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神の業は至る所にある

佐藤優(というか、彼に代表される近代プロテスタンティズム神学の一般的な考え方)と私の神学との最大の違いは、神を知る手段が聖書以外にはない、と考えるか、神の業はいろいろなところで起こっており、知ることができるという立場に立つか、である。

いろいろなところというのは、たとえば自然だし、また、癒やしや預言などのいわゆる「超自然」的なことがそれにあたる(本当は「超自然」なんてものはないと思うが)。

いま、ジャック・ディアーという人の本を読んでいるのだが、この人は、最初、「神の啓示は聖書以外に知る手段はない」という一般的な考えを信じている神学教授だったのだが、いろいろな不思議な経験を経て、自分もまたいつのまにかこうした「奇蹟的」なことができるようになってしまった人である。大きく言えばそれもアメリカの一つの宗教的伝統である「リバイバル」の一例である。神学教授の椅子に安住することなく、真理を求めようとする姿勢に感銘を覚える。

このような、現実に神の業が起こっていることを重視するキリスト教は、ペンテコステとかカリスマ運動と呼ばれる。そこにいろいろな危険や幻想がありうることは百も承知であるが、そういうことを一切「ない」と見なして否定する方も、それに劣らぬ、いやそれ以上の危険があると見なすべきだと思う。

私のような脱宗教的霊性の立場からは、カリスマ運動は最も興味深いキリスト教である。原始教会はこれと同じことをしていたのは間違いないのである。それがぶっ飛びというなら、そもそもキリスト教のパワーは本来ぶっ飛びにあったのである。しかし、何もコントロールがなく拡散しがちなニューエイジ的霊性に対して、宗教的なコアを持つカリスマ運動の方が安定している面もかなりある。私は決してニューエイジ的霊性の否定者ではない。むしろ自分自身はその渦中にあるともいえる。しかしニューエイジ的霊性はいかにして霊的なコアを持つのか、明確な組織を持たないだけに難しい面があることも考えさせられる。

ともあれ、そういう「超自然」が現実にあるのであれば、それがあるという前提で根本的に世界観や神学を考え直す他ないだろう。そういうものが「ありますよ」と認めたとたんに崩壊してしまうような神学は崩壊すればいいだろう。そこに「世間からどう見られるか」という自己保身が入り込んでいないかどうかよく吟味するべきだろう。

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