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『ゆかいな仏教』 意外といいかも

久々の記事になった。これからまた少しずつ、読書ノート、研究ノートみたいな感じで書いていけたら、と思う。

さて・・ 今度、橋爪大三郎、大澤真幸による『ゆかいな仏教』という本を読んだ。
実は、橋爪については、昔、言語ゲーム論者だというイメージがあって、そういうのはちょっと軽いな、というイメージで気にしていなかったのだが、佐藤優との対談本『あぶない一神教』を読み、けっこうおもしろかったので、これはどうかな? と、あまり大きな期待をしないで『ゆかいな仏教』を手に取ってみた。Amazonのレビューではむちゃくちゃ叩かれているので、大丈夫かなと思っていたのだが、

かなりいけてる。

と思った。僭越であるが、満足度で採点すると、90点はつけられる。
非常に成功した本だと思う。仏教の本質とは何か、という問いにフォーカスしていて、橋爪なりの仏教観を展開するわけだが、要は、仏教とは「覚りというものがあって、ゴータマはそれを実現した」ということが本質で、それ以外はどうにも変わりうるものだと言う。まったくその通り。そして、その覚りとはどういうものなのか、というイメージを語る。もちろん橋爪が覚っているわけではないからイマジネーションによる推測なのだが、私が見ると、それがけっこういい線を行っているのだ。たぶん、これまでのあらゆる仏教入門書よりも、本質に近づいていると考える(もちろん「あらゆる」はレトリックである。私は全部を読んでいるわけではないのだから)。

余談だが、もちろん、本当に覚った人からの仏教論を読みたければ別のものがある。近代の日本で、本当にこの人は覚っているのではないかと私が思っているのは、鈴木大拙、谷口雅春、五井昌久、本山博といったところだ(西田幾多郎は、覚りの直観的イメージであって実際に覚ってはいないとみる)。大拙よりも谷口師、五井師の方が深いと思うのだが、宗教色があるのが気になる人もいるだろうし、仏教論としてはもちろん学問的に正確というものではない。本山師は先日亡くなったが、インド的禁欲主義の強い説き方なので万人向きではなく、仏教論もあまり語ってはいない(本山氏は平行生でインドのヨーガの師匠だったことがあるらしい)。私は、学問的に正確ではないところもあるけれども、谷口師の仏教論など非常にいいと思っている。仏教の素養が豊富で、ニューソート的な光明思想と日本の伝統をうまく融合させて語っているんじゃないかと思う。

それはともあれ、『ゆかいな仏教』は出色の仏教入門書、あるいは仏教論であると思う。特に「蓮華蔵」の世界観をよく理解していると思った。

ただ留保をつけたいと思ったのは次のところだ。

★輪廻を直線的に理解している。つまり、時間・空間が認識形式だということを織り込んでいないで議論をしている傾向がある。時空形式が空であるという地点に立たないで空を論じることができるのか。

★またこれは、個が存続するというイメージを伴っている。個が続くのが輪廻であるのか。時間がなければすべての輪廻は平行現実である。そして、そのすべては同時に一つの自分である。その自分は輪廻しない。

つまりこの本の議論は自分という個の実体性をやや自明の前提としすぎているという印象を受けた。同時にそれは時間軸の実体視ともリンクしているように見える。その辺が常識に立った立場で仏教を理解しようとするので、そこに限界がある。つまり時空構造のある世界に立ったまま仏教論を展開してもしかたがない。

カルマという因果関係を、覚りに向かうポイントをためるという比喩で理解しているが、著者はそもそも多くの「前世」は時間軸によって継起的に起こるとイメージしている。これは私たちの時空認識構造を自明の前提としている議論である。すべての平行生は同時継起である。そして、阿頼耶識はすべての平行性を統括しつつ、かつ、決して転生した生の時空の中に入っては行かない。これは、プロティノスが「魂の一部は転生せず、つねにかの世界に留まっている」ということと同じである。つまり輪廻しないものがある。阿頼耶識から見ればすべての輪廻は幻想である。輪廻がある、というのはある視点からあれば現実であり、輪廻はないと言ってもそれも間違いではない。どの地点から問うか、なのだ。

もちろん、生が継起的に起こってだんだんよきカルマが積み上がっていく、ということが現実であるかのような世界認識が存在することは事実である。しかし、そういう認識は仏教の本質ではない。そういう仏教もあるが、仏教ならそうでなければならない、というわけではない。そもそも覚りとは「修行の果」としてあるものではないのだ。(いや、もしかすると著者たちは、輪廻というものはヒンドゥー教との妥協であって、本当はそんなものはない、と思っているようにも読める。「何が現実なのか」という問いは、どの地平に立って問うのか、ということを勘定に入れないとあまり意味のない問いであろう。その辺の、問いの発せられている地平という問題意識が、もう少しほしいところだった)。

何もしなくても突然に目覚めが起こってしまうこともあるのだ。別に善人だから目覚めが起こるというものでもない。覚りはそもそもあらゆる人間に備わった可能性であって、それが突然起こる可能性はどこにもあるのだ。だから「覚りとは偉い」という観念も手放す必要があるのだ。ドストエフスキーの小説ではないが、現実生活ではとんでもなくむちゃくちゃでも、なぜか真実が見えてしまった、という人もありうるのである。まじめな話、いま日本で犯罪を犯して刑務所に入っている人は6~7万人いるのだが、その中に数人は、なぜか目覚めてしまっている人が必ずいる、と私は思う。ただ、その認識を現実生活に統合できずにいるのだ。それはもしかして相当に苦しいことかもしれない、と想像する(ここで言うのは、部分的な目覚め体験である。究極的な覚りではない)。

つまり、言いたいのは、著者たちは、覚りというのものに向けてだんだんと努力していって良きカルマを積み上げると覚れる、みたいにイメージしているみたいであるが、これはやはり自分で経験がない人の想像の仕方であって、目覚めはなんだかわからないうちに突然起こってしまうこともある。一回で終わりではなくて、いろいろやっているうちにだんだんその目覚めの視点と自分とが統合されてくる。そこまでいくのがたいへんなのだ。大きな目覚めがどーんとやってきて終わり、というふうにはほとんどならないので、そう思っている人は現実を知らない。この統合ということが一生だけでは終わらないこともたぶん多いはずである。

こうして目覚めの過程に入るときにそれでは私の「平行生」たちとはどういう関係があるのか、ということなのだが、今の私は、たぶんその時、「自分」(これはカッコつきだが)の平行生のすべて、その集合全体が動くのではないかと思っている。

こういうツッコミもあるが、仏教を「目覚め以外に大事なものは一つもない」と断言するのは、ある意味で、禅的な立場である。本質以外はすべてどうでもいいことであり、そういって悪ければ、オプションなのである。なので、レビューなどで「仏教の根本は四法印であって、それをわかっていない著者は駄目である」みたいなことが書いているのは、もう箸にも棒にもかからないどうしようもないものである。いっぺんでも何かを体験した人はこんなことは絶対言わない。すべては方便なのである。仏教はたくさんの教えを含むが、それはすべて方便であり、ある特定の教えには仏教の本質はない。これがまっとうな仏教理解である。そこをおさえているというところが、この本の最大のポイントと言っていいだろう。覚りというものがいかにとんでもないものであるか、という想像力をある程度持ち得ているのも評価できる点である。ただ、今の時代、目覚めとは何億年も修行しなければ達成できないほど困難なものとイメージする必要があるのか、その部分はちょっと疑問である。時代は急速に変わっているのだ。

ということなので、ぜひ続編として、『ゆかいな仏教・東アジア編』を書いて頂き、天台、華厳、そして禅を語ってもらいたい、と希望するのである。

4905425573ゆかいな仏教 (サンガ新書)
橋爪大三郎 大澤真幸
サンガ 2013-10-28

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4531050142無門關解釋
谷口 雅春
日本教文社 2001-01

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