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「反哲学」の徹底した遂行のために

時々、難しいことを書いているが、別にここは学問的考察をする場所ではない。あくまで気楽に書きたいことを書く場である。
私も、「学者」という枠からは完全にはみ出している。前にも書いたが、「ヒーラー」という名前で活動している人たちと同じようなことができたりもする。
しかしながら、実は、今の社会において「学問」とされているものが、ある世界観の中に拘束されているものではないのか、ということもある。私はあくまで自由に生きようとしているだけで、そのような、社会が勝手に引いている境界線を無視しているということである。

木田元の『わたしの哲学入門』という本を読んだことがなかったので、ちょっと読んでみたのだが、けっこう面白かった。これがはたして、初心者のための入門書になっているかはよくわからないが・・ どうも話があちこち飛びまくるが、書いてあることはなかなかおもしろいので、これは、むしろ多少は哲学の知識がある人が楽しめる本ではなかろうか。

そこで木田氏が最終的に「反哲学」の立場に行き着いたことを述べている。反哲学というのは、つまり、哲学というのは西洋文明に固有な特殊な営みであって、その歴史はもう終わったのであるから、今更私たちが哲学をやる必要はないのだ、ということである。そういう特殊な立場としての哲学を相対化する立場を反哲学という。これを彼はハイデッガーから学んだわけだ。その視点から西洋哲学史をまとめようとしているわけで、いちおう、西洋の哲学史全体に対するイメージを与えてくれるという意味ではなかなか爽快だ。

かといって、ハイデッガーの言っている西洋哲学理解がほんとうに妥当なのかどうか。この本では、形而上学的な立場が同時に物質中心的な世界観をセットで生み出しているのだ、と書いている。形而上学的な立場というのは、具体的に存在するものから離れて「存在そのもの」を考えようという立場のことで、主としてプラトン以来のイデア的思考をさす。そうすると、イデア的な精神界と物質界が分離することになるので、物質界がおとしめられ、自然を物質とみなし、物質を支配しようという文明が生まれたのだ・・というような論旨になる。

この見方は、私が今まで勉強して理解したこととはちょっと違っている。キリスト教神学は「存在」を神と見たわけだが、その場合、モーゼが受け取った神の名前である「私はあるところのものである」の深い神秘の感覚は保持されていたはずだ。トマスの神学にしても、あらゆるものに形相的なものが多少は配備されているので、万物に神が浸透しているという世界が描き出される。自然は神の息吹に満ちているものと見なされていたはずだ。それはボナヴェントゥーラの神学などにもよく見られるとおりだろう。

ただ木田が、アウグスティヌス的な原理がこうした豊かさを奪ったというのはある程度言えることで、つまり、神については完全に信仰の対象となるだけで、知的考察の対象にしてはならない、という原理を唱えたのはドゥンス・スコトゥスやオッカムらの神学者だったのだ。このスコトゥスが「存在の一義性」という概念を持ちだし、「存在そのもの」を具体的存在から切り離して論じ始めたのが、自然から神の息吹を奪ったのである・・という考え方があって、ミルバンクなどラジカル・オーソドキシーの論者たちが主張している。とすれば、ハイデッガーの言うような存在忘却はプラトンではなくそこに始まったということになろうか。歴史的に、プラトニズムは豊かな、霊に満ちた自然観を生み出している。ヨーロッパの歴史においてプラトンとは新プラトン主義にキリスト教がブレンドしたものとして受けつがれてきたので、擬ディオニュシウスの描く世界は、霊的な光に充満した世界である。またそこに、さまざまな神秘学的な伝統も生まれている。つまり、プラトンに形而上学的思考(ハイデッガーの言う意味での)の端緒を見るのは、近代的な存在概念をそこに読み込んでいるのではないか、とも思える。

新プラトン主義には、たとえば、イアンブリコスという哲学者がいたが、この人は哲学者とは言っても、本格的に「実践」をやった人で、向こう側にいる天使とかそういう存在を呼び出したり、対話したりすることも平気でやっていた。ルネサンス期のフィチーノだってけっこう似たようなものである。どうも私の先輩のような気がしてしかたがない。しかしこういう人々は西洋哲学史では思い切り異端とされていて、語られることは少ない。

反哲学というのは大変けっこうなコンセプトなのだが、木田元くらいの見方ではまだまだ反哲学として十分ではない。それは、西洋以外の他の文明、たとえばインドなどの思想状況を見れば明らかだ。つまり、知識とは必ずそれを直覚する実践がともなわなければならない、というのがインド的な理解なのだ。また、知識を得るとは、単に頭脳的な次元ではなく、「全人間的変革」をともなうものである、との認識も、東洋は持っているのである。たとえば、もし空海を語るなら、空海の見ていた世界を自分も実際に見なければ意味はないということである。いや、これは別に東洋だけではなく、西洋もそうなのだ。井筒俊彦の『神秘哲学』という本は、ギリシア哲学を扱っているのだが、そこを指摘している。古代ギリシアは、実は東洋の一部なのだ。つまりここで「西洋哲学の伝統」というのは、なぜか、「全人間的変革をめざすことや、そのための実践、直観的な認識などを持つことなく、理性のみにより、合理的、論理的論述を通じて、世界の構造を明らかに示すこと」が可能であると理解し、その行為を哲学と呼んで学問的伝統の中に位置づけた。このことこそが哲学が西洋固有の特殊な営為であるということである。東洋の伝統は、論理的な推論のみによって世界の真実が明らかになるなどということを信じたことはない。そのようなことが可能だということ自体は論理的に証明することができないので、一つの信念と言ってもよい。

なぜこのような哲学概念が生じたのか。今それを明らかにするのはあまりに大変になるので立ち入らない。しかし、それがプラトンに始まったわけではないのは確かだと思う。プラトンにおいてイデアは霊的に直観するものであって、けっして対象として思惟するようなものではない。理性と言われるのは、ギリシアではヌースというのだが、それは一種の叡智であって、決して近代の合理的知性と同じではない。では、キリスト教神学ではどうなのか、スコトゥスの存在の一義性なのか、と、いろいろ研究してみないとわからない。

であるから、東洋人的な思想のあり方から発して、西洋哲学を根本的に相対化するという視点が必要なのだ。そのような壮大なことができそうなのは井筒俊彦くらいだったが、残念ながら西洋哲学の根本的見直しは書かず、別次元に移行した今ではどのようにしたらよいであろうか(私はとても、そんなことはできない)。日本のインド哲学研究のようなものも、西洋人的な思想研究の習慣を持ち込んで、自分自身の霊的直覚という次元を切り離したまま研究することが可能だと考えられているから、話にならないのである。それでは植民地的学問に過ぎない。頼りになりそうなのは、セイイッド・ホセイン・ナスルくらいではないだろうか。

もしそういう見直しが行われるなら、西洋人はまったく評価しないような、イアンブリコスとかフィチーノ、パラケルススなどが思想史の重要な人物として取り上げられることになるかもしれない。

話をハイデッガーの西洋哲学理解に戻すけれども、私は、イデア論の考え方が自然を疎外する発想だという見方には立てないのである。それはイデア論が生み出した豊穣な霊的世界観が実際に存在していたからである。イデアの認識は決して対象的認識ではない。むしろ、中世末期の唯名論でイデア論が徹底的に破壊されたことが近代を準備したのではないかという見通しを持っている。これは私だけでなく多くの人が論じていることである。自然がイデア性を含むというのは、植物にも動物に霊的原理があり、人間とともに宇宙に住まう他者としてある、という意味である。イデアがあるということは、ここに実際にいる存在(事実存在)が霊的に満たされてあるということなので、こういう発想はハイデッガーにはないものだったろう。

ハイデッガーとか木田(もしかすると中沢新一なども?)が見ようとしている、生成としての自然の世界に決して反対しているわけではなく、それを見ることはすばらしいことである。だが世界はそれだけではない。そこに必要なのは「霊的な他者」がこの宇宙にはいるということだ。それは近代では、学問の領域から排除されている。この宇宙には非物質的な存在者がいるのではないかと言ったとたんにそれはオカルトになってしまう。そもそも、五感のみを知識の根拠とするという近代知識体系のイデオロギーを信じている限りそうなる。しかし、問題は、「認識の拡張」であるのだ。非物質的世界を直観する認識作用が人間にはある、ということは一般に伝統思想では認められていた発想である。なぜそれがいま、公共空間から厳しく排除され、「宗教」の私的領域だけで許されるという社会になっているのか、という問題だ。

そこで、反哲学のより徹底した遂行が期待されるところである。それは、哲学史を広義の精神史へと解体する作業になるだろう。そして、思想のあり方として東洋の伝統に立脚した判断基準が採用されることになる。
そして根本的な原理は、「人間の本質的自由」である。これは、その世界を自分で創造する自由である。なぜこの自由があるかと言えば、それは人間は宇宙創造者の分肢であるからであり、根本的に同質だからである。その基本原理に基づいてすべての思想史を解体し、再構築するのだ。

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