーワークの本質は意識設定にある、ということは何度も書いてきた通りだ。アチューンメントが効くのは、そのように意識を設定するからなのである。

さらに「すべては意識設定だ」という考え方は、「すべては意識だ」ということになる。「もの」というのは本当は何もないのである。あるのはただ意識がいろいろに作り出した無限数の現実のバージョンだけである。

その意味でいえば、たとえばミカエルのワークをしているからといって、ミカエルが「客観的に存在する」と素朴に信じているわけではなく(信じてもいいのだが)、それはいわば方便であり、いわば宇宙と私たちが共同でミカエルがいて助けてくれるという現実を創造しているのだ、と知っているわけである。

このように、何も固定したものはなく、何も「絶対に本当」なものはない。ただ、それぞれの本当、真実があるのみなのである。

マトリックス・エナジェティックスの創始者がワークショップの映像でこんなことを言っていた。チャクラの調整をしながら、「もっとも私はチャクラなんて信じてませんが」。その後に付け加えて、「それは、私は木も信じていない、という意味です。つまり、すべては意識によって設定されたものなのです」。つまり、「あると思っているからある」というあり方でしか「存在」というものはありえないのだ、という哲学があるわけである。こういう理解に立つことがきわめて本質的なことがらである。

こうした新しい「宗教に似ているが宗教ではない行為」を論じるに当たって、学者などは、どうしても「客観的現実がある」というスタンスに立ってそれを語ろうとしてしまいがちだ。そのへんに限界を感じるのである。哲学をもうちょっと入れてほしいという気がする。

だれしも、世界とはどういうものか、自分とはどういうものかについて「信じている」ことがある。すべての論は、そのフィルターを通して語られたものである。ニュートラルな視点などないのだ。ただ、多数派である集合意識にあまり抵触してない形で語られたものが「客観的」に見えるのである(それに価値がないとは言っていない。本質は何かという問題だ)。

その意味で言えば私の言うことなど、スサノオノミコトかシヴァ神のような「破壊行為」に映るかもしれないが、世の中にはこういうものも必要ではないか、と考えている。みなが同じことをする必要はないが。

エネルギーワークにしても、気功からレイキへ行くには一つ飛躍があるが、それがこの「意識設定の問題」なのである。気功はまだ、「意識がすべて」という考え方の革命なしに入れるからである(入れるということであって、深くきわめるにはやはり意識変革が必要になると思うが)。

そして、「意識とエネルギーは同じもの」という理解も本質的なものとしてある。

宇宙意識は宇宙エネルギーと同じだし、私の意識は私のエネルギーである。

この理解は、べつに新しいものではなく、インドや中国の伝統思想にはすでにあるものだと理解している。

ただ、伝統社会で作られた「型」をそのまま受け継ぐことには意味は少ないと思う。これだけ時代は激動しているのである。新しい型が必要になるのは当然のことだ。そして、たぶん、その型の賞味期限はかなり短くなるのではないだろうか。時代のエネルギーの変化とともに、どんどん作り直され、変容していくことになるだろう。型は意識によって作られた方便であることを明確に知っており、意識設定によって何でもできると完全に理解していることがポイントとなるのである。

知識人層の中でも、霊性に興味のある人は多いが、やはり、伝統的な型に寄り添った方が安全だという意識を持っている人が多いと感じる。見えざるラインがあるようなのだ。

「この世界は何でもありだ」と心底から感じることができると、世界の感覚はかなり違ったものになり、基本的に、怖いものはなくなるのである。

そのように、自己を解放する、自己に許可を与える、そのための抵抗を取り去る・・この要素がありさえすれば、どんな形でもいい。というか、形にこだわるというのはその目的からすれば矛盾そのものである。すべては方便である。

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