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「スピリチュアル知識人」が消えた

ジャック・ディアーの本を読んだが、前に書いたように、神学教授だった人が、スピリチュアル・ギフトに目覚めてカリスマ運動に身を投じた、という人。それを読んで、一つのことに気づいた。

それは、ラジカル・オーソドキシーとか、そういうヨーロッパの現代神学とは全く異質な環境にある、ということ。全然、読者の対象が違うのだ。ラジカル・オーソドキシーや、あるいはジェームズ・スミスなどは、基本的にヨーロッパの、キリスト教に関心のある知識層を対象としている。神学部で学んだり牧師であったり、あるいは知識人での神学シンパというか、そんな感じなのだ。ヨーロッパの二十世紀の神学は、いかにして自然科学の世界観と信仰との折り合いをつけるか、という苦悩から生まれている。そこでラジカル・オーソドキシーは、いや、近代の自然科学的世界観なるものも決して「客観的」ではなく、一つの形而上学なのだからあまり気にしなくてよい、という論法を展開していく。つまりターゲットとしている多くの人は、「自然界は基本的に自然法則のみで動いており、神がそこに介入することはない」という思い込みをすでに持っており、それをいかに解体していくかというテーマがある。

ところがジャック・ディアーは、神学教授とは言ってもテキサスはダラスの神学校である。いわゆるバイブル・ベルトと呼ばれる地域のど真ん中だ。その本を読んでいると、「自然法則がどうあろうと、神は必要があればいつでも自分のしたいことをするのは当然だろう」ということが自明の前提としてあるようなのだ。つまりここでは、ラジカル・オーソドキシーのような論法には意味はない。神の絶対性は自然科学を超越するのは当たり前だと思っているのだ。

そこでジャック・ディアーは、スピリチュアル・ギフトがあるということは聖書にはっきり書いてあるということを強調する。むしろギフトを求めなさいと書いてあるのだ。そのように、聖書に裏付けられている、ということが彼やその読者にとってはひじょうに重要なことになるのだ。そしてもう一つは、経験である。スピリチュアルギフトを人々が信じないのは、実際に自分で聖書レベルの奇跡を目撃したことがないからだろう、との論法を展開する。言いかえれば、実際に経験すれば信じるようになる、ということだ。このように、聖書の権威と実際の経験という二つを使って説得していく。ターゲットとしている人たちは、「自然界は基本的に閉じており神の介入を受けるはずがない」という形而上学的枠組みを信じているから、ギフトを信じないのではないのだ。神はやろうと思えば何でもやれるけれど、もう今では必要ないからやらなくなったのだ、という「教理」を信じており、身の回りにも実際に見たことないから、という理由で信じないのである。そこがヨーロッパの知識人とは理由が違うところである。要するに、ヨーロッパの知識人層とはとても遠い世界に、アメリカのカリスマ運動系教会というものは位置している。

そのあまりの違いというものにちょっと考えさせられた。
というのは、私も時々、「あなたは誰に向かって書いているのか」などという質問を受けることがある。
ここで書いているような考察は、どちらかといえば知識人層向けになるのかもしれない。しかし、ヨーロッパと比べて、日本には神学や形而上学の伝統がない。そのため、知識人が、通常の理性を超えた超越的なことがらを論じるという習慣があまりない。哲学はいちおうあるが神学がほとんどない。日本はキリスト教国ではないから当然ではあるが。本当は仏教も神道も取り込んだ総合的神学に向かわねばならないだろうが、そういう学問分野は存在していない。もしあったら私がまっさきに専攻しているところだが、私が大学を受験したとき以来いまだにできてはいない。ここをターゲットにしてもほとんど本は売れないらしいということもわかってきた。佐藤優ではないが、西洋社会が神学という伝統を持っているということは大きな強みなのだな、ということは実感する。日本の知識人は、西洋の根っこにある思想をちゃんと勉強していないので、文明の根幹をなすものがなんであるか、というスケールの大きな思考ができない。

これに対して、私もそこに片足つっこんでいるようなニューエイジ的霊性の世界はというと、今度はさっきのジョン・ディアーではないが、非物質次元が物質次元とつながっていることはすでに当然の前提とされているところもある。これまた、ラジカル・オーソドキシーのようなことを言う必要はほとんどないのだ。超感覚といものがあって、それを開発することも可能である、ということはすでに当たり前なのである。その可能性を改めて思想的に説明したりする必要性はなきに等しいのである。ただ、広く神学を勉強すると、ニューエイジ的霊性のどこが強くて、どこが弱いかということもよくわかってくる。

つまり、もしそういうニューエイジ的霊性の世界の人をターゲットにするなら、ラジカル・オーソドキシーの話なんかしてもあまり意味はないし、内容はもっと変えていかねばならなくなるだろう。

湯浅泰雄などがいた頃は、「スピリチュアル知識人」という存在が影響力をある程度持ったが、今は、ニューエイジ的霊性の世界にいる人々は、ほとんど知識人や学問界の言うことなど気にしなくなっていると思う。つまり、知識人がスピリチュアルに影響力を持っていたという時代は終わったようなのだ。それはたぶん、中沢新一のオウム事件による凋落、そして湯浅泰雄の死去をもって終わったということかもしれない。今はたとえば、普通の人が自分の経験を元に語るようなスタイルの方が人気があるのではなかろうか。あるいは、全然宗教や哲学には門外漢の、東大病院の医師が書いたスピリチュアル本などが人気を博したりしている。

ニューエイジ的霊性についての解説本、知的枠組みを与えるというような試みは、もはや必要とされていないのかも? という気もしてくる。必要とする人はいるのかもしれないが、英語圏はともかく日本語マーケットではペイできないほど少数になってしまっているのかもしれない。そこで、Kindle本あたりが適当なところになる、というわけであろうか。どうも私の本などは、知識人層にとってはあまりに直観的に過ぎ、スピリチュアルの世界の人にとっては難しすぎ(思考が強すぎる)、という「はざま」に入っているのかもしれない。その二つの層は、ラジカル・オーソドキシーとカリスマ教会くらいの違いがあって、混じり合わないのだな、ということである。

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