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キリスト教の「奇跡」をどう扱うか

『ゆかいな仏教』につづいて、当然、『ふしぎなキリスト教』にも興味を持ち、読み始めたが、こちらは、仏教篇ほどの高い評価ではない。読む価値はあると思うが。

全体からすれば小さいことかもしれないが、キリスト教の場合は「奇跡」が、多くの人のつまづきになるのである。現代人には、理解が難しい。

1 キリストは神の世界から降下して人間となった。
2 キリストは一度死んだが復活した。
3 そのほか、死人をよみがえらせ、病気治しなども行った。

1は、インドにもよくあるアヴァターラの思想、2と3は、精神界の方が物質界より優位にあるという問題である。

奇跡についての見解を見ると、その人の立ち位置がほぼわかってしまうのだが、『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎、大澤真幸を見ると、明らかに、これらをありえないものと見なしている。

つまり、このお二人は「物質界の法則は精神の作用のみによって改変されることは決してあり得ない」という世界観を自明のものとしている、ということになる。

知識人によくあることだが、たとえば「時間とは何か」とか哲学的に論じているときには、時間が認識形式にすぎないことを理解しているのだが、いざこういう個別の問題になると、とたんにそれはどこかへいってしまい、世界が時空形式で存在していることを自明としてしまうのだ。

世界が共同幻想であることを骨の髄までわかっているのか、という問題なのである。
つまり、この世界の構造を、この世界にしか通用しない「ローカルルール」と見るのか、それとも全宇宙に適用されるべき「グローバルルール」と見るのか、ということでもある。

そして、これを「グローバルルール」だとするのが現代世界の常識で、多くの人が自明と思っている。知識人もそれは例外ではなく、この自明性を本当に疑えている人は数少ない。また、この自明性に乗って論じていかないと、多くの読者はついていけない。どうしてもそれを超えると「ぶっ飛び」と見なされる可能性が高くなる。従って、ある程度社会的な地位を築いている知識人の中には、この自明性を疑えている人はほとんどいないのである。

宇宙には「他の次元」(地球人類的時空構造を超えた領域)が存在しており、その「他の次元」とこの共同幻想的な世界には密接な連携が存在している・・このような世界観に立たない限り、キリスト教を「信じる」ことはできない。

しかし、これまでのキリスト教神学は、キリスト教と現代の「閉じたシステムとしての物質界」というパラダイムを妥協させようとしてきた。あるいはバルト的な聖書至上主義への「逃避」しかない。この世俗化した宇宙認識が一つの幻想であることを神学は見抜けていない。
神学は伝統的には「存在の連鎖」として、「神の計画した存在世界をどう認識するか」というパラダイムでやってきたのが、その存在の連鎖という思考方式が崩されてしまい、その代わりとなる世界認識の方法を持ち得ていないのである。哲学のほうでは共同主観性のパラダイムが出てきているのに、それを神学と結びつけることはできていないのではないか。

私のこれまでの著作は、唯識の認識方法を拡張していくと、キリスト教も理解できるようになることを示しているのである。
多層的宇宙観に立たない限りキリスト教が復活することはないのではないか。

「奇跡などないことにしよう」と、奇跡を遠ざけることでキリスト教を「純化」しようとしてもそれはキリスト教の力をそぐだけである。「奇跡もありうる、という世界観は可能なのか」という問いを、ほとんどの知識人が問うことができていない、ということが問題なのである。

しかし、こっちの世界の他にあっちもあり、たくさんあり、そこに神があって、私たちとそっちの次元はつながっている、という世界理解を素朴に持っている人はきわめてたくさんいるのである。つまり「物質世界の法則は他の次元からの影響を受けない」「そもそも他の次元などはない」というパラダイムを自分のものとしていない人々は多い。しかし知識人になって行く過程でこういう多次元共存型の世界理解は振り落とされていく。そうした、エリート層の世界観的バイアスというものがある。「知識人バイアス」である。残念ながらさすがの橋爪大三郎もそれから自由ではないのだ。

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