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哲学は「すべてなるもの」を捉えられたか

私は学部時代には「ロマン派、特にコールリッジにおける想像力」というようなテーマをやりたかったのだが、その当時では、十分な文献も手に入りにくく、またそれに取り組むだけの知識や学力がなかったと思う。今はいろいろな文献が出ているし、検索すればすぐにわかる。大学院に入ってから『自然と超自然』を、もちろん当時翻訳はないから英語の Natural Supernaturalism を苦労して読み、ようやくわかってきたということを覚えている。その当時の大学教育というのはかなり適当なもので、ほとんど放任に近かったから、そのテーマをやるためにはどういうことを知っていなければならないのか、何もわからないままであった。で、結局は想像力のテーマはやめて、詩の作品の方を、当時よく読んでいたユング的深層心理学みたいに読み解くという感じになったことを覚えている。しかし、「クブラ・カーン」とか「クリスタベル」のような詩は、なんだか存在の深い部分に触れるような気がしていたようである。

大学院に入ると、その当時は中沢新一の『チベットのモーツァルト』とか、浅田彰の『構造と力』などがはやっていた。そこで私も、フランス現代思想が次々に訳されていくのに注目したのだが、そのときになんとなく魅力を感じたのはデリダという思想家だった。特に「ファルマコス」というギリシアにおける両義的概念について論じたものがあった。ファルマコスというのは現代西洋語でも pharmacy というように「薬」の意味なのだが、なんと同時に「毒」でもある(毒という意味は現代語にはないが)。薬も量を過ごせば毒になる、と理性的に片付けることもできるのだが、何かそれだけではなく、存在の深みを追求するような趣がデリダにはあり、それに魅力を感じた。つまり、「この存在の世界が成立する、そのぎりぎりの基底には何があるのか」という問題意識を感じ取っていたのだろう。

今思えば、現象学を理解しなければデリダがわかるはずもないのだ。しかしそのときはそういうことがわかっていなかった。デリダが存在の基底を追求することだけはわかったのだが、私はそれは、折口信夫とどこか通底するような直感を抱いた。そこで折口信夫の「始原論」とデリダの「ファルマコス論」をつなげようというのだが、しかし当然、デリダ的な文脈から見れば始原論などは形而上学的構成の最たるものであるから、論理的には矛盾をきたす。そのあたりは、口頭試問で渡辺守章氏に見破られたが、まったくその通りではある。

こんなことを書くのも、先頃亡くなった木田元氏の著書を読んでいるのだが、この人はけっこう、自分の若い頃の話を繰り返し書くので、それにつられたところもある。私もこの大学院時代に現象学からハイデガーにいたる「存在の問い」についての手ほどきをどこかで受けていたら、回り道をしなくてもよかったろう。なぜか、ポスト構造主義といわれて軽薄なニヒリズムの肯定みたいに理解する風潮もあったが、デリダが強靱な「存在の基底への問い」を持っていると思った私の直観は間違ってはいなかった。だがそれを理解するためには、フッサールとハイデッガーをわかっていなければいけなかったのだ。

木田氏はユクスキュルなどの生物学のモデルからハイデッガーの世界内存在を説明することをよくするが、私の場合、今西錦司の『生物の世界』を読んで、これと同じようなことをヴィジョン的に受け取った。むしろこれはライプニッツの発想から入ってもいいと思ったが。現象学は何にも還元できない絶対的に疑えない根本事態を見ようとするのだから、生物学を説明原理に持ち出すのはやや反則ぎみではある。

「世界はなぜこのようにあるのか」という問いは、「世界は必ずしもこのようでなくてもいいのではないか」ということでもある。極端に言えば、ハリーポッターのように人間が空を飛ぶことができるような世界がそこに成立していてもいいのである。しかし私には今こういう世界が現実としては現れている。なぜこの世界なのか、ということである。そして、それを「主観性」に求めることはできない、というのが西洋哲学の歴史で解明されたことの一つである。つまり意識的に行うことではないのである。

そこでハイデッガーは「存在了解」という言葉を使うのをやめて、「存在の生起」などと呼ぶようになった。あるいは「起こること」としか言いようがない、ということになる。

しかし、このハイデッガーの「転回」は、謎を残す。そもそも人間(ハイデッガー的には「現存在」というのだが)は、その世界から「自由」であるという性質を根本的に持っている。つまり、自分の現実を変えるということである。その本質的な自由は、この「生起」のパラダイムでは、語ることができないのではないのか。

要は、ハイデッガーの分析では、世界が立ち上がるのはまさに「いま・ここ」でしかなく、過去も未来もすべてその場所から分岐して、あるがごとくに見えてくる、という事態は見ることはできる。言ってみれば、そういう永遠の今に入ることが、本来的に存在することだというような示唆が出てくるのだが、世界はなぜこのようにあるのかというときに、何が動いているのかということは、語られていないのである。

私は、ロマン主義文学から出発したこともあり、ロマン派的なヴィジョンに親しんでいる。実は、今度キンドル版で、「無限の詩学」という小論を刊行する。これは、ロマン派的なヴィジョンから受け取ったものを、万葉集にも応用して、詩から「無限性」への直観を取り出す試みであり、もう十数年前に書いたものである。読んでみると、ハイデッガーのヘルダーリン読解にかなり影響されている文章だなと思うが、その当時に自分の持っているものはかなり出せたと思っている。

しかし・・ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」などを読むと、「すべてなるもの」「一なるもの」と合一する至福の境地が語られていたりする。最近また、「ヒュペーリオン」をドイツ語で読もうとしているのだが、この作品のものすごい霊的なエネルギーに圧倒された。

つまりこれは、人間(現存在)は、自己の体験しうる地平を無限に拡大し、それを宇宙規模にまで広げることも可能であるということではないのか。人間はそのような無限性の体験へと開かれた存在ではないのだろうか。すなわち、「存在了解を無限に拡大しうる可能性」を持つものとしてある、ということだ。

人間の存在が、いま・ここにおける存在了解によって成り立つならば、その了解の地平を拡大することも可能なのである。それらすべては、現実である。人間が体験しうることはすべて現実であり、非現実は何一つない。

このようなことになるわけで、この辺のことは、『魂のロゴス』や、今度刊行する『叡智のための哲学』にすべて書かれている。書き尽くした、と思っているのだが・・ なかなか世の中は、理解してくれない。

ちなみに、木田元氏が言うには、ハイデッガーは存在を「成る」ものと見なし、決してそれを対象化して考察しない(それが西洋の形而上学的伝統をなす、とされるが)、それは前ソクラテスの思想家に見られる、という方向へ向かったようだ。そしてこれは日本の古事記にある「むすひ」の世界に通じる、とも木田氏は言っている。

れれれ・・(なぜここで「レレレのおじさん」なのかよくわからないが)、むすひの神学? それって中沢新一や安藤礼二の世界ですか? もしそうだとしたら、それはちょっと違うのではないかという違和感がどうもやってくる。

私は『古事記の神々を読み解く』も書いているが、むすひの神はすでに現象化が開始されているステージなのだ。私たちが真に、存在の基底とみなすべきは、むすひではなくて「あめのみなかぬし」の名で指し示されているものである。これは日本の伝統によれば大日如来でもある。

宇宙すべてとしての私に目覚めることを東洋の霊的伝統では目標にしてきた。これがヘルダーリンも直観した ALL の世界だ(ドイツ語では「アル」と読むが)。ALL THAT IS である。これをギャラクティック・アウェイクニングとも呼ぶのである。

その地平は、ロマン主義の中にはあったのだが、それらがすべて、哲学の歴史の中で視界にとらえられたわけではない。つまりこれはある意味では、宇宙的な目的論でもある。その直観はヘーゲルにはあったと思うが、現代人はまた違った表現を必要としている。

これを語るには、哲学の中にいたのでは限界がある。一歩踏み越えねばならない。それを「普遍神学」と呼ぶのである。

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