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大乗の肯定

そういえば、『ゆかいな仏教』で、大澤氏が、「どうも仏教では、生きることをネガティブにとらえるという価値観があるんじゃないか、そこが気になる」という意見を述べていた。私もこの意見にかなり賛成だ。特に初期仏教、小乗仏教にそれが強い(もちろん、「上座部仏教」と呼ぶのがポリティカル・コレクトであることは百も承知である。「小乗」とあえて呼ぶのは挑発である)。

やはり、インドの思想全体として、生きることを苦ととらえ、そこから離脱するのがよいことなのだ、という価値観はどうしても見え隠れする。「なんでこんなところに生まれてきてしまったんだろう」という感覚である。

実は、先日あちらに帰られた本山博師も、平行生がヨーガの先生だったせいか、インド的な考え方をされる方で、「なんでこんなカルマまみれの汚い世界にいるのか、もう二度と生まれてこない、と思った方がいいよ」とか、「早くこちらでの仕事を終えて、神さまのところへ帰って昼寝をしたい」というようなことをよく言っていたものである。インド的な宗教観からすれば当然そのような感覚になるのだろう。ギリシア哲学のプロティノスなどにも、こうした感覚は多少ある。

しかし、先にも書いたように、仏教とは「目覚めというものがあり、それをゴータマが実現した」という以外に、信じなくてはいけないものはないのだから、こういった悲観的な世界観も、単にインド人の思い癖にすぎないと、切り捨てることもできるのである。東アジアの、天台や、禅の世界に入れば、そのようなペシミズムなど影も見つけることはできない。あるいは日本の美学のように、そういった無常でさえも、美しく味わうべきものとして肯定されることになる。

いや、切り捨てる、のではない。「それもわかるよ。でも、それもまた一面の考え方だよね」という感じであろうか。
また別の言い方をすれば、宇宙全体としての仏陀、つまり盧舎那仏は、あらゆる経験を創造し、それを包含することを望んでいる。その無数の平行世界の中に、そういう現実を経験する小我もまた、出現することを望んだ、とも言えるのである。

ショーペンハウアーはインド思想から、生とは無目的な流動であり、そこからの解脱をインド思想は説いている、と受け取ったが、それはまったく間違いというわけではなかった。ただインドにも、生の肯定を説く思想家もいるにはいた。ラーマーヌジャなどはそうだが、後世のタントリズムも、生の肯定を動機として生まれたものだろう。

いま、日本では、小乗仏教の伝統に立つ仏教僧が来ていて、瞑想を教えたり、たくさん本を書いたりしているし、日本人でも、小乗の修行を始め、仏教とはこれなんだ、と主張する人が出ている。はっきり言って、私はそれは必ずしも評価しない。豊穣なる大乗の伝統を保持する日本が、何を今更小乗に戻らなくてはいけないのか。大乗の中にほとんどすべてのものはある。生の否定を説く小乗は今の大多数の日本人には必要ない。ただ何らかの理由でその修行を意味あるものとしている人生もあるので、そういう人のためにあるということである。

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