易行は引き寄せの法則に合致する
ついでながら伝統思想についての問題でもう一つ考えたいのは「修行」ということだ。正確に言えば「修行と易行」というテーマが日本の思想史には流れている。
特に私が関心を持つのは法然・親鸞などの念仏思想だ。
念仏も広い意味では修行かもしれないが、その意味合いが違う。
「修行のエートス」とは日本を貫いてかなりある思想である。戦後の復興を支えたいわゆる「スポ根」的なものもその変様である。
必死にがんばって、その結果として何かを勝ち取ろうとする。その過程に生き甲斐を見いだすというのがスポ根的心性である。これが宗教的実践であれば、その勝ち取るものは悟り、覚醒、高次の意識状態、神的な愛、といったものになるだろう。
だが、もしかすると、その「がんばって勝ち取らなければならない」という思いそのものが、その獲得をむずかしくしているところはないだろうか? 「引き寄せの法則」からすればそういうことになるのだ。つまり、その目指すものがいま自分にはない、という部分にフォーカスしており、そのためには自分を徹底的に追い込むまでやらねばならない、と考える。しかしこれは宇宙の法則からすれば、ものすごくむずかしいやり方かもしれないのである。
この点、易行である念仏とは、ただひたすら任せるのみ、阿弥陀仏を念じるのみである。
阿弥陀仏を念じるとはどういうことか。それは、宇宙の源にある「絶対的な愛」と接続することを意味する。それによって自分の波動を上げ、それによって結果的に苦しみから脱することができるのだ。
これはもしかすると波動の法則、引き寄せの法則に近い考え方ではなかろうか、と最近気がついてきたのである。こちらの方がずっと簡単なやり方なのである。
だから、易行というのは、むずかしい修行ができない人のための「簡易版」ではないのだ(創始者たちは最初そのように理解していたとしても)。「自分にないものを得ようとして努力する」という発想そのものが、かえって達成を遅らせるということに気づいたのではないか。自力を放棄し、ゆだねることによって、宇宙の根源との「常時接続」を可能にする方法を発明したのである。もちろん時代的なものもあり、そのまま現代に持ってこれるわけではないか、こういう易行の原理の再評価をしていく必要があるだろう。日本の霊性哲学には、易行の原理をベースにしたものが少ないのである。

