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霊性思想、宗教思想は「科学的合理性」を証明しなければならないか

幸福の科学大学が、設立申請不認可というニュースがあった。

普通、大学新設の申請というのは「出来レース」である。というのは、あらかじめ申請を希望する時は、事前に文科省に書類を見せ、ここをこう直せとかいろいろ「助言」を受けて書き直し、審議会に出てくる時は完璧な「合格答案」になっているものなのである。そこで不認可というのはまずあり得ない。今回の場合は、文科省も初めから認可させる気などなかったが、申請するなと言う権限はないので申請書が出されたのであろう。
それにしても、文科大臣の守護霊による霊言集を作り、それを文科省や審議委員に送るというのは、もしそれが認可に役立つと思っていたとしたら、世間の感覚とかなりのずれがあることは確かである。
世の中に宗教団体を母体とする大学はたくさんある。高野山大学、身延山大学、東京神学大学、天理大学など宗教者を養成する学部もあり、そこで宗教の教えが学問として教授されている。(そもそも大学という制度は、ヨーロッパにおいて「神学部」から始まっているのである。大学は宗教とは無縁でなければならない、という価値観は必ずしも普遍的なものではない)
ではなぜ幸福の科学大学はダメなのかと言えば、それは、その宗教の社会的認知度、社会的評価がまったく異なる、ということだろう。
だから本音を言えば「これは変な宗教だからそんな大学は作らせたくない」ということなのだろう。不認可はあらかじめ決まっている。そこから不認可の理由を考えたのである。「この宗教は仏教やキリスト教のような『ちゃんとした宗教』じゃないから、その教えを研究する大学など認められない」というのが本音なのだろうが、それは宗教について価値判断をすることだから、表向き絶対に言えない。そこで出てきたのが「科学的合理性を有しない」という理由である。
しかしこの理由付けは、かなり疑問である。たとえば空海の思想が「科学的合理性」によって証明可能なのかといえば、もちろん可能ではない。私のように霊性思想を研究した者からみれば、これは「認識カテゴリーのエラー」そのものである。物質次元にしか妥当しないはずの科学的合理性という基準を宗教の領域に持ち込むことは認識論的な誤りである。審議会は「科学的」と「学問的」を同じ意味であるかのように言っている。しかし、霊的事象について「学問的研究」でありえるということと、「科学的に証明可能」ということとは異なる。たとえば私の『普遍神学序説』は、その原型となる論文はいちおう学術誌において学術論文として承認されたものなので、「学問的」と判断されたことになるが、それは決して「科学的にその妥当性が証明されうる」ものではない。
宗教思想、霊性思想が「科学的合理性」を持つことを証明しなければいけないのであれば、高野山大学なども空海思想が科学的合理性を持つことを証明しなければならないのか。つまり、この論理には無理があるのだ。
私は決して、幸福の科学大学を認可すべきだったと言っているわけではないが、審議会の出したその「理由づけ」は、宗教思想を判断する基準としては、認識カテゴリーのエラーをおかしているものと思われるのである。
霊性思想が社会的に認知されるかどうかは、結局のところ「その社会の集合意識」がそれをどこまで受け入れるか、という相対的なものである。それは必ずしも合理的なものではない。昔であれば受け入れられたものは今は駄目かもしれないし、その逆もまた然り。幸福の科学大学は、本当は社会の価値観とあいいれないから不認可にしたいのだろうが、そうははっきり言えないというのが今の社会のしくみであるので、こういう苦しい理屈づけが出てくるのではなかろうか。つまり、「まとも」か「まともじゃない」かの判断は、本当は非合理的な、集合意識とも関わりで決定されてくるのであり、論理的に導き出されるものではないのが実際なのだ。でも表向きは論理的に述べねばならない。その辺の論理の構築がやや安易であったということになる。この後、訴訟も予想されるが、どのような展開になるだろうか。
これは「科学的」に実証できることではないが、霊性思想としてみるならば、「霊言」という現象、つまり高次元とコンタクトしてそれを言語に直し表現する、ということは過去においても広く行われてきた霊的事象であり、それ自体を「あり得ない」と否定はできない。私はそういう事象はあると考えている。キリスト教の聖書など世界の聖典と呼ばれるものは、そのように高次元のエネルギーが関与したものと考えられているのが普通である。だから問題はそれが「本物」、つまり本当に高次元とつながっているかどうか、ということになる。この辺になると世間の「常識」とは異なってくるが、古今東西の文化を見わたせば、一概に霊言をあり得ないと言うことはできない。さらに言えば、あると考えるかどうかは世界観の問題である。そこで「立証責任」を負うつもりはない。科学的証明がなくとも、そう考えるという権利はある、という意味である。

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