今ちょうど読み始めた本は、「まさに、これこそ私が求めていたものでは?」と思うほどのインパクトがあり、なかなか興奮気味である。しかし、それのどこが面白いのかというのを、普通の日本人に説明するにはなかなか時間がかかりそうだ。
ジェームズ・K・A・スミス、いまいちばん面白いかも? しかし、この本を読んでる日本人って私の他に何人いるんだろうと思う。10人くらいはいるだろうか? って感じかもしれない。
ペンテコステというのは前の記事でもちらっと触れたが、聖霊に満たされて不思議なことがたくさん起こってしまうことを重視するキリスト教の新しい一派、あるいは傾向のこと。広い意味で言えばペンテコステは全世界に六億人いるとの情報もある。特にアジア、アフリカで進境著しい。
不思議なことというのは、神の力でヒーリングするとか、透視のようにいろんなことがわかってしまう(預言)、意味のわからない不思議な言葉で話し始める(異言)、といった、近代世界の常識を越えたことである。初期のキリスト教会ではこうしたことが普通にあって、パウロもよくやっていたと言われている。
しかし一般には、こうしたことは、もしあったとしてもキリスト教創立の一時期だけに起こったことであって、その後は起こることはないのだ、との考え方が強い。これを cessationism と言う。そういう奇跡的なことはもう終わっているとの立場だ。ペンテコステは continuationism といい、そうしたことは今なお継続しているとの立場をとる。むしろ、そういうことがあるのはキリスト教会としてノーマルなことなのであり、ない方がおかしい、との立場なのである。
普通の欧米の知識人は、ペンテコステ運動を、あまり教育のない中下層の人たちがやっている、神がかり的なオカルトに近い危険なものだと見なし、見下しているのが一般的である。ジェームズ・スミスは、大人になってからペンテコステに移ったらしい。ある学者たちのパーティーで、「ところであなたはどの教会ですか?」と聞かれて、ペンテコステだと答えたらドン引きされたという体験談を本の始めに書いているが、そういうものである。ペンテコステはシャーマニズムに近いような、前近代的な宗教で、知識人の関わるものではないと見なされているのである。
スミスは、初めてペンテコステの礼拝に参加したとき、両手を挙げる姿勢をすると不思議なエネルギーが流れてきた、というような体験を赤裸々に記している。そして、実際にいろいろ不思議なことを目の当たりにするのである。
これは近代の知識人が思っているような、集団的自己催眠なのか? ジェームズ・スミスは、これが宗教として本来あるものであって、これを真っ向から否定している近代の世界観、あるいは「知の体制」の方がおかしいのではないか? との問題意識を抱いた。そこで、近代を批判するポストモダン思想なども勉強し、キリスト教神学の刷新を企てた。
「近代の世俗主義とは、また一つの宗教的世界観であり、決して普遍的、客観的なものではない」との主張は、ラディカル・オーソドキシーという神学の新しい一派からも出されており、スミスはラディカル・オーソドキシーの優れた入門書も書いている。ラディカル・オーソドキシーはさらに、第二バチカン公会議以降のカトリック神学における「ヌーヴェル・テオロジー」(リュバックなど)という流れを継承している。これらも、近代の自明性を疑うという意味ではポストモダンである。私の見るところ、哲学のポストモダン、デリダやドゥルーズなどよりもさらに徹底して超近代だと思うのだが、残念ながら、神学と哲学の分裂という事態があって、日本にはほとんどこうした神学からの動きは知られていない。
最近では、佐藤優の活動によって、日本でも神学というものが知られるようになった。しかし私は佐藤優の神学の著作を少し読んでみたが、これは「近代プロテスタンティズム神学入門」であって、かなり狭い範囲のキリスト教思想を扱っているものと感じた。特徴的なのは、佐藤優にはポストモダンの影響がほとんど見られないことだ。彼はいろいろと何の本を読めとか、そういう教養主義的なことを書くが、基本的に「近代的な知の体制」について疑いを持っていない人である。1970-80年代の大学で、資本論とか『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)みたいなものの読書会をやっていたような学生がそのまま生き残っているようなメンタリティーを持っている。これは彼が、卒業以来しばらくアカデミーから離れていたことに関係しているのかもしれないなあ、と感じた。そうでなければ、多少はポストモダンの影響を受けそうなものなのだが。
プロテスタンティズム神学にもいろいろあるが、ざっくりと整理してしまえば、近代の世界観を受け入れ、その結果、きわめて人間と神との距離が遠いように感じられるようになった人たちのための神学、と言うことができるかもしれない。神を無限に遠いものと感じるところからスタートする神学である。また、自然に対して一切の聖性を認めない。「天国には神のノートがあって、そこには救われる人と永遠に救われない人のリストがすでに書かれている。人間が何をしようともそれを変えることはできない。ただ人間は、自分が救われる方のリストに入っていることを信じてがんばるしかない」――これはカルヴァンの予定説というものだが、この思想を普通の日本人が理解できるだろうか? 私にはまったくわからない。なぜこのようなことを信じることができるのか想像できないのだが、多くの読者もそうではないだろうか。
では、このようにしたらどうか? 「人間はそもそも、最初から、一人残らず、完全に救われている。ただ、自分が救われていないという幻想を抱いているだけなので、その幻想から覚めればよいのである」 これは基本的に仏教の立場である。これを少しキリスト教的に言えば、「人間は、最終的に救済されることがすでに決定されており、そのようなものとして最初から創造されている」 これならば、日本人が理解することは難しくない宗教思想である。そして、基本的に、正教はこういう思想に立っているし、また、カトリックにもこういう思想がある(全部とはいえないが)。ところが、「神は人間の理解を超える絶対的なものである」ことを強調するのはよいが、「だから神は、人間を救うことも救わないことも自由なのであり、『人間は必ず救われる』と考えることすら人間の傲慢と言わねばならない」とまで考えるのは、ちょっとやりすぎではないかというのが率直な感想である。たぶん、子供の頃から刷り込まれていない限りは決してこういう考え方はしないのではないだろうか。
プロテスタントで神がものすごく遠い存在になった。これに対してカトリックや正教では自然の中にも神性は宿っているものであり、また典礼を通して神は近づくので、神と人間の距離ははるかに近い。これを佐藤優は、宗派の違いとして説明するが、果たしてそれだけか? 近代のプロテスタンティズムは「近代的世界観」をまともに受け止め、自然科学の持つ自然観を承認した上で、それと信仰をどう折り合いつけるかという立場で形成されてきたのだが(カルヴァンなど創始者たちはまたちょっと違って、世界観的には近代ではなかったが)、カトリックや正教はそういう近代的自然観を承認していない、との違いではなかろうか。宗派の違い、つまりは趣味の問題、ということではなく、近代を受け入れるか、それを超えようとするか、との立場の違いなのではないか。そこから、カトリックを中心としたヌーヴェルテオロジーや、また正教からソロヴィヨフ、ブルガーコフなどの神学が出てきている、というこではなかろうか。
佐藤優の神学ガイドブックで勉強しても、それは狭い範囲の近代プロテスタンティズム神学を学ぶというだけなので、キリスト教思想とはもっとはるかに広いものである。
話をペンテコステに戻すと、これはさらに、近代を超えない限り理解することが困難な宗教である。何せ現実にそういう超自然的なことがばんばん起こってしまうのであるから。
スミスの本のタイトルになっている Thinking in tongues というのは、speaking in tongues のもじりである。speaking in tongues というのは、聖霊に満たされた状態で、意味のわからない言語を話し始めるという現象である。「異言」と訳されるが、聖書にも書いてあり、キリスト教創立当初にはさかんに行われていた。これは公開で行われる場合は、それを解釈する人がいることになっている。実を言うとこれはニューエイジ界で「宇宙語」と言われる現象とほぼ同じである。有名な例では、最近は日本でもワークショップをやっているジェイミー・プライスという人が Light language と呼んでやっているのは、ペンテコステの文脈で異言と言われるのとほぼ同じである。興味のある人はヴォイスのワークショップのページに動画が貼ってあってそこで実際にこれをやっているのを見ることができる。実はここで告白すれば、私自身もこうしたことをやろうと思えばやることはできるし、やったこともある。
またペンテコステで行っているヒーリングや、サイキック・リーディング的なことも、ニューエイジ界では当たり前のように行われているのは周知のことである。つまりこれは、世界的に、そういった近代の枠組みを超える力がリバイバルしているのであり、それがキリスト教の文脈になればペンテコステだし、脱宗教的な文脈になればニューエイジなのである。その両方を、大きな脱近代の流れとして受け止める必要がある。
スミスが speaking in tongues を thinking in tongues と変えたのは、そうしたリバイバル運動の意味について考える、という意味である。これを理解するためには、近代の枠組みでいくら考えても無駄である。心理学的にどうとかこうとか、社会学的にこうとか、そういう従来の学術による分析をしたところで、近代を超えるものを近代の枠組みに納めることで理解しようとすることになる。これは一種の「悪魔払い」に過ぎず、知的植民地主義であり、またオリエンタリズムでもあるだろう。近代の立場から見る限り、私自身も、怪しいオカルトに入り込んだ人でしかないのである。
従って、根本的な近代的世界観、自然観のクリティックがなければ、こうしたことは全く理解することができない。
キリスト教を見るのに、カトリック、プロテスタント、正教という枠組みというより、むしろ、cessationism/continuationism という枠組みで見ることも必要である。
聖霊のわざは今この瞬間にも働いていることを受け入れるのならば、その前提に立ってすべて、世界とはどういうものかを根本的に考え直さなければならなくなる。
だから、その意味で、断固としてポストモダンでなければならないのだが、今言われている哲学のポストモダンは、果たして十分であろうか、という問題がある。
哲学/神学という分離をあらかじめ前提としてしまっているところで考えても限界がある。
私も大学院時代から、「気」のトレーニングを始め、様々な体験を経る中で、これを理解し、位置づけるには近代を超えねばならないと気づいて、デリダあたりを読んだりしていた時代もあった。その中で中沢新一が何か示してくれるという期待を抱いたこともあったが、オウム事件により、彼が基本的に「サニワ」の能力がないことがわかったので興味を失った(教えとか修行とか、外形的なものだけでは正統的なインドのヨーガの立場とあまり差別化できない。ただ教祖の持っている波動、エネルギーを感じてホンモノかどうか判別しなければならないのだ)。そこで、私が求めていたのはこの Speaking in tongues のような本であったのだ。ようやく2010年代になってこういう思考が学べるようになってきたとは。
私はもちろんペンテコステでも、キリスト教でもなく、キリスト教は一ファンというにすぎず(ただキリストの聖性は認めているのだが)、基本的には「脱宗教的霊性」の立場に立っているのであるが、私が経験し、当たり前にあると見なしている世界は、ペンテコステと共通したものがかなりある。だから、それを位置づけることができるような、近代批判を経た新しい世界観的立場の構築というジェームズ・スミスの立場は大いに参考になるのである。
Thinking in tongues の冒頭にはこのような言葉が掲げられている。
What hath Athens to do with Azusa Street?
(アテネとアズサストリートにどんな関係があるのか)
これは初期のキリスト教神学者、テルトゥリアヌスの言葉、「アテネとエルサレムにどんな関係があるのか」をもじったものである。アテネとはギリシア哲学の意味で、エルサレムはキリスト教を指す。キリスト教とギリシア哲学の関係はどういうものになるのか、これが初期のキリスト教思想界の最大の問題であった。それを端的に示している言葉である。ここでスミスが「アズサストリート」と言い換えたが、これは、ペンテコステ運動の発祥の地とされるのがロサンゼルス郊外のアズサ通りにあった教会で起こったリバイバル運動だったことを指す。1906年のことである(アズサ・ストリート・リバイバルについては日本語のウィキペディアの記述もある)。つまり、「ペンテコステ運動について哲学するとはいったいどういうことなのか」という意味になるわけである。
それをいかがわしい、危ないもの、前近代の名残、知的でない人しか信じない・・などという受け止め方から解放し、「それは人間の霊性としてまっとうなものだぞ」ということを哲学の力により、近代のクリティークを行うことによって示そう、というのがジェームズ・スミスの企図だということになる。
こういう、世界の大きな動きを見ていくためには、哲学と神学を合体させて見ていく必要を痛感する。日本の知識人の大半は、神学がまったくわからない。しかし、最もラディカルな近代批判は、哲学ではなく神学から提示されているのだ。
その神学は決して、佐藤優の神学ガイドブックで学べるような神学ではない。私の見るところ、注目すべき流れは次のようなものだ。
・フランスのヌーヴェル・テオロジー(カトリック系) (Nouvelle theologie: Henri de Lubac, Congar, Chenu, Balthasar...)
・英語圏のラディカル・オーソドキシー(カトリック中心) (Radical Orthodoxy: John Milbank, Catherine Pickstock, Graham Ward ...)
・ロシアのソフィア論的神学 (Solovyov, Bulgakov, V. Lossky, Florensky ...)
・ペンテコステ神学 (Pentecostal theology: Amos Yong, James K. A. Smith, ..)
残念ながら、日本語しか読めない人は、こうした思想について知ることができるものは、あまり多くない。少なくとも英語は自由に読める必要がある。それと、基本的な神学や哲学の基礎知識が必要なので、日本でこういう思想を知ることができる人の数は限られる。(上の三つは細々と知っている人もいると思うが、ペンテコステ神学はまだ知識人には敷居が高そうである。この中ではソロヴィヨフが日本では知られている方だ)
哲学での、特に現象学の中から、ジャン=リュック・マリオンやミシェル・アンリなど、「神学的転回」と言われる動きが出てきているのは、こういう一連の流れの中で見ていく必要もある。
特にニューエイジ的霊性との連動について考えていく場合には、ペンテコステ神学が重要になる。明確に continuationism に立つ必要があるからだ。一方、ニューエイジ側もともすれば「神」を忘れがちになることへの警告ともなるだろう。
もちろんペンテコステ運動に固有の危険や落とし穴がないとは言わない。しかし、近代の枠組みを受け入れた従来型の神学思考の限界にもまた、きわめて大きな危険が潜むであろう。
佐藤優は完全な cessationist である(いや、「『奇跡』は初期だけで終わった」ではなく「最初からなかった」というのならその名前さえ使えないだろう)。「イエスが復活したとは、イエスが復活した夢を見た人がいて、それを現実と理解したのである。この当時は夢もまた現実と考えられていたのだ」という意味のことを彼は書いているが、ここまであけすけにイエスの復活を「否定」することが異端ではなく当然と見なされているのかが近代プロテスタンティズムなのであろうか。聖書に書かれている数多くのイエスによるヒーリングや物質化現象を「ありえない」と見なし否定する近代プロテスタンティズム神学は、近代の自然観がそれ自身一つのフィクションでしかないことに気づいていない。イエスは文字通り復活したと考えてどこもおかしいことはないのだ。手を当てることで病人が癒やされることだって「普通にあること」であり、神人ならばその程度のことができて当たり前である。そう考えることが「まっとう」であることをどのように説明するのか。このような、イエスの持っていた「力」の本質が理解され、さらに「私ができることはあなたもまたできるようになるであろう」というイエスの言葉が真実であることが、やがて明らかになるであろうと期待するものである。