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霊性思想の二つのポイント

私もいちおうそこに属している、日本で「スピリチュアル」とか「精神世界」と言われている運動は、学問的には「新霊性運動」とも呼ばれる。それは宗教に代わりうる新しい精神性を示している、などと語られたりする。
基本的にこれは、近代西洋文明の「次」をめざす思想運動であるとも言いうる。私がこのようなブログを書いているのも一つの思想運動である。近いうちにサイトも立ち上げたいと思っているが。

21世紀に入ってかなりの月日が経ち、2010年代も半ばになってきて感じることは、「ますます現実が可塑的なものになってきた」という感覚である。
つまり、現実というものが「柔らかいもの」であり、現実と非現実(あるいはもう一つの現実)の間にゆらめいているようなもの、という感覚である。こういう感性は、村上春樹の最近の作品などにもあると思う。
いいかえれば、「客観的な現実というものはない」ということである。

実は、哲学では、この「客観的現実はない」という事態が、次第に明らかにされていった。このはじまりはカントの哲学だったのだが、途中を省いて言うと、最終的に現象学というもので、現実がどのようにして立ち上がるのか、その根本にかなり迫った。

ハイデッガーの有名な本に『存在と時間』がある。この本は未完であったと言われるが、要するに、私がここに存在するということは時間を紡ぎ出すこと、というわけだ。過去も未来も、今ここに存在するところから発生している。そこから一つの「世界」を作って生きることになるわけだが、この「世界」というのは、必ずしも、今あるのと同じようである必要はないのである。つまり、違う世界を構成して生きることも可能なのである。ではなぜ今ここにこういう姿の現実ができているのかというと、それが「歴史性」ということになるのである。

つまり、「現実」は変えられることになる。なぜかといえば、それは客観的にあるものではなく、構成されたものだからだ。その構成原理を変えれば違う現実になる。そういう単純なことなのだ。こう考えれば「引き寄せの法則」も合点がいく。

かといって、この「現実」を構成するというのは、決して「私」、すくなくとも私の自我意識のレベルで起こっているのではない。それならば簡単なのだが、そうではない。それをしばしば無意識とか潜在意識という名で語ったりする。そこで、潜在意識を変えて現実を変えようという発想も出てくるわけだ。それには一定の根拠はある。

しかし、現実を生み出しているものが何であるかということについては、西洋哲学はまだ語れていないようである。何とも言いがたい謎にぶち当たるのである。根源的な媒介性とか、いろいろ言っている。

ところが、仏教の唯識思想に言わせれば、それはアラヤ識だ、ということになる。アラヤ識というのは、個別的存在としての私の根源のようなもので、誤解を恐れずいえば「魂」のようなものだろう。それがこの世界を構成している。そのようにはっきり言い表しているのだ。私の『魂のロゴス』等は、このように現実構成をするものをはっきりとアラヤ識であり、それはまたプロティノスが言っていた個別的な魂であると言い表してしまおう、という考えから成り立っている。もちろんそれを言い表すのは「形而上学」ではないか、という批判が西洋哲学から出てくるのは百も承知である。しかしもともとこういう東洋哲学におけるコンセプトというものは、最初からそれを実体と見なして論じているわけではないのである。それは方便である。それを実体化して語っては間違いであることなど先刻承知の上でやっていることである。

このように、「現実を生み出すものは何であろうか」という西洋哲学の歴史の最後に出てきた問いを受けて、それを西洋哲学的なゲームのルールでは解決不能だと見極めた上で、あえてそこを踏み出す。それが私の思想のまず第一のポイントだ。

第二のポイントがある。それは、この霊性運動はもともと、ヨーロッパでは「公式」になりきれなかった様々な西洋の精神史的伝統を引き継いでいるという面もある。それがもっとも強く表れたのはロマン主義である。ロマン主義で出てきたテーマはまだ終わってはおらず、それが現在の霊性運動へとつながっているという面もある。

これまた詳細を省いて大きくものを言ってしまうと、いろいろな研究の結果、ヨーロッパの精神的な伝統というのはつまるところ「新プラトン主義とキリスト教の合体」した世界観であると思われる。これをよく書いているのが有名なラブジョイの『存在の大いなる連鎖』という本である。つまり、世界とはもともと大いなる一つであったのだが、それが無数に分岐し、さまざまな世界を作り出し、それらが織りなされ、その中の一つの世界に私は生きているのだが、いつしかまたその大いなる一つに戻っていくことになる、そういう宇宙規模の旅をしているのである、というヴィジョンである。

こういう世界観は完全にロマン主義のなかにあって、エイブラムズの『自然と超自然』という本で詳しく説明されているのだが、私が『魂のロゴス』などで描いた世界観はまったくこのロマン主義そのものと言ってもいい。つまり私は、あえて「確信犯的なロマン主義者」として書いており、それが現代の学問として受け入れられにくいことも百も承知の上でやっている。私はロマン主義の「研究者」ではなくて、フィールドに立つ現役のプレーヤーであることをめざしたのである。

しかしこれは、きわめて西洋的なヴィジョンなのである。東洋思想には、ないことはないがかなり部分的なものでしかない。仏教に弥勒下生とか仏国土の建設という思想はあるけれども、「すべてが一つに戻る」という世界完成のヴィジョンは、ヨハネ福音書に始まるものであり、西洋的霊性の根幹をなすものである。すべてが一つに戻ったとき宇宙のサイクルが完結するという壮大なヴィジョンは、ヨーロッパ哲学の開始期にもエリウゲナに存在していたし、その末期的なねじれた形のものがヘーゲルのヴィジョンだったのである。

こうしたヴィジョンは日本の伝統にはなかったものだった。丸山真男の古典的な『日本の思想』などによると、日本人がこの「歴史がある完成へ向かって進んでいる」というヴィジョンに接したのは、マルクス主義が最初であったという。もちろんマルクス主義はヘーゲルを倒立されたものだし、そのヘーゲルのヴィジョンは西洋の深い伝統であるキリスト教+新プラトン主義で宇宙進化論に由来するのだが、それは当時の日本人には見えるはずもなかった(今でも見えてない人が多いわけだが)。

表に出ている西洋思想だけを見ていると本当のヨーロッパ文明がわからないのではないか。そういう、公式的な歴史から漏れ出ている、排除されているものに深いものがある。だから、西洋哲学史は本当は「反哲学」「非哲学」とどう境界線を引いてきたのか、という視点から見直さないといけないだろう。木田元の「反哲学史」も、残念ながらそういうものではない。

このキリスト教+新プラトン主義の伝統の中に、いわゆる「魔術」と言われていた、異次元と交流するようなワザもいろいろ含まれていた。いわゆる秘教的伝統である。西洋の精神史的伝統はそのような要素も含み混んでいる。その流れは絶えることなく、ルネサンス期に教会の権威が弱まると表に出てきた。そこにパラケルススなどが活躍したのである。この流れはそのままロマン主義へ流れ込み、それはアメリカに飛び火して超越主義からニューソートへ至り、それが今日のいわゆるニューエイジの思想的な源になっている。ここまで大きく流れを見切ることが必要である。(「アセンション」というのも完全に西洋的霊性から来るコンセプト――私流にいえば「イデー」――なのである。)

そうすると、今の日本で「精神世界」に入っていくということは、西洋的霊性とも本格的に対決し、咀嚼するということになる。仏教や神道的な伝統だけでは、日本の霊的思想は目覚めなかったのである。何らかにそこに西洋的霊性との交差による刺激があって始めて、日本人の霊的な目覚めが促されたのであろうと思う。そのような西洋的霊性をはっきりと認知して、そのイデーを受け入れることで、自分の中で東西の伝統のブレンドとハーモニーを生み出すということである。それが今、起こっていることではないだろうか。

現在、西洋の思想界では「形而上学批判」がトレンドになっている。これはキリスト教+新プラトン主義の伝統を否定することになる。彼らにとっては、いっさいの超越的な原理を立てずにかつ霊的でありうるという可能性が、とても新鮮に感じられるのではないかと思う。

だが、東洋文化の伝統に立つものからすれば、もうそれは禅がやったことではないのか、と思うのだ。いまさらそれは珍しいことではない。いっさいの超越的なものの言明が結局は全部ウソ(方便)であり、手段としての神話的表現にすぎないなどということは、禅では初めからわかりきっていることなのである。西洋人には珍しいから夢中になっているだけで、東洋人がそれをおもしろがって、これが思想の最前線などと思い込むのはつまらないことだと思う。

むしろ、日本人に必要なのは、西洋的霊性との対峙なのだ。言い換えれば「神とは何なのか」とか、「宇宙を導く超越的な原理というものがあるのか」というような問いを引き受け、考えることなのである。その意味で言えば、中沢新一氏などの思想も、西洋哲学における形而上学批判の問題圏に属するものであり、西洋的霊性との対決を回避したものであるように思えるのである。神なしで霊性を考えようとする道を、いま考える必要があるのか。私たちに必要なのはむしろ「新たな神学」ではないのか。もちろんこれはキリスト教に限定されない普遍神学なのである。

以上のような「西洋的霊性を取り込む」ということが、私の思想には含まれている。これが第二のポイントということになる。

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