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神学とポストモダン

Thinking in tongues を読み終えた。先に書いたように刺激的な書だったが、最後の、異言を言語論的に見ていくのは、もう一つだったか。これは、マントラ・真言のような言語の深みへと入っていかなくては・・ そこまで行くと言語と言うよりエネルギー、波動の領域になってくるが・・ 空海の言語論やインドの密教的な言語論などとクロスして異言を考察してみるとどうだろうか。

さて、さらにジェームズ・スミスつづきで、Who's Afraid of Postmodernism? をダウンロードしてみた。訳すと『ポストモダンなんて恐くない』というような軟派なタイトルである。デリダ、リオタール、フーコーを取り上げているが、ポストモダンは実はキリスト教の刷新に使えます、というような内容であるらしい。ここで彼は、ポストモダンとはある意味でプレモダンを取り戻すことだ、とはっきり語っている。

ここで、啓蒙主義が「理性」であり、プレモダンは理性を捨てることだ、などと考えてはいけない。佐藤優が代弁しているようなバルト流の近代神学は、「理性」と「信仰」が全く対立する概念だと見なしているが、そもそもそこで言う「理性」概念そのものがきわめて近代的なものである。そこで理性と信仰はまったく折り合わなくなるが、それは、そのようなものとして理性を規定しているためである。プレモダンは理性と信仰をそのような対立項では見ていない。近代になって理性をきわめて限定されたものに捉えたために、理性と信仰が鋭く対立するようになった。そしてこのような二極化をそういうものだとしてあらかじめ前提としたところに近代神学が成り立っている。ポストモダンはそのような近代的理性概念への批判であるが、それは反理性ではなく、理性を再定義し、理性をあるべき位置に戻すということである。

もともとプレモダンにあった一つの考え方として「照明」というコンセプトがある。それは、理性は神によって「照明」を受け、導かれるという考え方である。だから、究極のところまでは理性で行くことはできないけれども、ある程度までは、理性を導きにして神へ近づくことは可能である、というのが照明説の考え方である。これはアウグスティヌスに代表され、中世には有力であったコンセプトだ。

実は私の霊性思想、普遍神学は、この照明説をかなり取り入れている。『魂のロゴス』などで、「魂は<イデー>を受け取る」と言われているのはそういうことである。つまり人間が何かを思いつくという時に、その何かが実は「自分」に発しているのでなくて、高次から贈られてきていることもある、ということだ。イデーとは「ギフト」なのである。

近代プロテスタンティズム神学では、このような考え方が一切、排除されており、「ありえない」と見なされていることは明かだろう。そのようなことを排除した上で「理性」という概念を作っているのであるから、それが「信仰」と全く相容れないものになるのは当然である。(啓蒙主義的理性は、自然法則的なものとして神を理解する「理神論 (Deism)を掲げたが、バルトの神学は、ある意味で、それを裏返したものである。その二つはモダンの二極化の表れである)

そこで、わかっていただきたいのは、時代が変わるというのは、このように、ものを考えていくときの基本的なコンセプト群の「布置」が変化するということなのである。だから、近代の時代の布置を自明の前提とすれば、プレモダンにできた思想が理解できないのは当然のことである。ならば、ポストモダンの時代にはモダンの思想に違和感が出てくるのも当然である。私たちはすでにポストモダンに入っているというのが私の認識である。であるから、完全にモダンの世界に生きている佐藤優の神学に違和感を覚えるわけである。バルト神学を基本として勉強しなさいなんて、そんなアドバイスに従う必要はまったくない。それをやっても、モダンの時代が持っている「隠れた自明性の地平」は見えない。現代神学の持っている思想的可能性は、そういうところにはないように思われる。モダンの持っていた、理性と信仰という二極性の布置そのものが変革されねばならない。

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