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また一つの神学入門――プレモダンからの視点

佐藤優の神学について、自分の考えとは違うということをあれこれ書いてきたが、もともと、神学に唯一の答えはないし、いろいろな立場があるのは当然なので、どれが間違っているとか、そういう話ではない。そういう前提の上で書いているわけである。

しかし、あれだけが神学だと思ってもらってはいけないと思うので、私の立場から、「神について考えるとはどういうことか」というテーマへの入門書として、一冊、あげさせてもらう。

4423301121問題としての神―経験・存在・神 (長崎純心レクチャーズ)
稲垣 良典
創文社 2002-03

稲垣氏はトマス・アクィナス研究の大御所である。私が最初に、中世において理性と信仰の「布置」が異なることを教えてもらったのは稲垣氏の著書からである。「カトリックはプレモダンの世界観だから近代人は信じられない」というのは本当かどうか、自分で確かめてみるといいと思う。

神学とポストモダン

Thinking in tongues を読み終えた。先に書いたように刺激的な書だったが、最後の、異言を言語論的に見ていくのは、もう一つだったか。これは、マントラ・真言のような言語の深みへと入っていかなくては・・ そこまで行くと言語と言うよりエネルギー、波動の領域になってくるが・・ 空海の言語論やインドの密教的な言語論などとクロスして異言を考察してみるとどうだろうか。

さて、さらにジェームズ・スミスつづきで、Who's Afraid of Postmodernism? をダウンロードしてみた。訳すと『ポストモダンなんて恐くない』というような軟派なタイトルである。デリダ、リオタール、フーコーを取り上げているが、ポストモダンは実はキリスト教の刷新に使えます、というような内容であるらしい。ここで彼は、ポストモダンとはある意味でプレモダンを取り戻すことだ、とはっきり語っている。

ここで、啓蒙主義が「理性」であり、プレモダンは理性を捨てることだ、などと考えてはいけない。佐藤優が代弁しているようなバルト流の近代神学は、「理性」と「信仰」が全く対立する概念だと見なしているが、そもそもそこで言う「理性」概念そのものがきわめて近代的なものである。そこで理性と信仰はまったく折り合わなくなるが、それは、そのようなものとして理性を規定しているためである。プレモダンは理性と信仰をそのような対立項では見ていない。近代になって理性をきわめて限定されたものに捉えたために、理性と信仰が鋭く対立するようになった。そしてこのような二極化をそういうものだとしてあらかじめ前提としたところに近代神学が成り立っている。ポストモダンはそのような近代的理性概念への批判であるが、それは反理性ではなく、理性を再定義し、理性をあるべき位置に戻すということである。

もともとプレモダンにあった一つの考え方として「照明」というコンセプトがある。それは、理性は神によって「照明」を受け、導かれるという考え方である。だから、究極のところまでは理性で行くことはできないけれども、ある程度までは、理性を導きにして神へ近づくことは可能である、というのが照明説の考え方である。これはアウグスティヌスに代表され、中世には有力であったコンセプトだ。

実は私の霊性思想、普遍神学は、この照明説をかなり取り入れている。『魂のロゴス』などで、「魂は<イデー>を受け取る」と言われているのはそういうことである。つまり人間が何かを思いつくという時に、その何かが実は「自分」に発しているのでなくて、高次から贈られてきていることもある、ということだ。イデーとは「ギフト」なのである。

近代プロテスタンティズム神学では、このような考え方が一切、排除されており、「ありえない」と見なされていることは明かだろう。そのようなことを排除した上で「理性」という概念を作っているのであるから、それが「信仰」と全く相容れないものになるのは当然である。(啓蒙主義的理性は、自然法則的なものとして神を理解する「理神論 (Deism)を掲げたが、バルトの神学は、ある意味で、それを裏返したものである。その二つはモダンの二極化の表れである)

そこで、わかっていただきたいのは、時代が変わるというのは、このように、ものを考えていくときの基本的なコンセプト群の「布置」が変化するということなのである。だから、近代の時代の布置を自明の前提とすれば、プレモダンにできた思想が理解できないのは当然のことである。ならば、ポストモダンの時代にはモダンの思想に違和感が出てくるのも当然である。私たちはすでにポストモダンに入っているというのが私の認識である。であるから、完全にモダンの世界に生きている佐藤優の神学に違和感を覚えるわけである。バルト神学を基本として勉強しなさいなんて、そんなアドバイスに従う必要はまったくない。それをやっても、モダンの時代が持っている「隠れた自明性の地平」は見えない。現代神学の持っている思想的可能性は、そういうところにはないように思われる。モダンの持っていた、理性と信仰という二極性の布置そのものが変革されねばならない。

神学から近代をクリティックする本

James K. A. Smith は、ペンテコステの哲学ということで紹介したが、彼の手になるラディカル・オーソドキシー概説書はとても評判の高いもので、この運動の創始者ミルバンクもお墨付きを与えている。

B0090OTC7YIntroducing Radical Orthodoxy: Mapping a Post-secular Theology
James K. A. Smith John Milbank
Baker Academic 2004-12-01


それから、最近読んで面白かったものはこちら。
これは、ヌーヴェル・テオロジーの考え方を中心に書かれている。ラディカル・オーソドキシーときわめて近いことがわかる。ヨーロッパ伝統の新プラトン主義・キリスト教の合体した世界観を現代にどう取り戻すかという問題意識で書かれていて、これほどまでに私のツボにはまった本はそうたくさんはない。

B005174AAIHeavenly Participation: The Weaving of a Sacramental Tapestry
Hans Boersma
Wm. B. Eerdmans Publishing 2011-02-01

なお、こうした立場は、ゲノンとかシュオンのような、諸宗教が根本的に一致しているとの立場まではとらない。
私も最近では、すべてのメジャーな宗教が根本的に一致しているとまでは考えなくなっている。体験的なコアに行けば同じなのかというと、それは「同じものもあるかもしれない」くらいの感じで、こうした伝統主義が一般に考えているよりも宗教の多様性は大きいと考えるようになっている。

ラディカル・オーソドキシー解説動画が YouTube に

ラディカル・オーソドキシーを解説する動画が youtube に出ている。
これは、かなり映像的にも作り込んであって、画像が美しい。プロが関与していると思われるのだが、どこからお金が出ているのかしら? ユーチューブを使って思想運動をプロモーションするような時代だということ。
けっこう、わかりやすい。

近代を超えていく神学――佐藤優の神学ではなぜ不足なのか

今ちょうど読み始めた本は、「まさに、これこそ私が求めていたものでは?」と思うほどのインパクトがあり、なかなか興奮気味である。しかし、それのどこが面白いのかというのを、普通の日本人に説明するにはなかなか時間がかかりそうだ。

B004IZL4H6Thinking in Tongues: Pentecostal Contributions to Christian Philosophy (Pentecostal Manifestos)
James K. A. Smith
Wm. B. Eerdmans Publishing 2010-06-15

ジェームズ・K・A・スミス、いまいちばん面白いかも? しかし、この本を読んでる日本人って私の他に何人いるんだろうと思う。10人くらいはいるだろうか? って感じかもしれない。

ペンテコステというのは前の記事でもちらっと触れたが、聖霊に満たされて不思議なことがたくさん起こってしまうことを重視するキリスト教の新しい一派、あるいは傾向のこと。広い意味で言えばペンテコステは全世界に六億人いるとの情報もある。特にアジア、アフリカで進境著しい。

不思議なことというのは、神の力でヒーリングするとか、透視のようにいろんなことがわかってしまう(預言)、意味のわからない不思議な言葉で話し始める(異言)、といった、近代世界の常識を越えたことである。初期のキリスト教会ではこうしたことが普通にあって、パウロもよくやっていたと言われている。

しかし一般には、こうしたことは、もしあったとしてもキリスト教創立の一時期だけに起こったことであって、その後は起こることはないのだ、との考え方が強い。これを cessationism と言う。そういう奇跡的なことはもう終わっているとの立場だ。ペンテコステは continuationism といい、そうしたことは今なお継続しているとの立場をとる。むしろ、そういうことがあるのはキリスト教会としてノーマルなことなのであり、ない方がおかしい、との立場なのである。

普通の欧米の知識人は、ペンテコステ運動を、あまり教育のない中下層の人たちがやっている、神がかり的なオカルトに近い危険なものだと見なし、見下しているのが一般的である。ジェームズ・スミスは、大人になってからペンテコステに移ったらしい。ある学者たちのパーティーで、「ところであなたはどの教会ですか?」と聞かれて、ペンテコステだと答えたらドン引きされたという体験談を本の始めに書いているが、そういうものである。ペンテコステはシャーマニズムに近いような、前近代的な宗教で、知識人の関わるものではないと見なされているのである。

スミスは、初めてペンテコステの礼拝に参加したとき、両手を挙げる姿勢をすると不思議なエネルギーが流れてきた、というような体験を赤裸々に記している。そして、実際にいろいろ不思議なことを目の当たりにするのである。

これは近代の知識人が思っているような、集団的自己催眠なのか? ジェームズ・スミスは、これが宗教として本来あるものであって、これを真っ向から否定している近代の世界観、あるいは「知の体制」の方がおかしいのではないか? との問題意識を抱いた。そこで、近代を批判するポストモダン思想なども勉強し、キリスト教神学の刷新を企てた。

「近代の世俗主義とは、また一つの宗教的世界観であり、決して普遍的、客観的なものではない」との主張は、ラディカル・オーソドキシーという神学の新しい一派からも出されており、スミスはラディカル・オーソドキシーの優れた入門書も書いている。ラディカル・オーソドキシーはさらに、第二バチカン公会議以降のカトリック神学における「ヌーヴェル・テオロジー」(リュバックなど)という流れを継承している。これらも、近代の自明性を疑うという意味ではポストモダンである。私の見るところ、哲学のポストモダン、デリダやドゥルーズなどよりもさらに徹底して超近代だと思うのだが、残念ながら、神学と哲学の分裂という事態があって、日本にはほとんどこうした神学からの動きは知られていない。

最近では、佐藤優の活動によって、日本でも神学というものが知られるようになった。しかし私は佐藤優の神学の著作を少し読んでみたが、これは「近代プロテスタンティズム神学入門」であって、かなり狭い範囲のキリスト教思想を扱っているものと感じた。特徴的なのは、佐藤優にはポストモダンの影響がほとんど見られないことだ。彼はいろいろと何の本を読めとか、そういう教養主義的なことを書くが、基本的に「近代的な知の体制」について疑いを持っていない人である。1970-80年代の大学で、資本論とか『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)みたいなものの読書会をやっていたような学生がそのまま生き残っているようなメンタリティーを持っている。これは彼が、卒業以来しばらくアカデミーから離れていたことに関係しているのかもしれないなあ、と感じた。そうでなければ、多少はポストモダンの影響を受けそうなものなのだが。

プロテスタンティズム神学にもいろいろあるが、ざっくりと整理してしまえば、近代の世界観を受け入れ、その結果、きわめて人間と神との距離が遠いように感じられるようになった人たちのための神学、と言うことができるかもしれない。神を無限に遠いものと感じるところからスタートする神学である。また、自然に対して一切の聖性を認めない。「天国には神のノートがあって、そこには救われる人と永遠に救われない人のリストがすでに書かれている。人間が何をしようともそれを変えることはできない。ただ人間は、自分が救われる方のリストに入っていることを信じてがんばるしかない」――これはカルヴァンの予定説というものだが、この思想を普通の日本人が理解できるだろうか? 私にはまったくわからない。なぜこのようなことを信じることができるのか想像できないのだが、多くの読者もそうではないだろうか。

では、このようにしたらどうか? 「人間はそもそも、最初から、一人残らず、完全に救われている。ただ、自分が救われていないという幻想を抱いているだけなので、その幻想から覚めればよいのである」 これは基本的に仏教の立場である。これを少しキリスト教的に言えば、「人間は、最終的に救済されることがすでに決定されており、そのようなものとして最初から創造されている」 これならば、日本人が理解することは難しくない宗教思想である。そして、基本的に、正教はこういう思想に立っているし、また、カトリックにもこういう思想がある(全部とはいえないが)。ところが、「神は人間の理解を超える絶対的なものである」ことを強調するのはよいが、「だから神は、人間を救うことも救わないことも自由なのであり、『人間は必ず救われる』と考えることすら人間の傲慢と言わねばならない」とまで考えるのは、ちょっとやりすぎではないかというのが率直な感想である。たぶん、子供の頃から刷り込まれていない限りは決してこういう考え方はしないのではないだろうか。

プロテスタントで神がものすごく遠い存在になった。これに対してカトリックや正教では自然の中にも神性は宿っているものであり、また典礼を通して神は近づくので、神と人間の距離ははるかに近い。これを佐藤優は、宗派の違いとして説明するが、果たしてそれだけか? 近代のプロテスタンティズムは「近代的世界観」をまともに受け止め、自然科学の持つ自然観を承認した上で、それと信仰をどう折り合いつけるかという立場で形成されてきたのだが(カルヴァンなど創始者たちはまたちょっと違って、世界観的には近代ではなかったが)、カトリックや正教はそういう近代的自然観を承認していない、との違いではなかろうか。宗派の違い、つまりは趣味の問題、ということではなく、近代を受け入れるか、それを超えようとするか、との立場の違いなのではないか。そこから、カトリックを中心としたヌーヴェルテオロジーや、また正教からソロヴィヨフ、ブルガーコフなどの神学が出てきている、というこではなかろうか。

佐藤優の神学ガイドブックで勉強しても、それは狭い範囲の近代プロテスタンティズム神学を学ぶというだけなので、キリスト教思想とはもっとはるかに広いものである。

話をペンテコステに戻すと、これはさらに、近代を超えない限り理解することが困難な宗教である。何せ現実にそういう超自然的なことがばんばん起こってしまうのであるから。

スミスの本のタイトルになっている Thinking in tongues というのは、speaking in tongues のもじりである。speaking in tongues というのは、聖霊に満たされた状態で、意味のわからない言語を話し始めるという現象である。「異言」と訳されるが、聖書にも書いてあり、キリスト教創立当初にはさかんに行われていた。これは公開で行われる場合は、それを解釈する人がいることになっている。実を言うとこれはニューエイジ界で「宇宙語」と言われる現象とほぼ同じである。有名な例では、最近は日本でもワークショップをやっているジェイミー・プライスという人が Light language と呼んでやっているのは、ペンテコステの文脈で異言と言われるのとほぼ同じである。興味のある人はヴォイスのワークショップのページに動画が貼ってあってそこで実際にこれをやっているのを見ることができる。実はここで告白すれば、私自身もこうしたことをやろうと思えばやることはできるし、やったこともある。

またペンテコステで行っているヒーリングや、サイキック・リーディング的なことも、ニューエイジ界では当たり前のように行われているのは周知のことである。つまりこれは、世界的に、そういった近代の枠組みを超える力がリバイバルしているのであり、それがキリスト教の文脈になればペンテコステだし、脱宗教的な文脈になればニューエイジなのである。その両方を、大きな脱近代の流れとして受け止める必要がある。

スミスが speaking in tongues を thinking in tongues と変えたのは、そうしたリバイバル運動の意味について考える、という意味である。これを理解するためには、近代の枠組みでいくら考えても無駄である。心理学的にどうとかこうとか、社会学的にこうとか、そういう従来の学術による分析をしたところで、近代を超えるものを近代の枠組みに納めることで理解しようとすることになる。これは一種の「悪魔払い」に過ぎず、知的植民地主義であり、またオリエンタリズムでもあるだろう。近代の立場から見る限り、私自身も、怪しいオカルトに入り込んだ人でしかないのである。

従って、根本的な近代的世界観、自然観のクリティックがなければ、こうしたことは全く理解することができない。

キリスト教を見るのに、カトリック、プロテスタント、正教という枠組みというより、むしろ、cessationism/continuationism という枠組みで見ることも必要である。

聖霊のわざは今この瞬間にも働いていることを受け入れるのならば、その前提に立ってすべて、世界とはどういうものかを根本的に考え直さなければならなくなる。

だから、その意味で、断固としてポストモダンでなければならないのだが、今言われている哲学のポストモダンは、果たして十分であろうか、という問題がある。
哲学/神学という分離をあらかじめ前提としてしまっているところで考えても限界がある。

私も大学院時代から、「気」のトレーニングを始め、様々な体験を経る中で、これを理解し、位置づけるには近代を超えねばならないと気づいて、デリダあたりを読んだりしていた時代もあった。その中で中沢新一が何か示してくれるという期待を抱いたこともあったが、オウム事件により、彼が基本的に「サニワ」の能力がないことがわかったので興味を失った(教えとか修行とか、外形的なものだけでは正統的なインドのヨーガの立場とあまり差別化できない。ただ教祖の持っている波動、エネルギーを感じてホンモノかどうか判別しなければならないのだ)。そこで、私が求めていたのはこの Speaking in tongues のような本であったのだ。ようやく2010年代になってこういう思考が学べるようになってきたとは。

私はもちろんペンテコステでも、キリスト教でもなく、キリスト教は一ファンというにすぎず(ただキリストの聖性は認めているのだが)、基本的には「脱宗教的霊性」の立場に立っているのであるが、私が経験し、当たり前にあると見なしている世界は、ペンテコステと共通したものがかなりある。だから、それを位置づけることができるような、近代批判を経た新しい世界観的立場の構築というジェームズ・スミスの立場は大いに参考になるのである。

Thinking in tongues の冒頭にはこのような言葉が掲げられている。

What hath Athens to do with Azusa Street?
(アテネとアズサストリートにどんな関係があるのか)

これは初期のキリスト教神学者、テルトゥリアヌスの言葉、「アテネとエルサレムにどんな関係があるのか」をもじったものである。アテネとはギリシア哲学の意味で、エルサレムはキリスト教を指す。キリスト教とギリシア哲学の関係はどういうものになるのか、これが初期のキリスト教思想界の最大の問題であった。それを端的に示している言葉である。ここでスミスが「アズサストリート」と言い換えたが、これは、ペンテコステ運動の発祥の地とされるのがロサンゼルス郊外のアズサ通りにあった教会で起こったリバイバル運動だったことを指す。1906年のことである(アズサ・ストリート・リバイバルについては日本語のウィキペディアの記述もある)。つまり、「ペンテコステ運動について哲学するとはいったいどういうことなのか」という意味になるわけである。

それをいかがわしい、危ないもの、前近代の名残、知的でない人しか信じない・・などという受け止め方から解放し、「それは人間の霊性としてまっとうなものだぞ」ということを哲学の力により、近代のクリティークを行うことによって示そう、というのがジェームズ・スミスの企図だということになる。

こういう、世界の大きな動きを見ていくためには、哲学と神学を合体させて見ていく必要を痛感する。日本の知識人の大半は、神学がまったくわからない。しかし、最もラディカルな近代批判は、哲学ではなく神学から提示されているのだ。

その神学は決して、佐藤優の神学ガイドブックで学べるような神学ではない。私の見るところ、注目すべき流れは次のようなものだ。

・フランスのヌーヴェル・テオロジー(カトリック系) (Nouvelle theologie: Henri de Lubac, Congar, Chenu, Balthasar...)
・英語圏のラディカル・オーソドキシー(カトリック中心) (Radical Orthodoxy: John Milbank, Catherine Pickstock, Graham Ward ...)
・ロシアのソフィア論的神学 (Solovyov, Bulgakov, V. Lossky, Florensky ...)
・ペンテコステ神学 (Pentecostal theology: Amos Yong, James K. A. Smith, ..)

残念ながら、日本語しか読めない人は、こうした思想について知ることができるものは、あまり多くない。少なくとも英語は自由に読める必要がある。それと、基本的な神学や哲学の基礎知識が必要なので、日本でこういう思想を知ることができる人の数は限られる。(上の三つは細々と知っている人もいると思うが、ペンテコステ神学はまだ知識人には敷居が高そうである。この中ではソロヴィヨフが日本では知られている方だ)

哲学での、特に現象学の中から、ジャン=リュック・マリオンやミシェル・アンリなど、「神学的転回」と言われる動きが出てきているのは、こういう一連の流れの中で見ていく必要もある。

特にニューエイジ的霊性との連動について考えていく場合には、ペンテコステ神学が重要になる。明確に continuationism に立つ必要があるからだ。一方、ニューエイジ側もともすれば「神」を忘れがちになることへの警告ともなるだろう。

もちろんペンテコステ運動に固有の危険や落とし穴がないとは言わない。しかし、近代の枠組みを受け入れた従来型の神学思考の限界にもまた、きわめて大きな危険が潜むであろう。

佐藤優は完全な cessationist である(いや、「『奇跡』は初期だけで終わった」ではなく「最初からなかった」というのならその名前さえ使えないだろう)。「イエスが復活したとは、イエスが復活した夢を見た人がいて、それを現実と理解したのである。この当時は夢もまた現実と考えられていたのだ」という意味のことを彼は書いているが、ここまであけすけにイエスの復活を「否定」することが異端ではなく当然と見なされているのかが近代プロテスタンティズムなのであろうか。聖書に書かれている数多くのイエスによるヒーリングや物質化現象を「ありえない」と見なし否定する近代プロテスタンティズム神学は、近代の自然観がそれ自身一つのフィクションでしかないことに気づいていない。イエスは文字通り復活したと考えてどこもおかしいことはないのだ。手を当てることで病人が癒やされることだって「普通にあること」であり、神人ならばその程度のことができて当たり前である。そう考えることが「まっとう」であることをどのように説明するのか。このような、イエスの持っていた「力」の本質が理解され、さらに「私ができることはあなたもまたできるようになるであろう」というイエスの言葉が真実であることが、やがて明らかになるであろうと期待するものである。

今後の予定

以前にお知らせした、対話の音声をのせるというプランは、事情により当面の間は行わないこととなりました。
そのうちに、セミナーや講座みたいなものの動画を載せるというのがあるかもしれません。

今年はまた、これまでワークとしてやってきたエネルギーワークについて、その神学的(思想的)意味を含め、また実践的内容も合わせたような著作を構想しております。

キリストの宇宙的実在

あまり個人的な体験のことはここで書かないのであるが、最近また、ベールが一枚はがれたような感覚に入り、世界の感覚が微妙に変化してきた。
そこで最近は、「キリストの存在」が前よりもさらに身近に感じられるようになって来た。
そこで感じるのは、「キリストとは宇宙の根底にいる」ということである。
この、宇宙の根底という感覚が、ベールがはがれないと理解することのできない感覚であるのかもしれない。
私がここで言っているのは、2000年前に人間として生きていたイエスではない。今も宇宙の中心に存在しているある宇宙原理的なキリストのことを言う。

考えてみれば、仏教にも同じコンセプトはあるではないか・・・ 仏陀、ゴータマ・シッダールタではなく、宇宙的な仏がある。日蓮的に言えば久遠本仏である。久遠本仏はある。断固としてあるのである(もっともこの「ある」という表現が適切かという問いはありうる)。法華経を書いたのはゴータマではないが、宇宙的な仏の働きにより大乗仏典は成立している(ただし、人間語に翻訳したものであるから正確ではない部分はありうる)。

また、空海は平安時代に生きていたが、同時に、弘法大師は宇宙に生きている。ニューエイジ的に言えば「マスターになった」ということである。

キリスト教の神学者や、あるいは哲学者でも、「根底」という言葉が出てくる人は、何らか、こうした感覚に通じていたのかもしれない、と想像する。古くは、ヤーコブ・ベーメ、そしてシェリング、神学者では、マイスター・エックハルト、最近ではカール・ラーナー。

この根底にあるキリストから霊的エネルギーが発せられている、という事態を見るということ。

この霊的キリストを知れば、いまさら、「歴史的イエス」などを探求することに意味はあまり感じなくなる。
又聞きを重ねて成立した昔の文献だけを頼りにするより、いま自分が直接、神、キリストとつながり、対話すればいいのではなかろうか。
そんなことはできるはずがない、と考える人は、そう考える人のための神学を作ることになるだろう。それはまた、全然別の道である。

佐藤優との神学的対話を企画

佐藤優氏が神学について書いているのは、神学について世の人が考えるきっかけとしては大変よいことである。
ただ、そのプロテスタンティズム神学が、現在に必要な世界観的変革を可能とするか、という問いがある。もちろん、個人的な信仰としては、プロテスタンティズムでいっこうにかまわない。決してそれを否定するわけではないのである。しかし、神学にはもっといろいろあり、そして、神学的な問いは、実は私たちの持っている近代的世界像の根拠に関わる問いとつながっている、という問題意識が世に広まってもらいたい。

ちょうど佐藤氏の本格的な神学論『神学の思考』が出たばかりである。私はこの機会に、佐藤優氏への本格的な神学的批評を行うこととした。普遍神学、あるいは、「脱宗教的霊性」の立場を代表する神学思考を、佐藤氏の神学と対置することによって、問題点を明確にするのだ。(問題の所在を明らかにし、かつ、神学的思考の多様さを知ってもらう目的なので、佐藤氏の神学的立場を「否定」しようとするものではない。そういうことを、佐藤氏の影響力を借りておこなおうという広報戦略の一環である)

まずはこのブログで展開し、そしてそれをアマゾンのレビューとしても掲載する予定である。

イエスは本当に復活した・・神学の勉強について

二月頃からずっと読書に集中する日々。最近は、もっぱら神学の勉強。普遍神学をやるというなら「普通の神学」をもっと知らねば・・ それはまた、西洋的霊性の根幹を見極めるということにつながる。
最近では、佐藤優氏によって神学のことが知られるようになってきた。佐藤氏は浦和高校での私の同級生で、彼が『私のマルクス』という自伝的作品にも書いている、倫理社会の堀江六郎先生のクラスで同じであった(彼は、覚えてないと思うが。当時の彼は、頭はよかったが受験勉強を徹底的に馬鹿にしていた。部活は応援団であった)。ただし佐藤氏の神学は徹底したプロテスタント神学なので、実はこれは日本人には最もわかりにくい神学といえる。その分、魅力もあるのだといえば言えないこともないが。

プロテスタンティズムは神の超越性を強調しすぎて、神の内在性を忘れがちになる。また、カトリックや正教にはその反対の傾向がある、などとも言われる。
しかし、自然(世界)の中に神の顕現を見るという姿勢がプロテスタンティズムにはいちじるしく後退している。むしろ、自然の中に聖性を見るようなカトリックや正教の神学の方が、東洋の霊性との親和性がある。

いまかなり興味をもって調べているのが、ペンテコステやカリスマ運動の流れと、そこから生み出されつつある神学である。
この流れでは、神の力によるヒーリングや、サイキックリーディング(預言と呼ぶ)、宇宙語をしゃべる(異言と呼ぶ)、などをどんどんやっていく。ニューエイジ的スピリチュアルのキリスト教版みたいなものである。
実は、聖書には、キリストの弟子たちがどんどんこういうことをやっていることがたくさん出ている。パウロでさえ大いにやっていた。それをなぜ今やってはいけないのか、という単純な理屈がある。近代的な自然観から抜け出した人たち(あるいは最初から受け入れていない人たち)は抵抗なくこういう世界に入っていく。こういう流れは今、プロテスタントの中にさえ入り込んでいる。

「スピリチュアル」が浸透しない国では、ヒーリングといえば普通こうした神の力を受けたキリスト教徒のやること、という受け止め方が多かったりする。

ポイントは、「物質的自然を描くについての自然科学の権威をどこまで認めるか」という点について、これまでの啓蒙主義的知識人の枠をはみ出していっている、ということだろうと思う。
そういう権威を認めてしまって、自然には基本的に奇跡は起こらないという自然観を持ってしまうと、自分自身が神の声を聞いたりすることが不可能だと信じざるを得ない。そのように神が自分とかけ離れた遠いところにあると感じている人のための神学、みたいなものがあって、これまでプロテスタントの神学ではそういうものが主流であった。

そういえば佐藤優氏の宗教論の本を読んでいて、こんなことが書いてあった。イエスが復活したというのは、そういう夢を見たのです。この当時、人々は夢もまた現実と見なしていたので、復活を現実と考えた・・
ということは、イエスが文字通り復活したとは信じてないわけ?
・・私にいわせれば、これはキリスト教ではない。イエスが死んで復活したことを信じるのがキリスト教であって、それを外してどうしてキリスト教であるのか私には理解できない(というのはウソで、どうしてなのかは理解できるが、説明が長くなりそうなのでやめる)。
マハーアバター・ババジのことを知っていれば、それは何も不思議ではない。また、ヨガナンダの自伝でも、その氏ユクテスワが復活した現れたことを述べている。
なぜこういう「復活」が可能なのか、それは『魂のロゴス』や『叡智のための哲学』に説明してある。

思うに、物質界、物質性とは何であり、どのようにそれが生じているのかということをはっきり理解しないと、自然科学の啓蒙的理性によって信仰がゆがめられてしまうのではなかろうか。

死んだ人間が復活するなんてことが本当にあるのか?

・・だって、臨死体験というのもそういうことでしょ? 死んでから戻ってきたわけで。
聖書では、ラザロの復活についても語られている。
まして、イエスは人間であって神であるのだから、復活くらいできて当然なのでは?

・・と、素朴な人は考える。実は、この素朴な考えがキリスト教信仰としてはまっとうではないのか。
なぜ、自然法則を神よりも優位に考えるのか、それがわからない。いつのまにか、自然法則に、神にまさる権威を与えてしまっているのだ。だが、神が法則を作った以上、神は法則を超えることができるのだ。これは単純な理屈である。
「神がキリストを送った」ということが信じられる人がなぜ復活を信じられないのか。そのぶっとび程度は同程度のように思えるのだが。

要するに、これまでの一部の神学というものには、このように神の奇跡を信じられなくなるほどに近代的啓蒙主義理性に影響されてしまった知識人たちが、なんとか信仰を維持しようと七転八倒して苦労した考え出した神学というものも少ないのである。しかし、私は奇跡も復活もまったく問題なく信じられますよ、という人はまったく別の神学を生み出すだろう。

Kindle本二冊出版: 『叡智のための哲学』&『「無限」の詩学』

お待たせいたしました。
新しいkindle本二冊をこのほど出版しましたのでお知らせいたします。よろしくお願いいたします。


『叡智のための哲学』

B00VGU2LVY叡智のための哲学

虹の光出版 2015-03-30

内容紹介
本書は、『魂のロゴス』『スピリチュアル哲学入門』に続き、一つの新しい宇宙観を示すものである。
人類の思想は、近代化以前、「魂」と「宇宙」とは緊密に結びつき、すべてを包括するある何かと人間との関係が明らかにされていた。その叡智の伝統は、近代に入っていったん断ち切られてしまった。本書は、この失われた叡智の伝統を現代に復活させる試みである。それは近代の学問知を超えていき、人類の叡智の伝統との対話の内に進む。もはや、仏教でもキリスト教でも、何の宗教でもなく、すべてを超えた普遍思想へ向かっていく。広大なる宇宙が自分の内にあることを位置づける思想は、どのようにして可能であろうか。人類の霊的経験をすべて理解しうるような世界了解の枠組みを描き、人類の遠い未来を予感するため、構想より13年にして、「マンダラ教授」が満を持して登場する。


プロローグ 魂の憧れ――生と死の根源へむかって
第一章 魂は世界を作り出している
第二章 異なる世界を見るということ
第三章 死して再び復活すること
第四章 この宇宙に住まうものたち――天使論の地平
第五章 光との出会い――そして、世界はどうなっているのか
第六章 宇宙は巨大な叡智体である
第七章 霊的エネルギーの世界
第八章 神化への道
第九章 生まれ変わりの意味
第十章 光とつながる「カタチ」
あとがき

(本書は『魂のロゴス』とほぼ同時期に執筆を開始しているため、『魂のロゴス』と一部内容が重なる部分があります。類似のテーマについての二つの変奏であり、違った視点をお楽しみいただけると考えています。紙数の関係で『魂のロゴス』ではカットされたテーマもかなり含まれています。なお、題名に「哲学」とありますが、これは近代西欧文化的な意味における哲学ではありません。「究極的なるものについての思考」というような広い意味で用いています)


『「無限」の詩学』

B00VH959RM「無限」の詩学

虹の光出版 2015-03-31

内容紹介
万葉集の歌には、現代人が夢想もできない世界了解、存在了解が含まれていた・・ 近代の地平からの解釈を拒否し、古代の詩が持つ存在了解を読み解こうとする。ロマン主義詩人たちも似たような存在了解を垣間見ていた。近代の視線を超えて、世界の存在そのものの謎に打ち当たる詩人たちの言葉を受け止める。
併載の「古代の詩と世界の謎」では、万葉の世界直観をめぐる折口信夫の読解を手がかりに、詩作の中に世界の謎が姿を現す様を見る。

「無限」の詩学――万葉集とロマン主義の詩を中心に――
  はじめに
  家持の歌における世界了解
  言葉へと到来するもの
  詩作と太古の伝統
  人麻呂における「古」への追思
  流れるものの本質
  ロマン主義の詩人たち

古代の詩と世界の謎――万葉集巻一七―三八九六の歌を中心に――

「無限」の詩学はかなり昔の論考で、WEB上に出ていたこともありますが、このほどKindle本にまとめることができました。今から思うと、ハイデッガーによるヘルダーリン読解の影響をかなり受けていますが、基本的にロマン主義的作品だと考えています。

『叡智のための哲学』は、もともと『魂のロゴス』よりも早く着手したもので、テーマ的には類似しています。『魂のロゴス』よりかなり長いです。

なお、『叡智のための哲学』は、『魂のロゴス』と同様、対話体です。論文形式ではありません。
『普遍神学序説』よりも読みやすいと思います。

Kindleの出版自体は、あっけないほど簡単なのですが、表紙には苦労しました。こちらは、フリーの素材を加工した自作です。

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