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知解を求める信仰

ヨーロッパ中世思想のモットーに「知解を求める信仰」というのがある。英語で言うと Faith seeking understanding だ。信仰というのは単に頭だけでなんとかを信じるという浅いものではない。魂次元でなるほどそうだな、と直覚的にわかるということを含んでいる。たとえば「神は愛である」と言ったらほんとうに神が愛であると納得できるような魂的な体験があるということを信仰を持っているというのである。
そういう直覚的な理解を持つという上で、さらに、存在とか世界の構成などについての全体的な世界理解とその「信仰」を統合させ、生きるための基本的な方向付けを得ようとする、これを「知解を求める信仰」と言うわけである(これは、あくまで私の理解である)。

つまり、私のこれまでの本とかこのブログなどは基本的にこうした「知解を求める信仰」という意味での「知」を目指しているし、そういうものを求める人をターゲットとしている、というわけである。

であるから、単に知性だけでは理解できないことを含んでいる。最も重要なことは知性では知られず、ある直覚によってわかるしかない、ということは最初から前提としている。これは中世までの思想の立場であって、近代以降の、理性のみで問題を追及するという立場ではない。

しかしまた、知性はより高次の領域からの「照明」を受けることができ、その導きによって、知性は霊的真理へと導くという役割をすることも可能になる(たとえ、真理そのものに到達できなくても)、ということもそこに入っている(この照明説は、アウグスティヌスに始まるものであり、中世まで有力であった考え方である。私がいろいろなところで「イデーを受け取る」と言っているのはこの照明説をもとにしている)。照明もまた一つのスピリチュアルギフトだと言うことができよう。

こういう考え方で進むのがいわゆる神学なのだが(もっともこれと違う考え方の神学もたくさんあるが)、それをキリスト教の枠からも解き放つものが普遍神学なのである。

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