想像力と一なる次元・・私は「チャネラー」になるのか?
正直言って、哲学にはいろいろ限界を感じることの方が多いこの頃である。もともと私は文学畑出身で、神話の研究などをしていた。これまでに書いた本も、純粋な思想の本ではなく思想的文学というか、そのブレンドした形をめざしたものである。自分の表現形式としては、広い意味での文学の方がいいのではないか、という感覚はますます強くなっている。
学生時代にロマン主義の想像力論に興味を持ったというのも意味があったと思うのである。考えてみればこれまでやってきたこともその延長上にあるのだ。このところ改めて、エイブラムズの『自然と超自然』を読み返していたのだが、結局この路線で間違いはない、ということを確認したのである。現在、ロマン主義者であることには意味がある。それは、ますますそうなっているのだ。もちろん、21世紀のロマン主義者は、昔のヨーロッパと同じではない。しかし、現在のふさわしい形式があるはずである。
エイブラムズによれば、ロマン主義者の語るヴィジョンは、結局のところ一つの大きな神話的物語の変奏である。「変奏に過ぎない」というのではない。その物語は人間にとって、そして宇宙にとって本質的であるのではないか、ということである。その物語とは・・ずばり、プロティノスだというのだ。彼がそう断言していたことなどすっかり忘れていたが(笑) つまり、宇宙は根本的に「一」である、すべてが一つであるという始源の状態があって(「あって」というのは時間軸の表現だから本当は正しくないが)、そこから分裂した世界が生まれたが、その分裂を克服してまた始源の一に戻る、という物語である。井筒俊彦の思想にしたって結局はその変奏である(井筒は基本的にネオプラトニストだと私は思っている)。つまるところ、人類の思想はこれが中核なのだ。これでいいし、これ以上のことを考えなくてもいい。人間が人間以上のものになったとき、宇宙はまた違うように見えてくるかもしれないのだが、地球人である限り、この思想的物語を信じていい、と私は思っている。人間はニーチェが予言したように、人間以上のものになる過程にあるのだが(なんならそれを、地球人を超えると表現してもいい)、その過程において、これは人間がもちうるの最良の物語だと、私は感じるのである。
エイブラムズが書いてることを貼り付けておこう。
In the first place we can answer – if we are indulged the convenience of sweeping initial generalizations – that the basic categories of characteristic post-Kantian philosophy, and of the thinking of many philosophical-minded poets, can be viewed as highly elaborated and sophisticated variations upon the Neoplatonic paradigm of a primal unity and goodness, an emanation into multiplicity which is ipso facto a lapse into evil and suffering, and a return to unity and goodness. Natural Supernaturalism, p.169
人間は自分で自分を救済するわけだが(というのは人間の内なる神性がそれを導くのだ)、そのための方法として重要なものが「想像力」なのだ。
想像力は自分を「一の世界」、つまり神的な次元へと結びつける。これは現代においてどういう意味だろうか。
実を言うと、私はこれまで、実際に想像力を用いて、そうした神的、霊的な次元の体験をしてきている。そして、それが本質的にロマン主義者の体験と同じようなものだ、という理解を持っている。
神的な次元がある、それと自分の精神がつながっている、という想像をすることで、実際に、それは体験することができる。それをロマン主義時代はヴィジョンと呼んでいたのだが、現代でもそれはさかんに起こっていることなのだ。
誘導瞑想のようなものも、想像力の活性化によって、魂を高次元と結びつける手段だろう。
ということで、私は結局、そういうロマン主義的神話の中でこれまで生きてきたし、これからもそうするだろう、という確認をしたわけである。また、自分のこれまでの霊的体験の地平が、ロマン主義者のヴィジョン体験と本質的に同じであることにも気づいたということである。とすれば、今後はもっと大胆にそうした高次元世界へのイマジネーションを表現していってもいいのではないかと思える。
リサ・ロイヤルというチャネラーが、銀河の壮大な歴史を本に書いている。それは一見、荒唐無稽なように見えるが、実は、まったく、一なる次元からの離脱と帰還、というロマン主義神話と同一の構造なのである。それは何ら不思議なことではない。それが地球人類にとって最良の神話だからである。
それは、「事実」なのか。と気になる人もいると思うが、実は私は、こういうことに関しては「客観的事実」などがそもそも存在すると信じてはいない。私たちの現実はすべて想像力によって作られている。これは引き寄せの法則的な言い方だが、それも結局はロマン主義思想にその源がある(ただし、ロマン主義というのは、それまでの古代の哲学や霊的伝統をまとめたものなので、彼らが発明したわけではない)。
チャネリングという現象は古代からあるわけで、イスラム教の「コーラン」もチャネリングによってできている。これは想像力による現実の拡張、高次元との接触であろうと思っている。実は私も、このブログを、世間によくある「チャネリングブログ」にして、そうしたメッセージを載せるなんてことも、やろうとすればできるのだ。問題は、向こう側の存在をあまりに「文字通り」に、素朴実在論的に考えることにある。ランボーやロートレアモンみたいな詩的行為だと考えてもいいのではないか。向こう側の存在は、本当にあるとも言えるし、実はそれは私自身だと言ってもそれはまた違う次元で正しいことになる。それは本当はどちらでもいいことである。ただ、そうした存在は、向こうの次元と私との共同作業によって出現したペルソナだと私は解釈しているのだが。これについては、近いうちになんらかの形で、これをどう考えたらいいか、それを、ロマン主義からの精神史的伝統という意味から見て行くのもいいかもしれない。
ある意味で、「チャネラー」になるのは簡単なのだが、そういういま普通に世の中にあるチャネラーと同じことをするのではなく、そうした能力を活用する私なりの存在意義があるのではないかと感じている。