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2015.05.05

世界地平の複数性と人類の未来

カルカイネンというフィンランド出身の神学者の書いている神学各分野の教科書は、欧米以外の神学にも広く目配りしてあって情報価値の高いものである。そのキリスト論を読んでいたら、インドのサマルタという神学者の説が目にとまった。

イエス・キリストは唯一の救い主ではない。救い主はたくさんいる中での一人である、つまり、インドで言う「アヴァターラ」の一人である、と言っているという。これは私がすでにいろいろな本に書いている主張と同じである。しかし、短い記述なので、この説に背景にどのような世界理解があるのかはよくわからない。

アヴァターラのイデーは、この現実世界と高次次元が関連し合ってこの宇宙がある、という理解に立たないと受け入れにくい。インド人にはこれはほとんど抵抗のないものなのだろう。そのような「奇跡」が信じられなくなったのでいろいろ苦労してきていた近代ヨーロッパ人の神学者などどこ吹く風という感じである。(欧米人と言っても「知識人」ではない人々は今でも全く抵抗がなかったりするだろう。アメリカには、聖書にある奇跡や復活を「文字通り」信じている人はごまんといる。何を隠そう私も文字通り信じているが)

アヴァターラという現象とは、高次次元に存在している神的存在が、その神性を保ったままで人間として生まれる、ということを意味している。神性が人間世界に入っていくわけである。

これまでのヨーロッパの神学の歴史を見ていると、「存在世界とはどのように生成するか」ということについて理解が単純だという傾向がある。神がその世界を造ったか、または、神とは関わりなしにそこに客観的に存在しているのか、そのどちらである。前者から後者に変わったわけだが、そのほかの可能性があまり考えられていない。

二十世紀になってようやく、「存在世界は共同主観性により生成しているのではないか?」との発想が哲学から出てきた。これは現象学に始まるものだが、構造主義なども似たようなパラダイムに立つ。日本でも廣松渉によって一時はやったが、要するに「現実は一つの共同幻想」という発想に近いだろう。当然ながら、これはもともと仏教にあった世界観に近いものである。

このパラダイムに立っているのが例の映画「マトリックス」で、誰かが意図的にマトリックスの現実の中に入っていくというのは、一種のアヴァターラと同じである。高次から見ると宇宙はああいうふうに見えるのではないか、とのメタファーがあそこにはあるのだ。

私の普遍神学は、こうした、共同主観性による「地平の形成」を、現実世界が成立するメカニズムと見なしている。そこで主に参考にしているのは仏教の唯識の思想だ。したがって、これは仏教をベースとしてキリスト教的な原理をも包含しようという方向の普遍神学である、とも言える。

重要なのは、こうした「現実の地平」は、「複数ある」ということなのだ。世界は複数なのである。

神学の歴史について、私は概説書をいくつか読んだだけだが、その限りでは、世界の複数性というコンセプトが神学で語られていることはあまりないように見える。哲学では、ハイデッガーもそれに言及したりしているのだが。

物質世界というのもこうした現実の地平の一つであり、宇宙には、これとは異なる世界構造をしている現実の地平もたくさんあるのである。それを異次元世界と呼ぶのだ。したがって、物質世界を動かしている自然法則というものも、この地平内部での「ローカルルール」であり、全宇宙にあてはまるものではない。時間・空間もまたこうしたローカルルールである。このように考えれば、自然法則を破るようなことを神がするはずがない、などという近代神学者の発想は思い込みにすぎないことがわかる。宇宙にはこれより上位の法則があるのだ。

こうした世界地平は神(存在の根源)の「内部」に「分開」されていく、と私は『魂のロゴス』や『叡智のための哲学』で述べている。これは神の自己収縮(ケノーシス)と言えなくもない。この本を書いたときはあまり知らなかったのだが、神学では、モルトマンがこれに近いことを言っている。モルトマンはカバラを参考にしているらしい。私のアイデアはヤコブ・ベーメから来ているのだが、ベーメは錬金術からアイデアをとっているから、歴史的にカバラとはつながっている。というより、これは、表舞台にはあまり出ないが、ヨーロッパ精神史の底流にはつねに存在していた考え方である。それを言えば、ヘーゲルの思想だってまさしくそういうものではないのか。ヘーゲルへのベーメの影響を否定する人はいるまい。

しかし、モルトマンには、そういった世界地平の複数性というアイデアはあるのであろうか。解説を見た限りでは出てこないのだが、そのうちにモルトマンの著作で確かめなくてはならない。

さて私が、世界地平の複数性という基本的な見方に立つことには、重要な意味がある。というのは、「神学的思考の地動説化」ということである。

これまで神学的思考は、ほとんどの場合、神と人間だけを気にしていた。神が気にかけて救済しようとしているのは宇宙に人間だけみたいなイメージがそこにはあるが、それはどうであろうか。世界像は天動説ではなくなったのに、この神学は天と地だけしか視野に入れていない天動説レベルのものである。しかし、地球がこの宇宙における一つの世界地平に過ぎず、宇宙にはもっと無限の世界地平が同時に存在しており、それらすべてを包括しているのが神である、という「地動説的ヴィジョン」が神学的思考にも求められている。

以下に述べるのはあくまで私のイマジネーションである。神は、この宇宙にある無限の世界地平と、そこに存在する存在者の集まりをすべて包含し、自己の知として知っており、それらすべてが「すべてが一つになる」という永遠の完成へと向けて動かしているのである。神の目からすると、この人類の住んでいる世界地平は、決して宇宙の中で孤立しているのではなく、多くの世界地平とその住人たちとの間の複雑な相互関係のもとにあり、多くの助力が地球へと注がれているのである。しかし地球人は未だに、自己の世界地平を超える知覚を十分に発達させておらず、自分の理解する世界地平こそが宇宙そのものであるというきわめて幼稚な認識しか持てないのでいる。しかし、この状況は変わりつつあり、地球人は次第に、より大きな宇宙の存在に気づき始めているのである・・・

「マトリックス」のような映画が出現したというのもこの目覚めの過程の一部である。

このようなヴィジョンから「天使論」を考えるのも必要である。複数の世界地平に気がつくということはそこに本格的な「交流」が開始される可能性があるということである。これからの「新しい人類」は、こうした交流を当たり前のこととして行うことになるだろう。

聖書では、イエスが悪霊を追い出したりしており、同じようなことは今もカリスマ系教会では普通に行われているが、私たちの世界地平と隣り合って異なる世界地平があり、その両者は頻繁に作用し合う、という基本的な世界了解があるならそれはきわめて「信じられる」ことなのである。あるいは、「宇宙人」と言われるものも、このような「世界地平の複数性とその相互交流」というパラダイムから見れば全く矛盾がなく受け入れ可能となる。近代的教育を受けると「世界地平は一つしかない」との形而上学的前提が事実そのものだと教えられることになる。アカデミーでは「世界地平の複数性」を前提としたことをまじめに主張することは難しいのである。

しかし私は、人類の文明は、今後数百年にわたって、そういう方向に動くと思う。つまりこれは、鎖国から開国するような歴史的転換にたとえられる。
このようなヴィジョンは、アカデミーに属している人は決して口にすることはできないが、私のようなフリーの立場だからこそ言うことができるのである。心で思っていても、社会的地位が危うくなるので言えない人もいるだろう。

世界地平が複数あるということは、また同時に、伝統的な宇宙観で言われているように、そこにはある程度の階層性が存在するというヴィジョンを復活させることにもなる。高次世界というものがある。そこでキリストもブッダも観世音菩薩も弘法大師も現に生きており地球界を導いているのである。世界地平の複数性を認めれば、多くの霊的世界観を取り戻すこともできるのだ。

*追記
私の知る範囲では、プロセス神学には、複数の世界地平というイデーが含まれているように思われる。プロセス神学やモルトマンを思い切って違う方向に展開させると面白いかもしれない。プロセス神学には、「平行現実論」へ発展させる可能性もあるように感じる。また、カルカイネンがいくつか紹介しているが、アフリカ人の神学では、人間世界と霊的世界が相互交流しているのは当たり前だという前提が含まれているようである。

2015.05.03

知解を求める信仰

ヨーロッパ中世思想のモットーに「知解を求める信仰」というのがある。英語で言うと Faith seeking understanding だ。信仰というのは単に頭だけでなんとかを信じるという浅いものではない。魂次元でなるほどそうだな、と直覚的にわかるということを含んでいる。たとえば「神は愛である」と言ったらほんとうに神が愛であると納得できるような魂的な体験があるということを信仰を持っているというのである。
そういう直覚的な理解を持つという上で、さらに、存在とか世界の構成などについての全体的な世界理解とその「信仰」を統合させ、生きるための基本的な方向付けを得ようとする、これを「知解を求める信仰」と言うわけである(これは、あくまで私の理解である)。

つまり、私のこれまでの本とかこのブログなどは基本的にこうした「知解を求める信仰」という意味での「知」を目指しているし、そういうものを求める人をターゲットとしている、というわけである。

であるから、単に知性だけでは理解できないことを含んでいる。最も重要なことは知性では知られず、ある直覚によってわかるしかない、ということは最初から前提としている。これは中世までの思想の立場であって、近代以降の、理性のみで問題を追及するという立場ではない。

しかしまた、知性はより高次の領域からの「照明」を受けることができ、その導きによって、知性は霊的真理へと導くという役割をすることも可能になる(たとえ、真理そのものに到達できなくても)、ということもそこに入っている(この照明説は、アウグスティヌスに始まるものであり、中世まで有力であった考え方である。私がいろいろなところで「イデーを受け取る」と言っているのはこの照明説をもとにしている)。照明もまた一つのスピリチュアルギフトだと言うことができよう。

こういう考え方で進むのがいわゆる神学なのだが(もっともこれと違う考え方の神学もたくさんあるが)、それをキリスト教の枠からも解き放つものが普遍神学なのである。

2015.05.02

異言をやってみた

キリスト教系のスピリチュアル・ギフトの本を何冊か読んだが、ギフトの中でも重要なものと位置づけられているのが「異言」である。
これは、聖霊に満たされて、普通とは違うよくわからない言語で話し始めるという現象だ。パウロもこれが得意だったと言われ、人にも推奨している。

違う文脈では、宇宙語とか、ライト・ランゲージとも言われている。
この異言は意味がわからないが、その意味を解釈するのもまたギフトの一つとされる。
カリスマ系教会では、異言を語る人と解釈する人が別の場合が多いらしいのだが、もしこれを一人でやって、その解釈(翻訳)だけを語るならば、それはチャネリングという名前で呼ばれることになるだろう。したがって、チャネリングができる人は、みな異言をやろうと思えばできるはずである。

ただ、チャネリングではいろいろな存在をチャネルする。宇宙人だったり、天使や、マスターだったりするが、異言の場合は、必ず、神、聖霊でなければならない(神と聖霊は同じである)。

パウロは異言の達人であった。意味がわからないので、教会でやるときは必ず解釈がつかなくてはいけないのだが、自分で祈りの一種としてやるときには解釈はしなくてもいい。パウロは自分で一人の時間に祈りの形として異言をやっていたのである。

異言はそんなにいいのか?
・・というわけで、私もやってみた(こういう展開になるのが私の特徴だが)。
実は前から何度かやったことはあるが、普通は意味がわかった方がいいので、だいたいは翻訳を話すことになる。すなわちチャネリングの形にすることが多く、異言そのものはそんなにやっていなかった。

まず、エネルギーが流れてくる感じになる。
翻訳をオフにすると、まったく言語機能を使わなくなるので、左脳の活動が低下するわけだ。瞑想状態のような感じになってくる。そしてエネルギーが絶え間なく天から降り注いで、何かが自分の中にダウンロードされていく感覚になる。

なるほど、これはかなり強力なワークだ、と思った。これを毎日続けるとかなり変化が起こってくるように思われる。

その後で、その意味を聞いてみた。一人二役である。
あんまりやりすぎてはいけないが、継続的に異言を練習するのは、エネルギーの調整が進むのでいいことだそうだ。もともと私はギフトの中では異言とその解釈に強いそうだ。ヒーリングもそれをリクエストするならばもっとできるようになる、とも言っていた。
大事なのは、すべて知性や意識でわかろうとしないこと。自分が気づいていない部分で変化が進行していくので、すべてを自分で把握しなければならない、との考えを手放すこと。そうすれば次のステージへいくためのきっかけとなっていくだろう。・・・こんな感じのことであった。ただし、言語化したのは来たもののほんの一部である。

こんなことを書くから、知識人層はドン引きして、本が売れなくなるのであるが、まあこれが私であるから仕方ないのである(笑)

「スピリチュアル知識人」が消えた

ジャック・ディアーの本を読んだが、前に書いたように、神学教授だった人が、スピリチュアル・ギフトに目覚めてカリスマ運動に身を投じた、という人。それを読んで、一つのことに気づいた。

それは、ラジカル・オーソドキシーとか、そういうヨーロッパの現代神学とは全く異質な環境にある、ということ。全然、読者の対象が違うのだ。ラジカル・オーソドキシーや、あるいはジェームズ・スミスなどは、基本的にヨーロッパの、キリスト教に関心のある知識層を対象としている。神学部で学んだり牧師であったり、あるいは知識人での神学シンパというか、そんな感じなのだ。ヨーロッパの二十世紀の神学は、いかにして自然科学の世界観と信仰との折り合いをつけるか、という苦悩から生まれている。そこでラジカル・オーソドキシーは、いや、近代の自然科学的世界観なるものも決して「客観的」ではなく、一つの形而上学なのだからあまり気にしなくてよい、という論法を展開していく。つまりターゲットとしている多くの人は、「自然界は基本的に自然法則のみで動いており、神がそこに介入することはない」という思い込みをすでに持っており、それをいかに解体していくかというテーマがある。

ところがジャック・ディアーは、神学教授とは言ってもテキサスはダラスの神学校である。いわゆるバイブル・ベルトと呼ばれる地域のど真ん中だ。その本を読んでいると、「自然法則がどうあろうと、神は必要があればいつでも自分のしたいことをするのは当然だろう」ということが自明の前提としてあるようなのだ。つまりここでは、ラジカル・オーソドキシーのような論法には意味はない。神の絶対性は自然科学を超越するのは当たり前だと思っているのだ。

そこでジャック・ディアーは、スピリチュアル・ギフトがあるということは聖書にはっきり書いてあるということを強調する。むしろギフトを求めなさいと書いてあるのだ。そのように、聖書に裏付けられている、ということが彼やその読者にとってはひじょうに重要なことになるのだ。そしてもう一つは、経験である。スピリチュアルギフトを人々が信じないのは、実際に自分で聖書レベルの奇跡を目撃したことがないからだろう、との論法を展開する。言いかえれば、実際に経験すれば信じるようになる、ということだ。このように、聖書の権威と実際の経験という二つを使って説得していく。ターゲットとしている人たちは、「自然界は基本的に閉じており神の介入を受けるはずがない」という形而上学的枠組みを信じているから、ギフトを信じないのではないのだ。神はやろうと思えば何でもやれるけれど、もう今では必要ないからやらなくなったのだ、という「教理」を信じており、身の回りにも実際に見たことないから、という理由で信じないのである。そこがヨーロッパの知識人とは理由が違うところである。要するに、ヨーロッパの知識人層とはとても遠い世界に、アメリカのカリスマ運動系教会というものは位置している。

そのあまりの違いというものにちょっと考えさせられた。
というのは、私も時々、「あなたは誰に向かって書いているのか」などという質問を受けることがある。
ここで書いているような考察は、どちらかといえば知識人層向けになるのかもしれない。しかし、ヨーロッパと比べて、日本には神学や形而上学の伝統がない。そのため、知識人が、通常の理性を超えた超越的なことがらを論じるという習慣があまりない。哲学はいちおうあるが神学がほとんどない。日本はキリスト教国ではないから当然ではあるが。本当は仏教も神道も取り込んだ総合的神学に向かわねばならないだろうが、そういう学問分野は存在していない。もしあったら私がまっさきに専攻しているところだが、私が大学を受験したとき以来いまだにできてはいない。ここをターゲットにしてもほとんど本は売れないらしいということもわかってきた。佐藤優ではないが、西洋社会が神学という伝統を持っているということは大きな強みなのだな、ということは実感する。日本の知識人は、西洋の根っこにある思想をちゃんと勉強していないので、文明の根幹をなすものがなんであるか、というスケールの大きな思考ができない。

これに対して、私もそこに片足つっこんでいるようなニューエイジ的霊性の世界はというと、今度はさっきのジョン・ディアーではないが、非物質次元が物質次元とつながっていることはすでに当然の前提とされているところもある。これまた、ラジカル・オーソドキシーのようなことを言う必要はほとんどないのだ。超感覚といものがあって、それを開発することも可能である、ということはすでに当たり前なのである。その可能性を改めて思想的に説明したりする必要性はなきに等しいのである。ただ、広く神学を勉強すると、ニューエイジ的霊性のどこが強くて、どこが弱いかということもよくわかってくる。

つまり、もしそういうニューエイジ的霊性の世界の人をターゲットにするなら、ラジカル・オーソドキシーの話なんかしてもあまり意味はないし、内容はもっと変えていかねばならなくなるだろう。

湯浅泰雄などがいた頃は、「スピリチュアル知識人」という存在が影響力をある程度持ったが、今は、ニューエイジ的霊性の世界にいる人々は、ほとんど知識人や学問界の言うことなど気にしなくなっていると思う。つまり、知識人がスピリチュアルに影響力を持っていたという時代は終わったようなのだ。それはたぶん、中沢新一のオウム事件による凋落、そして湯浅泰雄の死去をもって終わったということかもしれない。今はたとえば、普通の人が自分の経験を元に語るようなスタイルの方が人気があるのではなかろうか。あるいは、全然宗教や哲学には門外漢の、東大病院の医師が書いたスピリチュアル本などが人気を博したりしている。

ニューエイジ的霊性についての解説本、知的枠組みを与えるというような試みは、もはや必要とされていないのかも? という気もしてくる。必要とする人はいるのかもしれないが、英語圏はともかく日本語マーケットではペイできないほど少数になってしまっているのかもしれない。そこで、Kindle本あたりが適当なところになる、というわけであろうか。どうも私の本などは、知識人層にとってはあまりに直観的に過ぎ、スピリチュアルの世界の人にとっては難しすぎ(思考が強すぎる)、という「はざま」に入っているのかもしれない。その二つの層は、ラジカル・オーソドキシーとカリスマ教会くらいの違いがあって、混じり合わないのだな、ということである。

2015.05.01

無料キャンペーンのお知らせ『普遍神学序説』

連休の、5月2日~6日までの5日間、Kindle本『普遍神学序説』の無料キャンペーンを行います。
開始日は17:00開始、終了日の16:59に終了するそうです(アメリカ夏時間実施期間は1時間繰り上げ・・今はどうなのでしょうか)。

神の業は至る所にある

佐藤優(というか、彼に代表される近代プロテスタンティズム神学の一般的な考え方)と私の神学との最大の違いは、神を知る手段が聖書以外にはない、と考えるか、神の業はいろいろなところで起こっており、知ることができるという立場に立つか、である。

いろいろなところというのは、たとえば自然だし、また、癒やしや預言などのいわゆる「超自然」的なことがそれにあたる(本当は「超自然」なんてものはないと思うが)。

いま、ジャック・ディアーという人の本を読んでいるのだが、この人は、最初、「神の啓示は聖書以外に知る手段はない」という一般的な考えを信じている神学教授だったのだが、いろいろな不思議な経験を経て、自分もまたいつのまにかこうした「奇蹟的」なことができるようになってしまった人である。大きく言えばそれもアメリカの一つの宗教的伝統である「リバイバル」の一例である。神学教授の椅子に安住することなく、真理を求めようとする姿勢に感銘を覚える。

このような、現実に神の業が起こっていることを重視するキリスト教は、ペンテコステとかカリスマ運動と呼ばれる。そこにいろいろな危険や幻想がありうることは百も承知であるが、そういうことを一切「ない」と見なして否定する方も、それに劣らぬ、いやそれ以上の危険があると見なすべきだと思う。

私のような脱宗教的霊性の立場からは、カリスマ運動は最も興味深いキリスト教である。原始教会はこれと同じことをしていたのは間違いないのである。それがぶっ飛びというなら、そもそもキリスト教のパワーは本来ぶっ飛びにあったのである。しかし、何もコントロールがなく拡散しがちなニューエイジ的霊性に対して、宗教的なコアを持つカリスマ運動の方が安定している面もかなりある。私は決してニューエイジ的霊性の否定者ではない。むしろ自分自身はその渦中にあるともいえる。しかしニューエイジ的霊性はいかにして霊的なコアを持つのか、明確な組織を持たないだけに難しい面があることも考えさせられる。

ともあれ、そういう「超自然」が現実にあるのであれば、それがあるという前提で根本的に世界観や神学を考え直す他ないだろう。そういうものが「ありますよ」と認めたとたんに崩壊してしまうような神学は崩壊すればいいだろう。そこに「世間からどう見られるか」という自己保身が入り込んでいないかどうかよく吟味するべきだろう。

佐藤優の『神学部とは何か』


佐藤優の『神学部とは何か』を借りてきて、一気に読んだ。読みやすかったが、これまで読んだ彼の宗教論、神学の本の中ではいちばんよかった。『神学の思考』の前にこれを読むべきだった。『神学の思考』は、かなり本格的な神学入門であるが、プロテスタンティズム色が強く出ている。そのプロテスタンティズム神学というのは、日本の伝統的な宗教性からは最も遠いところにあるので、基本的になじみにくいと思う。キリスト教と言っても東方正教やカトリックの神学(特に最近の)や、また古い教父の神学は全然違うので、むしろそうした非近代的神学の方が日本人にははるかにわかりやすい。が、この『神学部とは何か』はそこまでプロテスタンティズム神学に深入りせず、そもそも「神学とは何か」ということがわりとさくっとわかるように書かれているという意味では、お勧めではある。

神学は虚の学問であるが故に根源的に「役に立つ」という意見には私も賛成である。
神学は哲学とはどう違うのか? 哲学と言ってもいろいろあることは事実だが、これもざっくり言えば、単なる理性では及ばない根本的な領域までも知的に踏み込んでいくのが神学だ、ということである。ここで佐藤は、神学の知性は単なる理性を超えていく、ということを示唆しているが、ここは共感できるポイントだ。

私が提唱する普遍神学とは普通の神学とはどう違うのか? キリスト教神学はまず、イエス・キリストが救い主であることを受け入れることから始まる。普遍神学では、キリストが救い主であることを認めるが、「唯一の救い主ではない」と考える。つまり、そうした人類救済のために地上に生を受けた霊はキリストのほかにもいろいろいたし、今もいる、と考える。言ってみれば高次元世界には「マスターたちのコミュニティー」があって、そこから地球のために様々な手がさしのべられている、と見る。このように、キリスト教という枠を拡張していくのだ。

また、大きく言って、世界の宗教には、「転生」を認める考え方と、認めない考え方がある。キリスト教は初期には転生を認めていたが、やがて認めない方向に舵を切った。転生を認めるということは、魂が肉体より先にあることを前提とする。つまり肉体がなくて魂だけの状態で生きていることがありうることになる。私の普遍神学では、キリスト教が転生を否定したことは誤りではなかったかと考える。その点は仏教などインド系思想に分がある。ただ転生というイメージは、直線的時間という軸で言われていることであり、この軸は物質次元固有のものであるので、霊的次元においては転生というものはなく「平行生」があるだけである。また、魂だけで存在しているというのも厳密に言うと正確ではなく、その場合でも「微細な身体性」を持つと考えている(微細な身体性というコンセプトは西洋の新プラトン主義にもある)。したがって私は、今キリスト教で正統とされているよりももう少し「プラトン主義寄り」に解釈した方がインド思想ともつながるし、そちらがより真理に近い表象になるのではないかと思う。オリゲネスあたりがバランスとしてはよかった。ラディカル・オーソドキシーのジョン・ミルバンクなどは新プラトン主義のイアンブリコスなどを評価するのであるが、私もそのへんの評価軸に近い。イアンブリコスは実践の人であった。

普遍神学も神学である以上、「信仰」を前提とする。しかし一般の日本人は信仰と言われてもよくわからないことが多いだろう。信仰というのは「私は・・・を信じます」という「信仰箇条」を受け入れるということなのであろうか。そのように言うと何か知的な行為のように感じられるが、実はそうではない。信仰というのは「理性では理解できないことがらについて、直覚的に何かを感じること」をもととしている。つまり言ってみれば霊的感覚がその基盤にある。

人間の知性は限られたものだが、人間は、知性でわかる以上のことを何らかの形で「知る」ことが可能なのだという、その見方に立たない限り人間に救いはない。そこに神学があるのだ。ただ、それを人々に共通の言語で表現するときにまた限界があり、いろいろな解釈が生じてしまうのは避け得ないのだ。そういう限界を最初から持っているのである。そこを佐藤優は、神学論争に解決はあり得ないと断言しているが、まったくその通りである。結論は最初から決まっており、そこへ持って行くための論理付けをしているのだという。結論は霊的直観で「こうである」と理解したものなので、論理で到達したものではないからそうなるのである。

もともと神学とはそういうものなのだが、二十世紀の神学(プロテスタティズムは特に)は、「自然科学の言うことと矛盾してはいけない」ということを気にしすぎていたと思う。無理に合わせなくてもいいのだ、ということは近代的世界観へのクリティックがあって初めて可能になる。なので、そういうクリティックが出てきている現在、そういう「妥協の産物」の神学は意味を失った、と私は考えている。そもそも、「神は人類救済のために自分のある部分を地球に降下させ、肉体ある存在として出現させた」という、近代から見れば荒唐無稽なることを信じるのであるのに、何をいまさら科学などに遠慮する必要があろうか。近代を突き抜ける「ぶっ飛び性」を有していることこそキリスト教の強みではなかろうか。佐藤優の『神学の思考』の方には、そういうぶっ飛び性がちょっと欠けていたかな、という気もした。「人間イエス」なんてはっきり言えばどうでもいいのである。人間であると同時に神であるというとんでもないことを言い出すのがキリスト教のパワーなのだ。私はそこに最大の魅力を感じる。そのとんでもなさがある神秘を指し示しているという感性を大事にするべきだ。

ともあれ、「神学は面白い」ということだけ伝われば『神学部とは何か』の役目は果たしていると思うので、ある程度は成功した本だと思う。私も高校時代に神に関心はあったが、さすがに神学部は受験しようと思わなかった。しかし今考えれば、文学部などより面白い勉強ができたかもしれないなあ、と思うが、さすがに就職のことも少しは考えざるを得ないものがある。もしそういうことを何も考えなければ、上智大学の神学部を私は選ぶかもしれない。

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