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哲学から排除されている「霊的認識」

この前書いたような、ハイデッガー=木田元的な思想史理解を、別に信じているわけではない。ただ、西洋哲学とは普遍的なものではなく、ヨーロッパ文化に固有のものだという考えに賛成しただけである。私のイメージでは、ヨーロッパでも中世はかなり違う時代だったと思う。決してハイデッガーの言うような形而上学による存在忘却の時代ではない。エティエンヌ・ジルソンを読むと中世哲学の深みが多少理解されるはずである。また、ヨーロッパ中世には、宇宙の神秘にどっぷりと入り込んだ思想家もいる。ヨハンネス・スコトゥス・エリウゲナ、擬ディオニュシウス・アレオパギタ、マイスター・エックハルトの三人である。この中で、特にディオニュシウスは、ずっと昔から私の思考のそばにずっとあったのである。ヨーロッパ中世とは暗黒と言うより光を求めた時代である。この光の忘却ということこそ近代哲学に起こったことではないだろうか。今のところ、やはりそれは唯名論に始まっていると私は思うのだが、今度またゆっくりとジルソンなどを読んで考えてみたいのである。

さて、今度は、ジョスリン・ゴッドウィンの『黄金の糸』というkindle本を読み始めた。これがめっぽう面白いのである。ゴッドウィンは西洋の秘教的伝統の研究者で、碩学と言ってもよいのだが、この本ではかなり肩の力を抜きつつ、西洋の秘教的文化の流れをたどってくれている。この本を読んでみてびっくりした。「おぬし、できるな」という感じで、つまり、かなり「わかっている人」なのである。近代文化の常識にとらわれず、宇宙とはどういうものかがかなりわかっているということである。つまり、「近代的学問空間」を自明の前提とせずに見ることができる人である。

秘教的精神史というのはフランシス・イエイツなどから開始された分野で、日本でも多少は訳されているが、このゴッドウィンのように古代から近代までを一望の下に収めるような視野を持ち得ている人は、残念ながら日本人にはあまりいないようだ。特に、その伝統が、今日の「精神世界」の隆盛と、どのように密接につながっているか、という視点が今の日本には欠けている。日本人は、ヨーロッパ文化というものへの見方をかなり大きく変える必要に迫られている。それはヨーロッパが生み出した「普遍」というのは本当に普遍なのか、という問いにつながる。いわゆる「いかがわしい」とされるものも含めて、ヨーロッパ文化を総体的にとらえ直し、その中でいわゆる「哲学」という営みの特殊性を浮き彫りにしていくような見方が必要である。それは「知的」とされるものと「霊的」といわれるものとの高次の合体をめざすことにつながる。近代ヨーロッパの呈示している「知的」というものはあまりに狭すぎるものなのである。しかしそのルールに縛られている「学問」をやっている限りその限界は見えてこない。

ポイントは、「霊的認識」というものが人間には可能か、という問いである。その問いがあるということが、いま書かれている哲学の歴史では隠蔽されているのではないか、ということである。哲学は霊的認識があるという前提に立たず、理性的推論のみによって行うべし、という「ゲームのルール」は果たして普遍的に妥当するか――この問いを、「哲学者」は問うことができるであろうか。

ギリシア哲学から中世のキリスト教思想は、霊的認識の可能性というテーマが含まれているのだが、そうした問題構成は、まったく無視されている現状である。
哲学でメシを食うことになってしまうと、そのような食えなくなりそうなことは言えなくなるものである。存在被拘束性というやつである。

それはともかく、この『黄金の糸』のどこが面白いのかということをまた今度書いてみようと思う。

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