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世界地平の複数性と人類の未来

カルカイネンというフィンランド出身の神学者の書いている神学各分野の教科書は、欧米以外の神学にも広く目配りしてあって情報価値の高いものである。そのキリスト論を読んでいたら、インドのサマルタという神学者の説が目にとまった。

イエス・キリストは唯一の救い主ではない。救い主はたくさんいる中での一人である、つまり、インドで言う「アヴァターラ」の一人である、と言っているという。これは私がすでにいろいろな本に書いている主張と同じである。しかし、短い記述なので、この説に背景にどのような世界理解があるのかはよくわからない。

アヴァターラのイデーは、この現実世界と高次次元が関連し合ってこの宇宙がある、という理解に立たないと受け入れにくい。インド人にはこれはほとんど抵抗のないものなのだろう。そのような「奇跡」が信じられなくなったのでいろいろ苦労してきていた近代ヨーロッパ人の神学者などどこ吹く風という感じである。(欧米人と言っても「知識人」ではない人々は今でも全く抵抗がなかったりするだろう。アメリカには、聖書にある奇跡や復活を「文字通り」信じている人はごまんといる。何を隠そう私も文字通り信じているが)

アヴァターラという現象とは、高次次元に存在している神的存在が、その神性を保ったままで人間として生まれる、ということを意味している。神性が人間世界に入っていくわけである。

これまでのヨーロッパの神学の歴史を見ていると、「存在世界とはどのように生成するか」ということについて理解が単純だという傾向がある。神がその世界を造ったか、または、神とは関わりなしにそこに客観的に存在しているのか、そのどちらである。前者から後者に変わったわけだが、そのほかの可能性があまり考えられていない。

二十世紀になってようやく、「存在世界は共同主観性により生成しているのではないか?」との発想が哲学から出てきた。これは現象学に始まるものだが、構造主義なども似たようなパラダイムに立つ。日本でも廣松渉によって一時はやったが、要するに「現実は一つの共同幻想」という発想に近いだろう。当然ながら、これはもともと仏教にあった世界観に近いものである。

このパラダイムに立っているのが例の映画「マトリックス」で、誰かが意図的にマトリックスの現実の中に入っていくというのは、一種のアヴァターラと同じである。高次から見ると宇宙はああいうふうに見えるのではないか、とのメタファーがあそこにはあるのだ。

私の普遍神学は、こうした、共同主観性による「地平の形成」を、現実世界が成立するメカニズムと見なしている。そこで主に参考にしているのは仏教の唯識の思想だ。したがって、これは仏教をベースとしてキリスト教的な原理をも包含しようという方向の普遍神学である、とも言える。

重要なのは、こうした「現実の地平」は、「複数ある」ということなのだ。世界は複数なのである。

神学の歴史について、私は概説書をいくつか読んだだけだが、その限りでは、世界の複数性というコンセプトが神学で語られていることはあまりないように見える。哲学では、ハイデッガーもそれに言及したりしているのだが。

物質世界というのもこうした現実の地平の一つであり、宇宙には、これとは異なる世界構造をしている現実の地平もたくさんあるのである。それを異次元世界と呼ぶのだ。したがって、物質世界を動かしている自然法則というものも、この地平内部での「ローカルルール」であり、全宇宙にあてはまるものではない。時間・空間もまたこうしたローカルルールである。このように考えれば、自然法則を破るようなことを神がするはずがない、などという近代神学者の発想は思い込みにすぎないことがわかる。宇宙にはこれより上位の法則があるのだ。

こうした世界地平は神(存在の根源)の「内部」に「分開」されていく、と私は『魂のロゴス』や『叡智のための哲学』で述べている。これは神の自己収縮(ケノーシス)と言えなくもない。この本を書いたときはあまり知らなかったのだが、神学では、モルトマンがこれに近いことを言っている。モルトマンはカバラを参考にしているらしい。私のアイデアはヤコブ・ベーメから来ているのだが、ベーメは錬金術からアイデアをとっているから、歴史的にカバラとはつながっている。というより、これは、表舞台にはあまり出ないが、ヨーロッパ精神史の底流にはつねに存在していた考え方である。それを言えば、ヘーゲルの思想だってまさしくそういうものではないのか。ヘーゲルへのベーメの影響を否定する人はいるまい。

しかし、モルトマンには、そういった世界地平の複数性というアイデアはあるのであろうか。解説を見た限りでは出てこないのだが、そのうちにモルトマンの著作で確かめなくてはならない。

さて私が、世界地平の複数性という基本的な見方に立つことには、重要な意味がある。というのは、「神学的思考の地動説化」ということである。

これまで神学的思考は、ほとんどの場合、神と人間だけを気にしていた。神が気にかけて救済しようとしているのは宇宙に人間だけみたいなイメージがそこにはあるが、それはどうであろうか。世界像は天動説ではなくなったのに、この神学は天と地だけしか視野に入れていない天動説レベルのものである。しかし、地球がこの宇宙における一つの世界地平に過ぎず、宇宙にはもっと無限の世界地平が同時に存在しており、それらすべてを包括しているのが神である、という「地動説的ヴィジョン」が神学的思考にも求められている。

以下に述べるのはあくまで私のイマジネーションである。神は、この宇宙にある無限の世界地平と、そこに存在する存在者の集まりをすべて包含し、自己の知として知っており、それらすべてが「すべてが一つになる」という永遠の完成へと向けて動かしているのである。神の目からすると、この人類の住んでいる世界地平は、決して宇宙の中で孤立しているのではなく、多くの世界地平とその住人たちとの間の複雑な相互関係のもとにあり、多くの助力が地球へと注がれているのである。しかし地球人は未だに、自己の世界地平を超える知覚を十分に発達させておらず、自分の理解する世界地平こそが宇宙そのものであるというきわめて幼稚な認識しか持てないのでいる。しかし、この状況は変わりつつあり、地球人は次第に、より大きな宇宙の存在に気づき始めているのである・・・

「マトリックス」のような映画が出現したというのもこの目覚めの過程の一部である。

このようなヴィジョンから「天使論」を考えるのも必要である。複数の世界地平に気がつくということはそこに本格的な「交流」が開始される可能性があるということである。これからの「新しい人類」は、こうした交流を当たり前のこととして行うことになるだろう。

聖書では、イエスが悪霊を追い出したりしており、同じようなことは今もカリスマ系教会では普通に行われているが、私たちの世界地平と隣り合って異なる世界地平があり、その両者は頻繁に作用し合う、という基本的な世界了解があるならそれはきわめて「信じられる」ことなのである。あるいは、「宇宙人」と言われるものも、このような「世界地平の複数性とその相互交流」というパラダイムから見れば全く矛盾がなく受け入れ可能となる。近代的教育を受けると「世界地平は一つしかない」との形而上学的前提が事実そのものだと教えられることになる。アカデミーでは「世界地平の複数性」を前提としたことをまじめに主張することは難しいのである。

しかし私は、人類の文明は、今後数百年にわたって、そういう方向に動くと思う。つまりこれは、鎖国から開国するような歴史的転換にたとえられる。
このようなヴィジョンは、アカデミーに属している人は決して口にすることはできないが、私のようなフリーの立場だからこそ言うことができるのである。心で思っていても、社会的地位が危うくなるので言えない人もいるだろう。

世界地平が複数あるということは、また同時に、伝統的な宇宙観で言われているように、そこにはある程度の階層性が存在するというヴィジョンを復活させることにもなる。高次世界というものがある。そこでキリストもブッダも観世音菩薩も弘法大師も現に生きており地球界を導いているのである。世界地平の複数性を認めれば、多くの霊的世界観を取り戻すこともできるのだ。

*追記
私の知る範囲では、プロセス神学には、複数の世界地平というイデーが含まれているように思われる。プロセス神学やモルトマンを思い切って違う方向に展開させると面白いかもしれない。プロセス神学には、「平行現実論」へ発展させる可能性もあるように感じる。また、カルカイネンがいくつか紹介しているが、アフリカ人の神学では、人間世界と霊的世界が相互交流しているのは当たり前だという前提が含まれているようである。

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