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佐藤優の『神学部とは何か』


佐藤優の『神学部とは何か』を借りてきて、一気に読んだ。読みやすかったが、これまで読んだ彼の宗教論、神学の本の中ではいちばんよかった。『神学の思考』の前にこれを読むべきだった。『神学の思考』は、かなり本格的な神学入門であるが、プロテスタンティズム色が強く出ている。そのプロテスタンティズム神学というのは、日本の伝統的な宗教性からは最も遠いところにあるので、基本的になじみにくいと思う。キリスト教と言っても東方正教やカトリックの神学(特に最近の)や、また古い教父の神学は全然違うので、むしろそうした非近代的神学の方が日本人にははるかにわかりやすい。が、この『神学部とは何か』はそこまでプロテスタンティズム神学に深入りせず、そもそも「神学とは何か」ということがわりとさくっとわかるように書かれているという意味では、お勧めではある。

神学は虚の学問であるが故に根源的に「役に立つ」という意見には私も賛成である。
神学は哲学とはどう違うのか? 哲学と言ってもいろいろあることは事実だが、これもざっくり言えば、単なる理性では及ばない根本的な領域までも知的に踏み込んでいくのが神学だ、ということである。ここで佐藤は、神学の知性は単なる理性を超えていく、ということを示唆しているが、ここは共感できるポイントだ。

私が提唱する普遍神学とは普通の神学とはどう違うのか? キリスト教神学はまず、イエス・キリストが救い主であることを受け入れることから始まる。普遍神学では、キリストが救い主であることを認めるが、「唯一の救い主ではない」と考える。つまり、そうした人類救済のために地上に生を受けた霊はキリストのほかにもいろいろいたし、今もいる、と考える。言ってみれば高次元世界には「マスターたちのコミュニティー」があって、そこから地球のために様々な手がさしのべられている、と見る。このように、キリスト教という枠を拡張していくのだ。

また、大きく言って、世界の宗教には、「転生」を認める考え方と、認めない考え方がある。キリスト教は初期には転生を認めていたが、やがて認めない方向に舵を切った。転生を認めるということは、魂が肉体より先にあることを前提とする。つまり肉体がなくて魂だけの状態で生きていることがありうることになる。私の普遍神学では、キリスト教が転生を否定したことは誤りではなかったかと考える。その点は仏教などインド系思想に分がある。ただ転生というイメージは、直線的時間という軸で言われていることであり、この軸は物質次元固有のものであるので、霊的次元においては転生というものはなく「平行生」があるだけである。また、魂だけで存在しているというのも厳密に言うと正確ではなく、その場合でも「微細な身体性」を持つと考えている(微細な身体性というコンセプトは西洋の新プラトン主義にもある)。したがって私は、今キリスト教で正統とされているよりももう少し「プラトン主義寄り」に解釈した方がインド思想ともつながるし、そちらがより真理に近い表象になるのではないかと思う。オリゲネスあたりがバランスとしてはよかった。ラディカル・オーソドキシーのジョン・ミルバンクなどは新プラトン主義のイアンブリコスなどを評価するのであるが、私もそのへんの評価軸に近い。イアンブリコスは実践の人であった。

普遍神学も神学である以上、「信仰」を前提とする。しかし一般の日本人は信仰と言われてもよくわからないことが多いだろう。信仰というのは「私は・・・を信じます」という「信仰箇条」を受け入れるということなのであろうか。そのように言うと何か知的な行為のように感じられるが、実はそうではない。信仰というのは「理性では理解できないことがらについて、直覚的に何かを感じること」をもととしている。つまり言ってみれば霊的感覚がその基盤にある。

人間の知性は限られたものだが、人間は、知性でわかる以上のことを何らかの形で「知る」ことが可能なのだという、その見方に立たない限り人間に救いはない。そこに神学があるのだ。ただ、それを人々に共通の言語で表現するときにまた限界があり、いろいろな解釈が生じてしまうのは避け得ないのだ。そういう限界を最初から持っているのである。そこを佐藤優は、神学論争に解決はあり得ないと断言しているが、まったくその通りである。結論は最初から決まっており、そこへ持って行くための論理付けをしているのだという。結論は霊的直観で「こうである」と理解したものなので、論理で到達したものではないからそうなるのである。

もともと神学とはそういうものなのだが、二十世紀の神学(プロテスタティズムは特に)は、「自然科学の言うことと矛盾してはいけない」ということを気にしすぎていたと思う。無理に合わせなくてもいいのだ、ということは近代的世界観へのクリティックがあって初めて可能になる。なので、そういうクリティックが出てきている現在、そういう「妥協の産物」の神学は意味を失った、と私は考えている。そもそも、「神は人類救済のために自分のある部分を地球に降下させ、肉体ある存在として出現させた」という、近代から見れば荒唐無稽なることを信じるのであるのに、何をいまさら科学などに遠慮する必要があろうか。近代を突き抜ける「ぶっ飛び性」を有していることこそキリスト教の強みではなかろうか。佐藤優の『神学の思考』の方には、そういうぶっ飛び性がちょっと欠けていたかな、という気もした。「人間イエス」なんてはっきり言えばどうでもいいのである。人間であると同時に神であるというとんでもないことを言い出すのがキリスト教のパワーなのだ。私はそこに最大の魅力を感じる。そのとんでもなさがある神秘を指し示しているという感性を大事にするべきだ。

ともあれ、「神学は面白い」ということだけ伝われば『神学部とは何か』の役目は果たしていると思うので、ある程度は成功した本だと思う。私も高校時代に神に関心はあったが、さすがに神学部は受験しようと思わなかった。しかし今考えれば、文学部などより面白い勉強ができたかもしれないなあ、と思うが、さすがに就職のことも少しは考えざるを得ないものがある。もしそういうことを何も考えなければ、上智大学の神学部を私は選ぶかもしれない。

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