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ブッダはそこに坐っているだけで・・

休眠同然だったブログに、何を突然、書き出したのかという感じだが、それだけ、『ゆかいな仏教』に刺激されたということであろう。基本的に、この本には90点をつけているという前提の上で、ちょっと気になった箇所にツッコミを入れるということである。そこに、今の状況の問題点があぶり出されているので。

この『ゆかいな仏教』では、仏教修行の「自利・他利」についていろいろ食い下がって語っている箇所がある。
つまり、出家して修行して覚ろうというのは、自分のためのみにやっていることだろう、それでいいのか、という問題意識があるようなのだ。そこで、利他行ということが言われてきたとか、そういう話。

私が覚るということは、私の精神状態が変わるということで、私はいいかもしれないが、それで他人とか世界はべつに変わらないんでしょ、というのが、この著者たちの持っている常識であることがうかがわれる。

そうなのかな?

なんでこんなふうに、今の時代に、ニュートン的な世界の見方をするの? と思った。ニュートン的というのは、古典物理学的ということだが、つまり、時間空間があって、そこに「粒子」として何かが存在する、という世界像のこと。
でも、すべては、粒子であると同時に波動なのだよ?

人間はたしかに粒子的に存在もしているが、同時に波動的にも存在している。
この認識方法が、著者たちに欠落しているのを感じた。
波動的というのは、自分の身体の境界に収まるものではない、ということと、他の波動と容易に共振、共鳴もするということも含まれる。
そもそも身体があってその中に意識があるのではなくて、意識があってそれが身体という感覚を作っている。意識とは波動的な存在である。

なぜ、自利・利他という話になるととたんに唯物論的な発想になってしまうのか。

ブッダみたいに深い覚りにある人は、ただそこに存在しているというだけで、何も外面的な行動をしなくても、それだけで人類全体の波動を清め、高めるのだ。

これがわかっていない人は、まだ本当の意味で門の中に入っていない人だ、と判断できる。
べつに隠しているわけではない。こんなことは早く、世間の常識になってほしい。
世界を波動と見て(エネルギーとして、と言っても同じようなことだが)、覚りというようなことも波動的な現象と見るのだ。
こんなの、常識ですよ。

心理学でも、ユングあたりになると、心とは波動的なものであることを明確に知っている。だからそこに共時性ということも言われてくる。心が作り出す現実もまた波動であるから、共鳴するのだ。

橋爪・大澤両氏のような、おそらく世界人類の中でも知性において上位から0.01%以内に入るであろうような優秀な人でも、いつのまにか「唯物論モデル」でものを見るという習慣を疑うことができていない。現実を古典物理学的に見てしまうという思考の癖を相対化することができていない。

90点といいながらまったく駄目みたいな言い方になってきてしまうのは恐縮至極だが、宗教論を言う人は、そもそも「霊的に力がある、とはどういうことか」を理解していてほしい。
このコンセプトは、近代世界にはないものだ。だから、近代世界のパラダイムを根底から疑う必要を感じていない人には何のことかわからない。当然、佐藤優だってわからないだろう。

外面的行動として表れないとそれは何もやっていないことと同じ、というのは近代西洋のパラダイムだ。そう思っているのは、精神と物質は別の秩序だと思っており、精神で物質は動かせないから、何らかの物理的行動がなければ他者に影響を及ぼせない、という古典物理学的世界観なのである。

しかし、心も物質もすべて波動。本当は、心とものの区別などはない。その区別そのものが心的現象である(これは哲学をやればわかるはず)。
そこまでは量子論のアナロジーでわかるかもしれないが、さらに、波動の作り出す現実は層をなしている、というところまでパラダイムが拡張しないと、宗教のエッセンスはわかってこないだろう。

霊的に力がある人は深いレベルで他者を救う能力がある。

医学部で勉強している人に、「そんな自分のための勉強ばっかりしてないで、世の中に出て人のためになることをやれ」と言う人はいない。それやったら毛沢東の下放運動になってしまう。
医学を学んでいない人がどれだけ病気の人を救えるのか。みな、医学部を出ればそういう力を身につけられることを知っている。だから、世の中に出ないで何年か集中的に勉強することを意義あるものと認めている。

ところが、宗教的な修行をしている人に向かって「そんな自分のための修行ばっかりしてどうするのだ」というけちをつけるというのは、どういうことか。つまり、「その勉強によって人を助ける力が飛躍的に高まるのだ」という事実をまったく知らないから、そんな蒙昧なセリフを吐けるのである。
こういうことが世間の常識から失われてしまっているのは、いかに、唯物論バイアスに私たちの社会が冒されてしまっているか、ということなのである。

自利、利他、そんな難しい話か? おぼれている人を救おうと思ったら、まず、自分が泳ぎを習わなくてはいけない。そういう単純なことにすぎない。

ブッダの光明がいかに世界救済の力を持っているのか、それがわかるということがなければ、本当に仏教がわかったとは言えない、と思う。

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