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想像力と一なる次元・・私は「チャネラー」になるのか?

正直言って、哲学にはいろいろ限界を感じることの方が多いこの頃である。もともと私は文学畑出身で、神話の研究などをしていた。これまでに書いた本も、純粋な思想の本ではなく思想的文学というか、そのブレンドした形をめざしたものである。自分の表現形式としては、広い意味での文学の方がいいのではないか、という感覚はますます強くなっている。

学生時代にロマン主義の想像力論に興味を持ったというのも意味があったと思うのである。考えてみればこれまでやってきたこともその延長上にあるのだ。このところ改めて、エイブラムズの『自然と超自然』を読み返していたのだが、結局この路線で間違いはない、ということを確認したのである。現在、ロマン主義者であることには意味がある。それは、ますますそうなっているのだ。もちろん、21世紀のロマン主義者は、昔のヨーロッパと同じではない。しかし、現在のふさわしい形式があるはずである。

エイブラムズによれば、ロマン主義者の語るヴィジョンは、結局のところ一つの大きな神話的物語の変奏である。「変奏に過ぎない」というのではない。その物語は人間にとって、そして宇宙にとって本質的であるのではないか、ということである。その物語とは・・ずばり、プロティノスだというのだ。彼がそう断言していたことなどすっかり忘れていたが(笑) つまり、宇宙は根本的に「一」である、すべてが一つであるという始源の状態があって(「あって」というのは時間軸の表現だから本当は正しくないが)、そこから分裂した世界が生まれたが、その分裂を克服してまた始源の一に戻る、という物語である。井筒俊彦の思想にしたって結局はその変奏である(井筒は基本的にネオプラトニストだと私は思っている)。つまるところ、人類の思想はこれが中核なのだ。これでいいし、これ以上のことを考えなくてもいい。人間が人間以上のものになったとき、宇宙はまた違うように見えてくるかもしれないのだが、地球人である限り、この思想的物語を信じていい、と私は思っている。人間はニーチェが予言したように、人間以上のものになる過程にあるのだが(なんならそれを、地球人を超えると表現してもいい)、その過程において、これは人間がもちうるの最良の物語だと、私は感じるのである。

エイブラムズが書いてることを貼り付けておこう。

In the first place we can answer – if we are indulged the convenience of sweeping initial generalizations – that the basic categories of characteristic post-Kantian philosophy, and of the thinking of many philosophical-minded poets, can be viewed as highly elaborated and sophisticated variations upon the Neoplatonic paradigm of a primal unity and goodness, an emanation into multiplicity which is ipso facto a lapse into evil and suffering, and a return to unity and goodness.  Natural Supernaturalism, p.169

人間は自分で自分を救済するわけだが(というのは人間の内なる神性がそれを導くのだ)、そのための方法として重要なものが「想像力」なのだ。

想像力は自分を「一の世界」、つまり神的な次元へと結びつける。これは現代においてどういう意味だろうか。

実を言うと、私はこれまで、実際に想像力を用いて、そうした神的、霊的な次元の体験をしてきている。そして、それが本質的にロマン主義者の体験と同じようなものだ、という理解を持っている。

神的な次元がある、それと自分の精神がつながっている、という想像をすることで、実際に、それは体験することができる。それをロマン主義時代はヴィジョンと呼んでいたのだが、現代でもそれはさかんに起こっていることなのだ。

誘導瞑想のようなものも、想像力の活性化によって、魂を高次元と結びつける手段だろう。

ということで、私は結局、そういうロマン主義的神話の中でこれまで生きてきたし、これからもそうするだろう、という確認をしたわけである。また、自分のこれまでの霊的体験の地平が、ロマン主義者のヴィジョン体験と本質的に同じであることにも気づいたということである。とすれば、今後はもっと大胆にそうした高次元世界へのイマジネーションを表現していってもいいのではないかと思える。

リサ・ロイヤルというチャネラーが、銀河の壮大な歴史を本に書いている。それは一見、荒唐無稽なように見えるが、実は、まったく、一なる次元からの離脱と帰還、というロマン主義神話と同一の構造なのである。それは何ら不思議なことではない。それが地球人類にとって最良の神話だからである。

それは、「事実」なのか。と気になる人もいると思うが、実は私は、こういうことに関しては「客観的事実」などがそもそも存在すると信じてはいない。私たちの現実はすべて想像力によって作られている。これは引き寄せの法則的な言い方だが、それも結局はロマン主義思想にその源がある(ただし、ロマン主義というのは、それまでの古代の哲学や霊的伝統をまとめたものなので、彼らが発明したわけではない)。

チャネリングという現象は古代からあるわけで、イスラム教の「コーラン」もチャネリングによってできている。これは想像力による現実の拡張、高次元との接触であろうと思っている。実は私も、このブログを、世間によくある「チャネリングブログ」にして、そうしたメッセージを載せるなんてことも、やろうとすればできるのだ。問題は、向こう側の存在をあまりに「文字通り」に、素朴実在論的に考えることにある。ランボーやロートレアモンみたいな詩的行為だと考えてもいいのではないか。向こう側の存在は、本当にあるとも言えるし、実はそれは私自身だと言ってもそれはまた違う次元で正しいことになる。それは本当はどちらでもいいことである。ただ、そうした存在は、向こうの次元と私との共同作業によって出現したペルソナだと私は解釈しているのだが。これについては、近いうちになんらかの形で、これをどう考えたらいいか、それを、ロマン主義からの精神史的伝統という意味から見て行くのもいいかもしれない。

ある意味で、「チャネラー」になるのは簡単なのだが、そういういま普通に世の中にあるチャネラーと同じことをするのではなく、そうした能力を活用する私なりの存在意義があるのではないかと感じている。

哲学から排除されている「霊的認識」

この前書いたような、ハイデッガー=木田元的な思想史理解を、別に信じているわけではない。ただ、西洋哲学とは普遍的なものではなく、ヨーロッパ文化に固有のものだという考えに賛成しただけである。私のイメージでは、ヨーロッパでも中世はかなり違う時代だったと思う。決してハイデッガーの言うような形而上学による存在忘却の時代ではない。エティエンヌ・ジルソンを読むと中世哲学の深みが多少理解されるはずである。また、ヨーロッパ中世には、宇宙の神秘にどっぷりと入り込んだ思想家もいる。ヨハンネス・スコトゥス・エリウゲナ、擬ディオニュシウス・アレオパギタ、マイスター・エックハルトの三人である。この中で、特にディオニュシウスは、ずっと昔から私の思考のそばにずっとあったのである。ヨーロッパ中世とは暗黒と言うより光を求めた時代である。この光の忘却ということこそ近代哲学に起こったことではないだろうか。今のところ、やはりそれは唯名論に始まっていると私は思うのだが、今度またゆっくりとジルソンなどを読んで考えてみたいのである。

さて、今度は、ジョスリン・ゴッドウィンの『黄金の糸』というkindle本を読み始めた。これがめっぽう面白いのである。ゴッドウィンは西洋の秘教的伝統の研究者で、碩学と言ってもよいのだが、この本ではかなり肩の力を抜きつつ、西洋の秘教的文化の流れをたどってくれている。この本を読んでみてびっくりした。「おぬし、できるな」という感じで、つまり、かなり「わかっている人」なのである。近代文化の常識にとらわれず、宇宙とはどういうものかがかなりわかっているということである。つまり、「近代的学問空間」を自明の前提とせずに見ることができる人である。

秘教的精神史というのはフランシス・イエイツなどから開始された分野で、日本でも多少は訳されているが、このゴッドウィンのように古代から近代までを一望の下に収めるような視野を持ち得ている人は、残念ながら日本人にはあまりいないようだ。特に、その伝統が、今日の「精神世界」の隆盛と、どのように密接につながっているか、という視点が今の日本には欠けている。日本人は、ヨーロッパ文化というものへの見方をかなり大きく変える必要に迫られている。それはヨーロッパが生み出した「普遍」というのは本当に普遍なのか、という問いにつながる。いわゆる「いかがわしい」とされるものも含めて、ヨーロッパ文化を総体的にとらえ直し、その中でいわゆる「哲学」という営みの特殊性を浮き彫りにしていくような見方が必要である。それは「知的」とされるものと「霊的」といわれるものとの高次の合体をめざすことにつながる。近代ヨーロッパの呈示している「知的」というものはあまりに狭すぎるものなのである。しかしそのルールに縛られている「学問」をやっている限りその限界は見えてこない。

ポイントは、「霊的認識」というものが人間には可能か、という問いである。その問いがあるということが、いま書かれている哲学の歴史では隠蔽されているのではないか、ということである。哲学は霊的認識があるという前提に立たず、理性的推論のみによって行うべし、という「ゲームのルール」は果たして普遍的に妥当するか――この問いを、「哲学者」は問うことができるであろうか。

ギリシア哲学から中世のキリスト教思想は、霊的認識の可能性というテーマが含まれているのだが、そうした問題構成は、まったく無視されている現状である。
哲学でメシを食うことになってしまうと、そのような食えなくなりそうなことは言えなくなるものである。存在被拘束性というやつである。

それはともかく、この『黄金の糸』のどこが面白いのかということをまた今度書いてみようと思う。

「反哲学」の徹底した遂行のために

時々、難しいことを書いているが、別にここは学問的考察をする場所ではない。あくまで気楽に書きたいことを書く場である。
私も、「学者」という枠からは完全にはみ出している。前にも書いたが、「ヒーラー」という名前で活動している人たちと同じようなことができたりもする。
しかしながら、実は、今の社会において「学問」とされているものが、ある世界観の中に拘束されているものではないのか、ということもある。私はあくまで自由に生きようとしているだけで、そのような、社会が勝手に引いている境界線を無視しているということである。

木田元の『わたしの哲学入門』という本を読んだことがなかったので、ちょっと読んでみたのだが、けっこう面白かった。これがはたして、初心者のための入門書になっているかはよくわからないが・・ どうも話があちこち飛びまくるが、書いてあることはなかなかおもしろいので、これは、むしろ多少は哲学の知識がある人が楽しめる本ではなかろうか。

そこで木田氏が最終的に「反哲学」の立場に行き着いたことを述べている。反哲学というのは、つまり、哲学というのは西洋文明に固有な特殊な営みであって、その歴史はもう終わったのであるから、今更私たちが哲学をやる必要はないのだ、ということである。そういう特殊な立場としての哲学を相対化する立場を反哲学という。これを彼はハイデッガーから学んだわけだ。その視点から西洋哲学史をまとめようとしているわけで、いちおう、西洋の哲学史全体に対するイメージを与えてくれるという意味ではなかなか爽快だ。

かといって、ハイデッガーの言っている西洋哲学理解がほんとうに妥当なのかどうか。この本では、形而上学的な立場が同時に物質中心的な世界観をセットで生み出しているのだ、と書いている。形而上学的な立場というのは、具体的に存在するものから離れて「存在そのもの」を考えようという立場のことで、主としてプラトン以来のイデア的思考をさす。そうすると、イデア的な精神界と物質界が分離することになるので、物質界がおとしめられ、自然を物質とみなし、物質を支配しようという文明が生まれたのだ・・というような論旨になる。

この見方は、私が今まで勉強して理解したこととはちょっと違っている。キリスト教神学は「存在」を神と見たわけだが、その場合、モーゼが受け取った神の名前である「私はあるところのものである」の深い神秘の感覚は保持されていたはずだ。トマスの神学にしても、あらゆるものに形相的なものが多少は配備されているので、万物に神が浸透しているという世界が描き出される。自然は神の息吹に満ちているものと見なされていたはずだ。それはボナヴェントゥーラの神学などにもよく見られるとおりだろう。

ただ木田が、アウグスティヌス的な原理がこうした豊かさを奪ったというのはある程度言えることで、つまり、神については完全に信仰の対象となるだけで、知的考察の対象にしてはならない、という原理を唱えたのはドゥンス・スコトゥスやオッカムらの神学者だったのだ。このスコトゥスが「存在の一義性」という概念を持ちだし、「存在そのもの」を具体的存在から切り離して論じ始めたのが、自然から神の息吹を奪ったのである・・という考え方があって、ミルバンクなどラジカル・オーソドキシーの論者たちが主張している。とすれば、ハイデッガーの言うような存在忘却はプラトンではなくそこに始まったということになろうか。歴史的に、プラトニズムは豊かな、霊に満ちた自然観を生み出している。ヨーロッパの歴史においてプラトンとは新プラトン主義にキリスト教がブレンドしたものとして受けつがれてきたので、擬ディオニュシウスの描く世界は、霊的な光に充満した世界である。またそこに、さまざまな神秘学的な伝統も生まれている。つまり、プラトンに形而上学的思考(ハイデッガーの言う意味での)の端緒を見るのは、近代的な存在概念をそこに読み込んでいるのではないか、とも思える。

新プラトン主義には、たとえば、イアンブリコスという哲学者がいたが、この人は哲学者とは言っても、本格的に「実践」をやった人で、向こう側にいる天使とかそういう存在を呼び出したり、対話したりすることも平気でやっていた。ルネサンス期のフィチーノだってけっこう似たようなものである。どうも私の先輩のような気がしてしかたがない。しかしこういう人々は西洋哲学史では思い切り異端とされていて、語られることは少ない。

反哲学というのは大変けっこうなコンセプトなのだが、木田元くらいの見方ではまだまだ反哲学として十分ではない。それは、西洋以外の他の文明、たとえばインドなどの思想状況を見れば明らかだ。つまり、知識とは必ずそれを直覚する実践がともなわなければならない、というのがインド的な理解なのだ。また、知識を得るとは、単に頭脳的な次元ではなく、「全人間的変革」をともなうものである、との認識も、東洋は持っているのである。たとえば、もし空海を語るなら、空海の見ていた世界を自分も実際に見なければ意味はないということである。いや、これは別に東洋だけではなく、西洋もそうなのだ。井筒俊彦の『神秘哲学』という本は、ギリシア哲学を扱っているのだが、そこを指摘している。古代ギリシアは、実は東洋の一部なのだ。つまりここで「西洋哲学の伝統」というのは、なぜか、「全人間的変革をめざすことや、そのための実践、直観的な認識などを持つことなく、理性のみにより、合理的、論理的論述を通じて、世界の構造を明らかに示すこと」が可能であると理解し、その行為を哲学と呼んで学問的伝統の中に位置づけた。このことこそが哲学が西洋固有の特殊な営為であるということである。東洋の伝統は、論理的な推論のみによって世界の真実が明らかになるなどということを信じたことはない。そのようなことが可能だということ自体は論理的に証明することができないので、一つの信念と言ってもよい。

なぜこのような哲学概念が生じたのか。今それを明らかにするのはあまりに大変になるので立ち入らない。しかし、それがプラトンに始まったわけではないのは確かだと思う。プラトンにおいてイデアは霊的に直観するものであって、けっして対象として思惟するようなものではない。理性と言われるのは、ギリシアではヌースというのだが、それは一種の叡智であって、決して近代の合理的知性と同じではない。では、キリスト教神学ではどうなのか、スコトゥスの存在の一義性なのか、と、いろいろ研究してみないとわからない。

であるから、東洋人的な思想のあり方から発して、西洋哲学を根本的に相対化するという視点が必要なのだ。そのような壮大なことができそうなのは井筒俊彦くらいだったが、残念ながら西洋哲学の根本的見直しは書かず、別次元に移行した今ではどのようにしたらよいであろうか(私はとても、そんなことはできない)。日本のインド哲学研究のようなものも、西洋人的な思想研究の習慣を持ち込んで、自分自身の霊的直覚という次元を切り離したまま研究することが可能だと考えられているから、話にならないのである。それでは植民地的学問に過ぎない。頼りになりそうなのは、セイイッド・ホセイン・ナスルくらいではないだろうか。

もしそういう見直しが行われるなら、西洋人はまったく評価しないような、イアンブリコスとかフィチーノ、パラケルススなどが思想史の重要な人物として取り上げられることになるかもしれない。

話をハイデッガーの西洋哲学理解に戻すけれども、私は、イデア論の考え方が自然を疎外する発想だという見方には立てないのである。それはイデア論が生み出した豊穣な霊的世界観が実際に存在していたからである。イデアの認識は決して対象的認識ではない。むしろ、中世末期の唯名論でイデア論が徹底的に破壊されたことが近代を準備したのではないかという見通しを持っている。これは私だけでなく多くの人が論じていることである。自然がイデア性を含むというのは、植物にも動物に霊的原理があり、人間とともに宇宙に住まう他者としてある、という意味である。イデアがあるということは、ここに実際にいる存在(事実存在)が霊的に満たされてあるということなので、こういう発想はハイデッガーにはないものだったろう。

ハイデッガーとか木田(もしかすると中沢新一なども?)が見ようとしている、生成としての自然の世界に決して反対しているわけではなく、それを見ることはすばらしいことである。だが世界はそれだけではない。そこに必要なのは「霊的な他者」がこの宇宙にはいるということだ。それは近代では、学問の領域から排除されている。この宇宙には非物質的な存在者がいるのではないかと言ったとたんにそれはオカルトになってしまう。そもそも、五感のみを知識の根拠とするという近代知識体系のイデオロギーを信じている限りそうなる。しかし、問題は、「認識の拡張」であるのだ。非物質的世界を直観する認識作用が人間にはある、ということは一般に伝統思想では認められていた発想である。なぜそれがいま、公共空間から厳しく排除され、「宗教」の私的領域だけで許されるという社会になっているのか、という問題だ。

そこで、反哲学のより徹底した遂行が期待されるところである。それは、哲学史を広義の精神史へと解体する作業になるだろう。そして、思想のあり方として東洋の伝統に立脚した判断基準が採用されることになる。
そして根本的な原理は、「人間の本質的自由」である。これは、その世界を自分で創造する自由である。なぜこの自由があるかと言えば、それは人間は宇宙創造者の分肢であるからであり、根本的に同質だからである。その基本原理に基づいてすべての思想史を解体し、再構築するのだ。

哲学は「すべてなるもの」を捉えられたか

私は学部時代には「ロマン派、特にコールリッジにおける想像力」というようなテーマをやりたかったのだが、その当時では、十分な文献も手に入りにくく、またそれに取り組むだけの知識や学力がなかったと思う。今はいろいろな文献が出ているし、検索すればすぐにわかる。大学院に入ってから『自然と超自然』を、もちろん当時翻訳はないから英語の Natural Supernaturalism を苦労して読み、ようやくわかってきたということを覚えている。その当時の大学教育というのはかなり適当なもので、ほとんど放任に近かったから、そのテーマをやるためにはどういうことを知っていなければならないのか、何もわからないままであった。で、結局は想像力のテーマはやめて、詩の作品の方を、当時よく読んでいたユング的深層心理学みたいに読み解くという感じになったことを覚えている。しかし、「クブラ・カーン」とか「クリスタベル」のような詩は、なんだか存在の深い部分に触れるような気がしていたようである。

大学院に入ると、その当時は中沢新一の『チベットのモーツァルト』とか、浅田彰の『構造と力』などがはやっていた。そこで私も、フランス現代思想が次々に訳されていくのに注目したのだが、そのときになんとなく魅力を感じたのはデリダという思想家だった。特に「ファルマコス」というギリシアにおける両義的概念について論じたものがあった。ファルマコスというのは現代西洋語でも pharmacy というように「薬」の意味なのだが、なんと同時に「毒」でもある(毒という意味は現代語にはないが)。薬も量を過ごせば毒になる、と理性的に片付けることもできるのだが、何かそれだけではなく、存在の深みを追求するような趣がデリダにはあり、それに魅力を感じた。つまり、「この存在の世界が成立する、そのぎりぎりの基底には何があるのか」という問題意識を感じ取っていたのだろう。

今思えば、現象学を理解しなければデリダがわかるはずもないのだ。しかしそのときはそういうことがわかっていなかった。デリダが存在の基底を追求することだけはわかったのだが、私はそれは、折口信夫とどこか通底するような直感を抱いた。そこで折口信夫の「始原論」とデリダの「ファルマコス論」をつなげようというのだが、しかし当然、デリダ的な文脈から見れば始原論などは形而上学的構成の最たるものであるから、論理的には矛盾をきたす。そのあたりは、口頭試問で渡辺守章氏に見破られたが、まったくその通りではある。

こんなことを書くのも、先頃亡くなった木田元氏の著書を読んでいるのだが、この人はけっこう、自分の若い頃の話を繰り返し書くので、それにつられたところもある。私もこの大学院時代に現象学からハイデガーにいたる「存在の問い」についての手ほどきをどこかで受けていたら、回り道をしなくてもよかったろう。なぜか、ポスト構造主義といわれて軽薄なニヒリズムの肯定みたいに理解する風潮もあったが、デリダが強靱な「存在の基底への問い」を持っていると思った私の直観は間違ってはいなかった。だがそれを理解するためには、フッサールとハイデッガーをわかっていなければいけなかったのだ。

木田氏はユクスキュルなどの生物学のモデルからハイデッガーの世界内存在を説明することをよくするが、私の場合、今西錦司の『生物の世界』を読んで、これと同じようなことをヴィジョン的に受け取った。むしろこれはライプニッツの発想から入ってもいいと思ったが。現象学は何にも還元できない絶対的に疑えない根本事態を見ようとするのだから、生物学を説明原理に持ち出すのはやや反則ぎみではある。

「世界はなぜこのようにあるのか」という問いは、「世界は必ずしもこのようでなくてもいいのではないか」ということでもある。極端に言えば、ハリーポッターのように人間が空を飛ぶことができるような世界がそこに成立していてもいいのである。しかし私には今こういう世界が現実としては現れている。なぜこの世界なのか、ということである。そして、それを「主観性」に求めることはできない、というのが西洋哲学の歴史で解明されたことの一つである。つまり意識的に行うことではないのである。

そこでハイデッガーは「存在了解」という言葉を使うのをやめて、「存在の生起」などと呼ぶようになった。あるいは「起こること」としか言いようがない、ということになる。

しかし、このハイデッガーの「転回」は、謎を残す。そもそも人間(ハイデッガー的には「現存在」というのだが)は、その世界から「自由」であるという性質を根本的に持っている。つまり、自分の現実を変えるということである。その本質的な自由は、この「生起」のパラダイムでは、語ることができないのではないのか。

要は、ハイデッガーの分析では、世界が立ち上がるのはまさに「いま・ここ」でしかなく、過去も未来もすべてその場所から分岐して、あるがごとくに見えてくる、という事態は見ることはできる。言ってみれば、そういう永遠の今に入ることが、本来的に存在することだというような示唆が出てくるのだが、世界はなぜこのようにあるのかというときに、何が動いているのかということは、語られていないのである。

私は、ロマン主義文学から出発したこともあり、ロマン派的なヴィジョンに親しんでいる。実は、今度キンドル版で、「無限の詩学」という小論を刊行する。これは、ロマン派的なヴィジョンから受け取ったものを、万葉集にも応用して、詩から「無限性」への直観を取り出す試みであり、もう十数年前に書いたものである。読んでみると、ハイデッガーのヘルダーリン読解にかなり影響されている文章だなと思うが、その当時に自分の持っているものはかなり出せたと思っている。

しかし・・ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」などを読むと、「すべてなるもの」「一なるもの」と合一する至福の境地が語られていたりする。最近また、「ヒュペーリオン」をドイツ語で読もうとしているのだが、この作品のものすごい霊的なエネルギーに圧倒された。

つまりこれは、人間(現存在)は、自己の体験しうる地平を無限に拡大し、それを宇宙規模にまで広げることも可能であるということではないのか。人間はそのような無限性の体験へと開かれた存在ではないのだろうか。すなわち、「存在了解を無限に拡大しうる可能性」を持つものとしてある、ということだ。

人間の存在が、いま・ここにおける存在了解によって成り立つならば、その了解の地平を拡大することも可能なのである。それらすべては、現実である。人間が体験しうることはすべて現実であり、非現実は何一つない。

このようなことになるわけで、この辺のことは、『魂のロゴス』や、今度刊行する『叡智のための哲学』にすべて書かれている。書き尽くした、と思っているのだが・・ なかなか世の中は、理解してくれない。

ちなみに、木田元氏が言うには、ハイデッガーは存在を「成る」ものと見なし、決してそれを対象化して考察しない(それが西洋の形而上学的伝統をなす、とされるが)、それは前ソクラテスの思想家に見られる、という方向へ向かったようだ。そしてこれは日本の古事記にある「むすひ」の世界に通じる、とも木田氏は言っている。

れれれ・・(なぜここで「レレレのおじさん」なのかよくわからないが)、むすひの神学? それって中沢新一や安藤礼二の世界ですか? もしそうだとしたら、それはちょっと違うのではないかという違和感がどうもやってくる。

私は『古事記の神々を読み解く』も書いているが、むすひの神はすでに現象化が開始されているステージなのだ。私たちが真に、存在の基底とみなすべきは、むすひではなくて「あめのみなかぬし」の名で指し示されているものである。これは日本の伝統によれば大日如来でもある。

宇宙すべてとしての私に目覚めることを東洋の霊的伝統では目標にしてきた。これがヘルダーリンも直観した ALL の世界だ(ドイツ語では「アル」と読むが)。ALL THAT IS である。これをギャラクティック・アウェイクニングとも呼ぶのである。

その地平は、ロマン主義の中にはあったのだが、それらがすべて、哲学の歴史の中で視界にとらえられたわけではない。つまりこれはある意味では、宇宙的な目的論でもある。その直観はヘーゲルにはあったと思うが、現代人はまた違った表現を必要としている。

これを語るには、哲学の中にいたのでは限界がある。一歩踏み越えねばならない。それを「普遍神学」と呼ぶのである。

霊性思想の二つのポイント

私もいちおうそこに属している、日本で「スピリチュアル」とか「精神世界」と言われている運動は、学問的には「新霊性運動」とも呼ばれる。それは宗教に代わりうる新しい精神性を示している、などと語られたりする。
基本的にこれは、近代西洋文明の「次」をめざす思想運動であるとも言いうる。私がこのようなブログを書いているのも一つの思想運動である。近いうちにサイトも立ち上げたいと思っているが。

21世紀に入ってかなりの月日が経ち、2010年代も半ばになってきて感じることは、「ますます現実が可塑的なものになってきた」という感覚である。
つまり、現実というものが「柔らかいもの」であり、現実と非現実(あるいはもう一つの現実)の間にゆらめいているようなもの、という感覚である。こういう感性は、村上春樹の最近の作品などにもあると思う。
いいかえれば、「客観的な現実というものはない」ということである。

実は、哲学では、この「客観的現実はない」という事態が、次第に明らかにされていった。このはじまりはカントの哲学だったのだが、途中を省いて言うと、最終的に現象学というもので、現実がどのようにして立ち上がるのか、その根本にかなり迫った。

ハイデッガーの有名な本に『存在と時間』がある。この本は未完であったと言われるが、要するに、私がここに存在するということは時間を紡ぎ出すこと、というわけだ。過去も未来も、今ここに存在するところから発生している。そこから一つの「世界」を作って生きることになるわけだが、この「世界」というのは、必ずしも、今あるのと同じようである必要はないのである。つまり、違う世界を構成して生きることも可能なのである。ではなぜ今ここにこういう姿の現実ができているのかというと、それが「歴史性」ということになるのである。

つまり、「現実」は変えられることになる。なぜかといえば、それは客観的にあるものではなく、構成されたものだからだ。その構成原理を変えれば違う現実になる。そういう単純なことなのだ。こう考えれば「引き寄せの法則」も合点がいく。

かといって、この「現実」を構成するというのは、決して「私」、すくなくとも私の自我意識のレベルで起こっているのではない。それならば簡単なのだが、そうではない。それをしばしば無意識とか潜在意識という名で語ったりする。そこで、潜在意識を変えて現実を変えようという発想も出てくるわけだ。それには一定の根拠はある。

しかし、現実を生み出しているものが何であるかということについては、西洋哲学はまだ語れていないようである。何とも言いがたい謎にぶち当たるのである。根源的な媒介性とか、いろいろ言っている。

ところが、仏教の唯識思想に言わせれば、それはアラヤ識だ、ということになる。アラヤ識というのは、個別的存在としての私の根源のようなもので、誤解を恐れずいえば「魂」のようなものだろう。それがこの世界を構成している。そのようにはっきり言い表しているのだ。私の『魂のロゴス』等は、このように現実構成をするものをはっきりとアラヤ識であり、それはまたプロティノスが言っていた個別的な魂であると言い表してしまおう、という考えから成り立っている。もちろんそれを言い表すのは「形而上学」ではないか、という批判が西洋哲学から出てくるのは百も承知である。しかしもともとこういう東洋哲学におけるコンセプトというものは、最初からそれを実体と見なして論じているわけではないのである。それは方便である。それを実体化して語っては間違いであることなど先刻承知の上でやっていることである。

このように、「現実を生み出すものは何であろうか」という西洋哲学の歴史の最後に出てきた問いを受けて、それを西洋哲学的なゲームのルールでは解決不能だと見極めた上で、あえてそこを踏み出す。それが私の思想のまず第一のポイントだ。

第二のポイントがある。それは、この霊性運動はもともと、ヨーロッパでは「公式」になりきれなかった様々な西洋の精神史的伝統を引き継いでいるという面もある。それがもっとも強く表れたのはロマン主義である。ロマン主義で出てきたテーマはまだ終わってはおらず、それが現在の霊性運動へとつながっているという面もある。

これまた詳細を省いて大きくものを言ってしまうと、いろいろな研究の結果、ヨーロッパの精神的な伝統というのはつまるところ「新プラトン主義とキリスト教の合体」した世界観であると思われる。これをよく書いているのが有名なラブジョイの『存在の大いなる連鎖』という本である。つまり、世界とはもともと大いなる一つであったのだが、それが無数に分岐し、さまざまな世界を作り出し、それらが織りなされ、その中の一つの世界に私は生きているのだが、いつしかまたその大いなる一つに戻っていくことになる、そういう宇宙規模の旅をしているのである、というヴィジョンである。

こういう世界観は完全にロマン主義のなかにあって、エイブラムズの『自然と超自然』という本で詳しく説明されているのだが、私が『魂のロゴス』などで描いた世界観はまったくこのロマン主義そのものと言ってもいい。つまり私は、あえて「確信犯的なロマン主義者」として書いており、それが現代の学問として受け入れられにくいことも百も承知の上でやっている。私はロマン主義の「研究者」ではなくて、フィールドに立つ現役のプレーヤーであることをめざしたのである。

しかしこれは、きわめて西洋的なヴィジョンなのである。東洋思想には、ないことはないがかなり部分的なものでしかない。仏教に弥勒下生とか仏国土の建設という思想はあるけれども、「すべてが一つに戻る」という世界完成のヴィジョンは、ヨハネ福音書に始まるものであり、西洋的霊性の根幹をなすものである。すべてが一つに戻ったとき宇宙のサイクルが完結するという壮大なヴィジョンは、ヨーロッパ哲学の開始期にもエリウゲナに存在していたし、その末期的なねじれた形のものがヘーゲルのヴィジョンだったのである。

こうしたヴィジョンは日本の伝統にはなかったものだった。丸山真男の古典的な『日本の思想』などによると、日本人がこの「歴史がある完成へ向かって進んでいる」というヴィジョンに接したのは、マルクス主義が最初であったという。もちろんマルクス主義はヘーゲルを倒立されたものだし、そのヘーゲルのヴィジョンは西洋の深い伝統であるキリスト教+新プラトン主義で宇宙進化論に由来するのだが、それは当時の日本人には見えるはずもなかった(今でも見えてない人が多いわけだが)。

表に出ている西洋思想だけを見ていると本当のヨーロッパ文明がわからないのではないか。そういう、公式的な歴史から漏れ出ている、排除されているものに深いものがある。だから、西洋哲学史は本当は「反哲学」「非哲学」とどう境界線を引いてきたのか、という視点から見直さないといけないだろう。木田元の「反哲学史」も、残念ながらそういうものではない。

このキリスト教+新プラトン主義の伝統の中に、いわゆる「魔術」と言われていた、異次元と交流するようなワザもいろいろ含まれていた。いわゆる秘教的伝統である。西洋の精神史的伝統はそのような要素も含み混んでいる。その流れは絶えることなく、ルネサンス期に教会の権威が弱まると表に出てきた。そこにパラケルススなどが活躍したのである。この流れはそのままロマン主義へ流れ込み、それはアメリカに飛び火して超越主義からニューソートへ至り、それが今日のいわゆるニューエイジの思想的な源になっている。ここまで大きく流れを見切ることが必要である。(「アセンション」というのも完全に西洋的霊性から来るコンセプト――私流にいえば「イデー」――なのである。)

そうすると、今の日本で「精神世界」に入っていくということは、西洋的霊性とも本格的に対決し、咀嚼するということになる。仏教や神道的な伝統だけでは、日本の霊的思想は目覚めなかったのである。何らかにそこに西洋的霊性との交差による刺激があって始めて、日本人の霊的な目覚めが促されたのであろうと思う。そのような西洋的霊性をはっきりと認知して、そのイデーを受け入れることで、自分の中で東西の伝統のブレンドとハーモニーを生み出すということである。それが今、起こっていることではないだろうか。

現在、西洋の思想界では「形而上学批判」がトレンドになっている。これはキリスト教+新プラトン主義の伝統を否定することになる。彼らにとっては、いっさいの超越的な原理を立てずにかつ霊的でありうるという可能性が、とても新鮮に感じられるのではないかと思う。

だが、東洋文化の伝統に立つものからすれば、もうそれは禅がやったことではないのか、と思うのだ。いまさらそれは珍しいことではない。いっさいの超越的なものの言明が結局は全部ウソ(方便)であり、手段としての神話的表現にすぎないなどということは、禅では初めからわかりきっていることなのである。西洋人には珍しいから夢中になっているだけで、東洋人がそれをおもしろがって、これが思想の最前線などと思い込むのはつまらないことだと思う。

むしろ、日本人に必要なのは、西洋的霊性との対峙なのだ。言い換えれば「神とは何なのか」とか、「宇宙を導く超越的な原理というものがあるのか」というような問いを引き受け、考えることなのである。その意味で言えば、中沢新一氏などの思想も、西洋哲学における形而上学批判の問題圏に属するものであり、西洋的霊性との対決を回避したものであるように思えるのである。神なしで霊性を考えようとする道を、いま考える必要があるのか。私たちに必要なのはむしろ「新たな神学」ではないのか。もちろんこれはキリスト教に限定されない普遍神学なのである。

以上のような「西洋的霊性を取り込む」ということが、私の思想には含まれている。これが第二のポイントということになる。

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